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「ただいまー」
私だけなら、十五分で往復できる距離を、ミヨちゃんと一緒だと、四十分もかかってしまった。
見慣れないスニーカーが揃えておいてある。
たぶん、さっきのヘルパーさんだ。
「おかえりー」
元気な声が返ってきたかと思うと、いきなり紙おむつ姿のカズオが現れた。
私は唖然としたが、横でミヨちゃんは、きゃあきゃあ言って笑っている。
「斉藤さんに介護してもらったよ」
と、おしりをこっちに向けて、親指をくわえ、セクシーポーズでウインクする。
腰の曲がったミヨちゃんが、親指をくわえると、自然と似たようなポーズになって、カズオも爆笑した。
「もう、僕にそんな趣味はないですよ」
奥から若干冷ややかな目で、セクシーポーズの二人を見ながら斉藤さんが出てきた。
「なんだよぉ、斉藤さんノリ悪いなぁ」
「悪いなぁ」
カズオの悪態に、ミヨちゃんも続いた。
ああ、もう、まったくこの二人は……。
斉藤さんはスニーカーを履いて、ミヨちゃんを見た。
「じゃあ、島田さん、また来週来ますね。今日は、食事の用意も、掃除も必要なかったから、ベッドのシーツだけ換えときましたよ」
「いつも、ありがとうねぇ。斉藤さんも、一緒にどうだい、仮装パーチー」
「僕は、また次に伺うお宅がありますから、失礼しますよ」
優しく微笑む斉藤さんを、ミヨちゃんは名残惜しそうに見送った。
「じゃあ、ケーキも揃ったし、そろそろ始めようぜ」
そう言って、カズオがミヨちゃんを茶の間に連れて行ったのを見てから、私はそっと斉藤さんの後を追った。
門から出ると、少し遠くに斉藤さんの背中を見つけて、私は走った。
「あのっ!」
「はい? どうかしましたか」
少し乱れた息を整える。
何度も息を吸って、吐いて。
呼吸とはうらはらに、心臓は早鐘を打ち続けている。
振り返った斉藤さんは、私の様子を伺いながら首をかしげた。
「あの……」
何を、私は知りたいんだ。
「はい」
あなたは……あなたも……。
「天使、なんですか?」
私は今、どんな顔してるんだろう。
斉藤さんは、ふっと鼻で笑ったようだった。
「島田さんが、僕の背中に翼があると言ってましたか」
「……はい」
「そうですか」
眼鏡を押さえて少しうつむくと、街灯の陰になって表情がよく見えない。
次に顔を上げると、とても柔らかな笑顔で私を見下ろした。
「島田さんは、自分の年齢をいくつと言ってました?」
「え……たしか、89って」
「本当は、まだ83歳なんですよ。それで、旦那さんはいつ亡くなったと?」
「それは、10年前って」
「仏壇の上の写真を見たことは?」
「……いいえ」
「旦那さんは、もう30年も昔に亡くなったんですよ。戻ったら見てください、とても若い写真ですから」
「………」
それは。
「あのくらいの年の人によくあることですよ。僕も、迎えに来たのかって言われた時には驚きましたけど。上手に付き合ってあげてください」
そうですか。
「それとも」
斉藤さんが、私にぐっと近づいた。
「あなたにも、見えますか?」
穏やかな声とはうらはらな、鋭い眼光が私を貫くように襲う。
……怖い。
あなたは、一体……。
「なんて、冗談ですよ。ごめんなさい、びっくりしましたか?」
そう言われても、私は笑えなかった。
たぶん、どちらにしても、こんなふうに言われるんだと思っていた。
この人が、天使であろうと、なかろうと。
「さぁ、島田さんも、彼も突然あなたがいなくなったら心配しますよ。せっかくのクリスマスパーティーでしょう」
きっと、この人も、私が何を考えてるのか知っているはずだ。
そして、これが天使の仕事。
本当はその存在を知られることなく、いつのまにか死期が近づくと同時に側にいて、アイツが言ったように、魂が彷徨わないように回収する。
アイツだって、あんなヘマをしなければ、あのあと飛び降りた私の魂を回収して……。
「島田さんも、今になってあなた方に一緒にいてもらえて、幸せだと思いますよ。念のため、ご家族にもあなた方のような人が、島田さんの面倒を見てくれているとは伝えましたが。すぐ側に住んでいる、たったひとりの親でも、こう年を取って面倒になると、無関心になってしまうなんて、ひどい世の中ですね」
「え……すぐ側って」
「ええ、島田さんの息子さんは、ここから車で10分もしないところに住んでますよ。娘さんだって、そう遠くに所にいるんです。面倒を見ようと思えば、毎日でも来られる距離です。それに、一緒に住もうと思えば、それもできないことじゃないのに。それぞれ事情はあるんでしょうが。僕から言わせてもらえば、なんて親不孝だと」
「………」
「色々と、余計なことを喋り過ぎましたね」
斉藤さんは、優しい表情に戻って微笑んだ。
「じゃあ、メリークリスマス」
そう言って、右手を上げると、斉藤さんは再び歩き出した。
私は、話を聞いているうちに、悲しくなってきた。
ミヨちゃんは、子供たちは遠くにいるって言ってた。
でも本当は、そんなに近くにいるのに、ミヨちゃんの最期が近づいているのに、会いに来ないの?
あんなに腰が曲がって辛そうなのに。
ゆるい入れ歯をがふがふ外して大笑いするような、最高なばあちゃんなのに。
小さくて、今にもつぶれちゃいそうで、だけど、すっごくかわいくて……。
「ヨーコ、何やってんだよ、ミヨちゃん心配してるぞ」
その声に振り返った。
「カズオ……」
「早く来いよ」
「うん」
って、泣きそうな私をなぐさめる為なの、その格好は。
「アンタ、変態行為で捕まるわよ」
「なんだよっ! わかってるから、だから、早く行こうぜ」
カズオは、さっきの紙おむつ姿で、ミヨちゃんの小さな赤いつっかけに大きな素足を強引につっこんで、なぜか上半身は私の白いコートを着ている。
「あははは、その格好、最高」
「いいから」
笑い転げる私の側に来て、羽織っていたコートを私にかけてくれる。
「風邪ひくぞ」
そうか、そういうことだったんだ。
「ありがとう」
だけどねぇ。
「寒っ!」
「やばいって、その格好」
結局上半身素っ裸に紙おむつで、私の前を走っていく。
私も走って追いかけたいが、あまりにも面白すぎるカズオの姿に力が入らない。
それでも必死で追いついて、私も家に駆け込むと、心配そうな顔でミヨちゃんが待っていた。
「ただいま!」
「おかえり!」
すぐにミヨちゃんは私に寄ってきて、寒くなかったかとか、どこに行ってたのかと矢継ぎ早に聞いてきた。
ごめんね。
ごめん、今夜は楽しもう、そう決めてたのに。
「さあ、始めようぜ」
最高のクリスマスイヴを。