#bad dream
目の前の現実が、自分のものであると自覚するまで、ほんの少し時間がかかった。
並べられたレントゲン写真、涙をながしながら耐えた胃カメラの写真。
胃癌か。
それも……。
「スキルス性……?」
母が胃癌だった。
そのときに資料を集めて、スキルスがどんな胃癌なのかも、なんとなく知っている。
そのほとんどが、発見された時には手遅れで、非常にたちの悪いガンだということも。
母に転移があるとわかるまでは、スキルスでなくて良かったとぬか喜びしたことも、覚えている。
「すでに肝転移してる。手術は」
「根治手術はできない、でしょうね。余命は、半年?」
私は思わず鼻で笑ってしまった。
「ヨーコちゃん」
「大丈夫ですよ、先生。もう、あの二人を見てるんですから……」
「……とりあえず、病状と、これからの治療方法を説明するよ」
先生はそう言って、母の時のように、メモ用紙に絵を書きながら、わかりやすいように私の体の状態と今後を説明してくれた。
だけど、その内容なんて、全然覚えてないし、渡してくれたメモだって、すぐに破り捨てた。
私は、この病気にどんな治療が行われて、末期にはどうなるのか、どれほどの苦痛を味わうのか、だいたいの想像ができる。
そして、人が生きながら人じゃなくなるのを知っている。
でも、どうして?
どうして私が?
神様、仏様、私が何をしたって言うの?
これだけの残酷な経験をしてきた私に、こんなにも早くとどめをさすのですか?
それじゃあ、いいよ、いいさ、そんなに早く来いと言うなら、もっと早く自分から逝ってやる。
バタバタと看護師さんが走って私の横を通り過ぎていった。
そして、父の病室へ入っていくのを見て、私も思わず走った。
開いたままのドアから母がおびえた顔をしてこっちを向いた。
「だめよ、ヨーコは入ってこないで!」
そう、叫んだ。
そしてその向こうのベッドの上で。
ウロウロと動く父の足が見えた。
「殺してくれぇ!!」
間違いなく、父の声であって。
そうではないと思いたくて、私はドアに近づいた。
「もう、もう、いやだぁ、殺してくれぇ……」
まるでゾンビみたいに、アゴを突き出して、だらしなく手をぶらぶらさせながら、なだめようとする看護師さんや母の手を払う。
見たことのない父の姿がそこにはあった。
ああ、ああと子供のように声を上げ、何かに渇望しているように首をガリガリ両手で掻き毟る。
看護師さんがベッドに上り、その両手を掴んで父の名を呼ぶ。
その横では、涙を流しながら父の足にしがみつく母がいる。
私は、父の姿から逃げるように、そこから走り去った。
ガリガリと痩せた首を引っかく手。
生きているのに、死んだ目。
彷徨う、身体。
ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ。
虚ろな瞳。
ゾンビみたいな身体。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ………
「!!」
目が、覚めた。
全身にじっとり汗をかいている。
横を向くと、カズオが穏やかな寝息をたてて眠っていた。
時計は午前3時半。
私は体を起こしてベッドから抜け出し、洗面所へ向かう。
「………」
あんな思い出は、ずっと昔に封印したはずだった。
思い出さないように、忘れようとして、そのうち思い出そうとしてもできないくらいだったのに。
告知の瞬間と、父の人ではなくなっていく時。
胸が苦しくなるくらい、心臓の音がうるさい。
鏡に映る自分の顔を見る。
目の下のクマ、こけ始めて色を失いつつある頬。
「う……」
突然吐き気が襲って、そのまま吐いた。
「ヨーコ」
カズオの声。
ごめん、せっかく買ってきてくれたイチゴ、吐いちゃった。
シンクに水を流し、口をゆすぐ。
「大丈夫か……」
ゆっくり顔を上げて、鏡の向こうに見えるカズオの背中を見た。
「ヨーコ……?」
そこには寝ぼけ顔のカズオがいるだけで、私にはまだ翼は見えない。
私も、ミヨちゃんみたいに、見えるようになる時が来るんだろうか。
初めて会った夜みたいに。
大きな翼を広げる天使に、また会う夜が来るんだろうか。
顔を覗き込むカズオに、私は抱きついた。
「嫌な、夢見た……」
「うん……」
「起こしちゃってごめん」
「ううん」
カズオは軽々と私を抱き上げて、ベッドに連れて行く。
「眠れそう?」
「……うん」
「なんだ」
「ん?」
「眠れないんなら、眠れるように襲ってやろうと思ったのに」
「もう、バカ」
私は静かに笑った。
カズオも笑って、ゆっくり私をベッドに下ろし、そのままキスする。
痩せた体を優しく抱いて。
「ねぇ」
「ん?」
「優しい神様は、愛し合う二人を見て、天使を人間に変えて、病気に苦しむ女から病魔を追い出してくれて、この物語をハッピーエンドにしてくれないのかなぁ」
「オマエねぇ、一体いつの少女漫画だよ」
「だよね」
「笑わせんな」
そう言って、二人で顔を見合わせてクスクス笑った。
だけど、私は悲しかった。
なんとなく、コイツが天使なら、優しい神様も存在するんじゃないかって。
そう、思いたかった。
だけど現実は、そんな夢、見させてくれない。
ミヨちゃんの目に見えはじめた翼は、夢なんかじゃなくて、もうすぐ死ぬという、現実。
そして、いつか、私にも。