file1-4「my life?」
タクシーを拾おうかとも思ったけれど、なんとなく歩いた。
車から声を掛けられたけど、今夜は無視した。
大きな川の上に掛かる橋を渡り始めると、冬がもうすぐそこまで来てるように、時折冷たい風がすり抜けていく。
そして私は、うっかりそこをただ通り過ぎるところだった。
「あの……」
そして、私は話し掛けてしまった。
やめればいいのに。
「ひぃっ……」
その中年のオッサンは、震えながら私の声に驚いて振り返った。
「何、してるんですか」
聞かなくても、わかってる。
だって、その人は欄干の向こう側に立っているんだから。
でも、後ろ手に必死にその欄干にしがみついて、背中を反っている。
飛び降りようと思ったものの、いさぎよく飛べないんだろう。
それにしても、私を見て大きく目を見開いて、化け物でも見たような態度はなんなのさ。
「来るなぁあ!!」
さっきの悲鳴はどこへやら……ものすごい大声に私は思わず身を引いた。
そして、まるで私がオッサンに何かしたかのように、恐ろしい目で睨んでくる。
「近寄るな……飛び降りるぞ!!」
どう見ても飛び降りそうに無いオッサンの姿に、その言葉は全く説得力が無い。
でも、今ここで飛び降りて死なれるのは嫌だ。
これ以上、人の死を看取りたくない。
「飛び降りろよ」
「なっ……」
オッサンの凄んだ顔が情けなく歪んだ。
その目線の先を追うように、私が振り返ると、見覚えのある男が腕を組んで偉そうに立っていた。
「死にたいんだろ?だったら、とっとと飛び降りちまえよ。見ててやるぜ」
「ちょっと! アンタ、何言ってんのよ! って、なんでここに居るのよ!?」
「さっき言ったろ? 俺はオマエ連れてかなきゃ、帰れないんだよ。その辺で勝手に死んで彷徨われちゃ、回収が面倒になるから監視しなきゃなんねぇの。おわかり?」
そう言って、男は私の横に来て並ぶと、私の顔を見てニッコリ笑った。
数時間前にシャワールームに入ってきた時と同じ、人懐っこい笑顔。
「アンタら、なんなんだ……」
「俺は天使、こいつは死に損ない」
「死に損ないって何よ!?」
「オッサン、こいつも死にたがってるから、ひとりで死ねないなら、一緒に連れてってくれよ」
男は私の肩を掴むと、乱暴にオッサンの方へ突き飛ばした。
オッサンは私がぶつかるのを避けるように移動して、私は欄干に手をついた。
思わずオッサンと目を合わせ、ふたりでほっとする。
たぶん、ぶつかっていたら、間違いなくオッサンは川へダイブしていたはずだ。
とにかく、コイツはほっといて、なんとか説得しなくっちゃ。
「すいません、私が話し掛けたから、飛び降りるのやめられなくなっちゃったんですよね」
一瞬緩んだ顔を再び凄ませて、オッサンは私を睨む。
中年って、半端なプライドがあって、こういう時引き下がりにくいんだろうな。
「私、誰にも言いませんから。素直にやめましょうよ」
「オマエらに何がわかる……」
睨んでいた目が次第に潤んでいくのがわかる。
ああ、23にして、中年のオッサンを泣かせてしまった。
「俺には、俺にはもう何もないんだ……仕事も、家族も、金も、なにもかも……死ぬしかないんだ。だから俺は、死ぬんだ」
健康そうな赤い頬に涙がこぼれる。
何もない、か。
「あなたは……『ケンコウ』なんでしょ?」
「なんだい、急に」
「私には家族も仕事もないけど、お金はあるんです。でも、私の体、たぶん、そのお金を使い切る前に、使い物にならなくなるんです。健康な体があれば、これから仕事だって見つけて、すこしでもお金稼いで、家族だって新しく作ることはできるんじゃないかって、私は思うんですけど……」
「アンタがどんな体だか知らねぇが、俺は死ぬしかないんだよ、死にたいんだ」
「でも……」
「ヨーコ、コイツに何言っても無駄だって」
私が言いかけたのを遮るように、あの男が横から入ってきた。
「そんな命の無駄遣いしたい贅沢者は地獄行きだぜ。生きてるより苦しいらしいよ。俺、死神じゃないからよく知らないけどね。どうやら、オッサンには俺の翼は見えないみたいだし、お迎えは死神かなぁ」
「アンタ、こんな時に、さっきから何言うのよ。馬鹿じゃないの」
「馬鹿なのは、このオッサンだろ、死にたいんならこうやって話してないで、その手離して、さっさと飛べばいいじゃん。俺の言うこと、間違ってるか?」
「もう、馬鹿!!」
死にたいなら、手を離して飛べばいい。
それは、間違ってないよ。
だけど。
間違ってる。
人は、みんな無いものねだりで、本当は幸せなのに、それ以上になりたくて、自分を不幸にしてる。
私だって、本当は、わかってるんだ。
男の表情がふと変わって、私はその視線の先を見た。
オッサンが、欄干からゆっくり手を離したのだ。
「ちょっと、待って!!」
強張った顔で、叫んだ私の方を見る。
「死にたくないんでしょ! ずるいよ、まだ生きられるのに、死なないでよ!!」
心臓の音がドクドクうるさい。
「私なんて、あと半年しか生きられないんだよ!」
そうなんだ。
「まだやりたいことだって、たくさんあったのに……」
わかってたけど、私も素直になれなかった。
「まだ私、生きたいんだよ!!」
叫びながら、涙が流れていくのがわかった。
冷たい頬を伝う、熱い涙。
まだ、生きてる。




