file5「fly」
冬が、終った。
穏やかに、日々は過ぎていく。
痛みはもう諦めた。
あがいたところで、治まるものでもない。
迫り来る死も、逃げたところで、結局捕まる時は同じ。
それならば、静にその時を待とう。
「カズオ」
その名を呼ぶと、彼はこっちを向いた。
背中には、翼がある。
「どうした?」
私が眠るベッドに座り、顔を覗き込んで髪を撫でる。
慣れた仕草。
「行きたいところがあるの……」
「うん」
「昔ね、子供のころ、よくおじいちゃんが連れてってくれたとこなんだけど」
祖父の家は電車やバスを乗り継いで3時間くらいかかる田舎にある。
古い町で、祖父が元気だったころは、小さな町もそれなりに活気立っていたが、祖父たちの世代が終っていくと同時に、その町も衰退しはじめていた。
子供のころ、町から少し離れた林に、祖父がよく連れて行ってくれた。
「薄暗い林の中を、ずっと歩いてくの。そうしたらね、急に菜の花畑が広がる場所に出るの。そこだけ、ぽっかり天井が抜けたみたいにお日様が差してて……子供のころは、天国みたいって思ってた」
「ふうん……」
「もう少しで、咲くと思うんだ」
「じゃあ、朝になったら行こう」
「うん……」
そうか、まだ夜が明けてなかったんだ。
時間の感覚が、あまりわからなくなってきた。
春が近づいているのはわかるけど、今が何月何日何曜日かわからないし、知ったところで特別今の私に必要の無いもの。
カズオの白く綺麗な翼が、はっきりと見えるようになってからは、本当は目を閉じるのが少し怖い。
次に、この目が開くのはいつだろう……。
目は、開くのだろうか……。
だから、最期に綺麗なものが見たい。
たぶん、あの場所に行ったら、安心できる気がする。
何の根拠もないけど、子供のころに「天国」って想像した場所だから。
「起きられる?」
「ん……」
いつの間にか朝が来た。
少しは眠れたのかもしれない。
祖父の田舎に行くのは何年ぶりだろう。
「久しぶりの外デートじゃん」
「そうだね」
カズオは相変わらずの笑顔。
最近二人で外に出かけるのは、病院に送ってもらう時だけだったもんね。
病院に行けばサトルには会ったけど、私の気持ちとカズオの存在をちゃんと伝えたら、わかってくれた。
病院の帰りに、よく陽子にも会いに行った。
赤ちゃんの成長は早い。
毎日毎日変化して、見ていて本当に飽きなかった。
母親のヤスコは大変そうだけど、それでも何より幸せだって言ってた。
私の病気のことや、死のうとしていたことも話したら、一緒に泣いてくれた。
私自身を縛り付けていたもの全てが、解けて消えた。
「来たよ」
ゆっくりと電車がホームに入ってくると、少し暖かくなった春の風が柔らかく私の体を包んで通りすぎた。
田舎へ向かう電車内は、徐々に乗客が減って、目的地に近づくにつれて、人もまばらで年齢層も高い。
窓の外は耕され始めた畑や、水の入ったばかりの田んぼが広がっている。
懐かしい。
私は、だるい体をカズオの肩にあずけた。
「ありがとう、付き合ってくれて」
「俺も、ヨーコの思う天国が見てみたいからさ」
電車に乗ってから、ずっと手を繋いでくれている。
優しく、でもしっかりと。
「いろんな事、あったね」
「うん」
「あの時、飛び降りてたら、今ここに居なかったね」
「当たり前だろ」
「そういう言い方も、もう慣れたなぁ。最初はいちいちイライラしてたけどね」
「ふうん」
「でも、カズオがたくさんのきっかけをくれたから、私、すごく楽になれた。ねぇ、どうして私と一緒にいてくれたの?」
ずっと、知りたかったこと。
「さぁな。成り行き、かな? 仕事だし」
そんな風に言うと思った。
思った通りで、ちょっと笑った。
「もうちょっとだね」
「何が?」
「仕事」
「……そうだな」
少し、声が淋しそうなのは、気のせいかな?
顔を覗き込む元気はないや。
どんな顔、してるのかな。
「私たちって、結ばれないの?」
「今更俺に、そういうこと聞く? だいたい結ばれるって、結婚ってこと? 曖昧な幻想だぜ、愛とか恋とか、そういうの」
「ふふ、聞いてみただけ。じゃあ、言い方変えるね」
「なんだよ」
「また、会える?」
本当は、離れたくないけど。
たぶん、もう二度と会えないんだろうけど。
「ヨーコが生まれ変わって死ぬときに、また迎えに来てやるよ」
「そっか……男に生まれても?」
「うーん、考えさせて」
「もう」
ふたりでくすくす笑った。
私はもう、この世に未練なんてない。
だけど、できるだけ、コイツと一緒にいたい。
こうやって、くっついて、笑いながら、あと少しだけでも。
「ねぇ、死んだら、どうやって天国まで連れてってくれるの? どこまでカズオと一緒にいられるの?」
「それは、死んでからのお楽しみ」
「えぇ?」
「楽しみあった方がいいじゃん、どうせ死ぬならさ」
「まぁ、いっか」
電車の揺れる振動が心地良い。
私は静かに目を閉じた。
「疲れたから、少し眠っていい?」
「うん」
本当に、疲れた。
久々の遠出だもんね。
こんなにいっぱいカズオと話したのも久しぶり。
こんな時間が永遠に続けばいいのに……。