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日が落ちると、一気に冷え込んでくる。
老婆は小股でいそいそ歩いているつもりかもしれないが、私たちにとっては、かなりのスローペースで、私は冷えていく体をぐっと縮めた。
「ここだよ」
そうやって、5分も歩いただろうか。
石の塀ある門の前で老婆は立ち止まった。
中を覗くと、うっそうと茂った木々の奥に、まるでそこだけタイムスリップしたかのように、木造平屋建ての小さな家があった。
両サイド、そして後方にも、5、6階建ての雑居ビルがそびえている。
「よく地上げされずに残ってんな」
驚いてカズオがそう言った。
確かにそうだ。
この辺に住宅はほとんど残っていない。
まして、こんな古い家はここぐらいだろう。
それにしても、よく通るこの道に、こんな家があったなんて、今の今まで気付かなかった。
「冷えただろう、お茶でもしていくかい」
老婆は振り返り、またニィっと笑って私たちを見上げる。
「ありがたいっ、おじゃましまーす」
カズオもよっぽど寒かったのか、肩をすくめて老婆を追い越して玄関の前まで急いだ。
「じゃあ、私も」
老婆は嬉しそうに頷いた。
昔ながらの引き戸の玄関をガラガラと開けると、土間になっている。
古い家の、カビと線香が入り混じった匂いがした。
私もカズオも思わず家の中をキョロキョロ見渡す。
「狭い家だけどね、上っておくれ」
えいっと老婆がサンダルを脱いだ時だった。
何か光るものが、ポロリと老婆の足から土間に落ちて転がる。
そう、ピカピカ光る……
「あっ!!」
叫んで、私はそれを拾った。
「あった!!」
3人で同時に声を上げ、顔を見合わせた。
私はそれを手のひらにのせ、老婆の目の前に持っていった。
「ああ、これだよ、これ、どこにあったんだい」
「今、おばあちゃんがサンダル脱いだら、落ちてきたんだよ」
「えぇ? そうなのかい? さっきから足の裏が痛いから、魚の目でもまたできたのかと思っていたよ」
少し震える指で、そいつ、ピカピカ光る捜し求めた金歯を取ると、うひゃうひゃと大きな口を開けて笑う。
そして、開けすぎた口から、またしても、上下の入れ歯が飛び出して、私もカズオも力が抜けて大笑いした。
やれやれ、だ。
それから、私たちは茶の間に通されてこたつに入り、予告どおりお茶を頂いた。
お茶を飲みながら、お互いに自己紹介した。
老婆、ミヨちゃん89歳は、10年前に旦那さんを亡くしてからはひとり暮らしで。
「子供たちは遠いところに住んでいるからね。でも、最近はヘルパーさんが週に一度来て、買い物に連れて行ってくれたり、掃除してくれたり、ごちそうも作ってくれるよ」
そう言って、2個目のみかんを食べ終わったカズオに、再び食べろとみかんを差し出す。
どうやら嫌と断れないらしく、苦笑しながらカズオは3個目のみかんを剥きだした。
89歳とは思えないくらいしっかりしていて、家の中もそれなりにきちんと掃除されている。
たとえ週に一度ヘルパーさんが来てくれているにしても、きれいだった。
奥の部屋の仏壇には、新しい花も供えられていた。
「ヨーコちゃんはみかんが嫌いかい? もっと食べなさい。ダイエットしたら子供が産めなくなるんだよ」
まだ半分しかみかんを食べてない私の前に、ミヨちゃんは2個、3個とみかんを置いた。
大丈夫よ、ダイエットしたって、産めないことはないってば。
まぁ、どっちにしても私は産めないんだけどね。
「ああ、コイツね、昨日から下痢してんの。だからあんまり食べないんだよ。大丈夫、その分俺がもらっとく」
困った顔をした私に、カズオがそう言って、ミヨちゃんが私の前に置いたみかんを自分の前に持っていった。
ありがと。
今朝から痛み止めを飲んでない。
ヤスコの家でも痛みがあったけど、ちょっとそれがパワーアップしてきて、モノを口に運ぶ気になれない。
だけど、それを下痢っていうは、ねぇ。
「そんなこと言って、カズオだって、それだけ食べたら下痢するわよ」
「大丈夫だよ」
「それで、アンタたちは夫婦かい?」
その問いに、私たちはそろって首を振った。
「じゃあ、恋人同士だね。仲がいいねぇ、うらやましいねぇ。私もね、じいさんがいた頃はらぶらぶだったさ」
「『らぶらぶ』……」
口にみかんを含んだまま、カズオが笑った。
そんなカズオに、そっとミヨちゃんが手を伸ばした。
私は、一体何をしているのかわからなかった。
カズオが動きを止め、ミヨちゃんの手をじっと見つめる。
ミヨちゃんは微笑んで、まるで何かを撫でるように、手を上下に動かした。
「カズオちゃんの翼もきれいだねぇ」
何て?
私は目を丸くして、カズオを見た。
私には見えなくなってしまった翼を撫でるミヨちゃんに、カズオの表情が一瞬翳ったようにうつったが、すぐにニッコリ笑う。
「だろ? 俺の自慢」
ミヨちゃんが手を引くと、次はカズオの周囲を見渡した。
「ひゃあ、大きいねぇ、すごいねぇ」
大きく広げた翼が、ミヨちゃんには見えるようだった。
手をぱちぱち叩きながら喜んでいる。
どうして……。
ミヨちゃんに、見えるの……?
それに。
「今の若い男のはやりなのかい? ヘルパーさんもね、時々それをつけてくるんだよ。最初は、てっきりお迎えが来たかと思ってねぇ」
そのセリフは、いつか私も言ったような気がする。
どういうことよ、カズオ。
カズオはチラリと私の方を見たが、すぐに視線をそらしてミヨちゃんを喜ばすように話し続けた。
「そうだよ、はやってんの、ミヨちゃん知らなかったわけ? 今、これ、みんな付けてるよ。他にもさ、ピンクとか、ブルーとか、ミヨちゃんのと同じゴールドとかあるんだけどさ、やっぱり翼は白でしょ」
何、訳のわからんこと言ってんのよ。
なんで、私の目、ちゃんと見ないのよ。
何にも知らないミヨちゃんは、カズオの作り話に耳を傾け、真剣に頷いては、笑う。
「おしゃれだねぇ、私も付けてみたいよ、キラキラしたの」
「じゃあさ、クリスマスにパーティーしようぜ。んで、仮装すんの、いいだろ、ヨーコ」
「え?」
いきなり話を振られても。
ふと横を見ると、目を輝かせたミヨちゃんが、私が頷くのを待っているように見えた。
「あ、うん、うん、いいんじゃない」
「いいねぇ、たのしみだねぇ!」
嬉しそうなミヨちゃんの顔を見ながら、私は胸が締め付けられるようだった。
コイツの翼が見えるってことは。
コイツが、本当に天使なら。
コイツの言ったことが、本当なら。
いや、わかってる、本当だってことは、第三者にもあれが見えたんだから、間違いないんだ。
ミヨちゃん、コイツは、本当に迎えに来たんだよ。