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私とカズオは、ヤスコをゆっくりソファに座らせた。
先日も、それらしきものがあったらしいが、病院からは「まだです」といわれたらしい。
とにかく歩くといいと言われ、今日も買い物に出たらしいが、もしスーパーで産気づいてたらどうしたんだろう。
私にはきょうだいもいないし、もちろん出産経験なんてないから、ちょっとしたパニックだ……。
「感覚が、短くなったら病院に電話して、入院セットは準備してあるし……」
少し痛みが和らぐと、ヤスコは身の回りのことをチェックし始めた。
「大丈夫?」
さっきから、そればかり繰り返している私を見て、ヤスコは笑う。
「大丈夫よ、出産は病気じゃないんだから」
「あ、そうか……でも、痛いんでしょ?」
「痛いけど、この子もがんばってるからね」
そう言って、お腹を優しく撫でた。
撫でてから、また襲ってきた陣痛に、前かがみになる。
「ねえ、ヨーコ」
「ん? 何?」
「わるいんだけど、しばらく一緒にいてくれないかな。ダイスケ、今、韓国に出張してて、帰ってくるの明日の昼なんだ。もしかしたら、それまでに生まれちゃうかもしれないし……誰かに居てもらえたら、私も心強いから」
「え……?」
私は思わず振り返って、カズオの顔を見た。
不安そうな顔をしてるのかもしれない。
どうしてだかわからないけど、自分で判断ができなかった。
カズオはためらうことなく頷いた。
「俺たちで良ければ。なんなら立ち会いますよ」
得意の笑顔でそう言って、私に向かって、同意を求める。
「そうそう、いざとなったら、私が取り上げるから!」
ヤスコが真剣に頼んでいるというのに、調子に乗ってそんな言い方をしてしまった。
なんか、テンパってる、私。
さっきからわかってるけど、別に私が出産するわけじゃないのになぁ。
こんな私を、ヤスコは笑った。
「ヨーコ、変んないねぇ」
「え?」
「ううん、なんでもない。でも良かった。お願いするね」
「うん」
ヤスコが言ったことの意味が、私にはあまりピンとこなかった。
ひっかかったのだけど、今はそれを考えてる余裕がない。
どんな風にヒトが生まれてくるのか、私は何にも知らなかった。
そりゃあ、どうやったら妊娠して、どこから生まれてくるのかくらいは小学生の頃から知ってるけど、どんなふうに陣痛がきて、それからどのくらい時間をかけて生まれてくるのか。
陣痛がきてからも、すぐには生まれるということではないらしい。
間隔が短くなって、短時間で出産する人もいれば、12時間から20時間、あるいはそれ以上、陣痛という激しい痛みに耐えて、あげくに帝王切開なんてこともあるんだとか。
ヤスコの言う通り、病気じゃないにしても、大事には違いない。
しばらく様子を見て、夜になってからヤスコが病院に電話をすると、入院の準備をして来て下さいといわれ、私たちはタクシーで産院へ向かった。
看護師さんたちは、驚くほど「普通」に対応する。
あたりまえか。
産婦人科なのに、出産でいちいち慌ててバタバタするのも、かえって怖い。
だけど、人がこんなに苦しんでいるというのに……。
「痛い……」
ヤスコはわりと気の強い方だったし、弱音を吐くタイプじゃなかった。
だから、こんなふうにされると、よっぽど辛いんだろうと思ってしまう。
カズオは、しばらくロビーにいると言っていた。
天使であれ、男のアイツにとって産婦人科は、やっぱり居づらい場所のようだ。
だけど、アイツが今日、ヤスコの声に振り返らなければ。
そばにいて欲しいという、ヤスコの言葉に頷いていなければ。
たぶん、私は今ここにいなかった。
「ヨーコ……」
「ん?」
「ごめん、お願いがあるんだけど」
「何?」
「肛門、押してくれない?」
「は?」
困った、私にそんな趣味はないよ、ヤスコ。
まるでその言葉が聞こえたかのように、ヤスコは苦笑した。
「ちょっとは陣痛が軽くなるんだって。やってみてくれない?」
「え? あ、そうなの。うん、わかった」
そういうことか、ゴメン、ヤスコ。
それから。
一体どれくらいの時間が過ぎただろう。
看護師さんは、時々様子を見にきて、下腹部をさすると楽になるとか、いろいろ教えてくれて、いいと言われたことは、すべて実践してみた。
カズオもたまに病室を覗いては、また出て行く。
ヤスコの額にあぶら汗がにじんで流れる。
私は天井を仰いで息をついた。
私の母親も、こんなに苦しんだんだろうか。
自分の生まれてくる様を、もちろん見ることはできなかったし、覚えてもいない。
いつの間にか自分はこの世に存在していた。
私の誕生にも、おそらくたくさんの人が関わっていたんだろう。
ふと、そんなことが頭の中を掠めた。
「じゃあ、そろそろ分娩室にいきましょうか」
笑顔の看護師さんに連れられて、つらそうなヤスコが歩いて分娩室へ向かうのを、私はぼんやり見つめていた。
「行ってくるね」
振り返って、ヤスコが気合の笑顔を見せる。
「うん、がんばって!」
私は両手を握り締めてヤスコを送り出した。
姿が見えなくなって、私は少しほっとした。
ふと窓の外を見ると、すっかり空が明けていた。