file3-1「death」
遠くで日が落ちていくのがわかる。
空がオレンジ色に染まって、ビル郡が欠けたパズルのピースみたいに黒くぽっかり穴が開いたように見える。
「陽子ちゃん、かわいかったなぁ」
私の少し前を歩くカズオが嬉しそうに口を開いた。
ご機嫌らしく、足取りが軽い。
「オマエ、すごいじゃん、子供の名前にしたいほどの存在だったんだな」
「……信じらんないよね」
本当に、信じられなかった。
これが、例えば超かわいいアイドルと同じ名前とか、両親の名前を一文字ずつとったとか、今時のかわいらしい名前だとかいうならわかるんだけど。
「ヤスコ、本当に良かったのかなぁ。もし、私だったら、旦那がそんなこと言ったらキレそうだけど」
「彼女の性格からして、納得しないとうんとは言わなさそうだからな。本当に彼女も陽子って付けたかったんだと思うよ」
「うん……でも」
「それよりさ、ホント、自殺しなくて良かったよな。これで何も知らない二人が陽子って付けて、実は自殺してました、なんて、それこそ笑えないぜ。俺様に感謝しろよ」
そうなんだ。
だから。
やっぱりだめって言うべきだったのかなって。
「お手本になるような人間じゃないのにね」
私はうつむいて自分を笑った。
「どうであれ、オマエ、二人にそれだけ愛されてたってことじゃん。それって、すごく幸せなことだと思うよ」
「愛されてた……?」
「将来、二人はヨーコの存在を陽子ちゃんに話すだろうし、陽子ちゃんだって、もしかしたら、自分の子供にお母さんの名前はこうやって付けてもらったんだよって話すかもしれなし。責任重大だな、オマエ、語り継がれるんだぜ」
カズオは振り返って、私のことを指差して言った。
「だからって、今更取り繕う必要なんてないだろ。弱い部分も全部含めてヨーコなんだからさ」
「随分、優しいこと言うのね」
「ダイスケさんに、オマエのことよろしく頼むって言われたからさ、1日くらいは人間の頼まれごと聞いてやってもいいなってね」
「アイツ、そんなこと……?」
最近は、よく涙が出る。
どうして、私、今まで気付かなかったのかな。
「オマエは、自分が思ってるより、ずっと幸せだったんだよ」
カズオが、抱きしめてくれる。
「それを遠ざける必要なんて、もうないだろ?」
一度踏み外せば、あとは簡単に転がり落ちた。
誰のせいでも、運命でもなく、どちらかに進むかは自分次第。
どうせ底まで転がり落ちたんだから、あとは上っていけばいいか。
「そうだね」
流した涙の分だけ、頑なだったココロが少しずつ解けていくのがわかる。
自分でグルグルと締め付けていたものを、ちょっとずつ、緩めていこう。
たぶん、ひとりだったら出来なかったことを、今ならやれる気がする。
顔を上げれば、普段は生意気なことばっかり言ってるのに、時々こんなふうにすごく優しくなるコイツが、しょうがないなと言いたげに、私のことを見下ろしている。
頬に流れた涙の跡を、優しい指でそっと拭いて。
髪を梳くように撫でて。
キス、して。
「ああだだだ、はい、兄さんちょっとどいてくれんかね」
最高にロマンチックな気分に浸っていた私は、そのセリフにがっかりして声のするカズオの足元を見た。
そこには、ほぼ90度に腰を曲げた小さな老婆が、杖でカズオの足をポンポン叩く姿があった。
私たちは顔を見合わせた後、二人でその場をよけた。
「はいはい、ああ、ここにもないねぇ」
ふう、と溜息をついて老婆は私たち二人を見上げた。
「ごめんねぇ、さあさ、続きをやっておくれ」
と、ニィっと笑うと、上の入れ歯の前歯が1本ないのが見える。
とりあえず、私たちも笑い返すと、うんうんと頷き、老婆は大きくガニ股に足を開き、ただでさえ曲がった腰をもっと深々と下げて、再び地面を食い入るように見つめだした。
「アレがないと、恥ずかしいからねぇ」
「あれって、何?」
ためらわず、私は老婆に聞いた。
まるで、そう聞かれるのを待っていたかのように、彼女は嬉しそうに顔を上げると、またニィっと笑い、慣れたように、かぽっと上の入れ歯を口から出した。
ちょっと衝撃的な瞬間を見てしまった気がする。
「ふぉれふぁなひろ、はふはふぃい」
はふはふしながら、手に持った入れ歯の欠けている前歯を指差した。
そして、私の顔を見上げてまた笑うと、押さえる相棒のなくなった下の入れ歯まで口から飛び出してきて、私もカズオも思わず吹き出して笑った。
「ふははは、ああ、おばあちゃんごめん、でも、サイコー」
下の入れ歯も口から出して、シワシワの口を大きく広げて、あははと笑っている。
よくよく聞いてみれば、この前歯をこの辺で落として探しているんだと言う。
「大事なピカピカした金だからねぇ、見つけないといけないよ」
「そっか、金歯なんだ」
「さっきね、カツンと音がしてね、おかしいなと思ったら、これがなかったんだよ。前にも取れたことがあるけど、そのときは歯医者さんが治してくれたよ」
「じゃあ、また見つけたら、つけてくれるんだね」
私はしゃがんで老婆の話を聞いた。
そのほうが、見上げてすぐに彼女の顔がある。
もともと小柄なんだろうけど、その上腰が曲がっていて、随分と小さく見える。
紺のニットの帽子にマフラー、コートの下には白地に赤い花柄のワンピース、多分、タイツやスパッツを重ね履きして、その上に肌色の膝までのストッキング、足元は赤いつっかけサンダル……なかなかの趣味じゃない。
それを見て、また私はこっそり笑う。
「ねぇ、一緒に探してあげようよ、いいでしょ?」
カズオを見上げると、いいけど、と言って赤く染まる向こう側の空を指差した。
「早く見つけないと、日が暮れちまうぜ」
「そうだよね、急がないと」
「探してくれるのかい、ああ、アンタたちはいい子だねぇ」
本当は、最初っからそのつもりで近づいてきたんじゃないの、と突っ込みたくもなったけど、お腹が痛くなるほど笑わせてくれたから、許してあげよう。
それから、私とカズオは、まるでひき逃げ犯の証拠を探す警察のように地べたにくっついて『大事なピカピカする金』を探し始めた。
「ないねぇ」
「ないなぁ」
「いいや、この辺に絶対あるよ、ここでカツンって音がしたからね」
さっきから、3人で同じことばかり繰り返してる。
あっという間に薄暗くなって、街灯がつき始めた。
「本当に、この辺?」
「絶対に、この辺」
ああ、もう、こう暗くなっちゃあ、いくらピカピカされても見えないよ。
私は探し始めたことを、少しだけ後悔した。
そして、ついに辺りは真っ暗になってしまった。
「とりあえず、今日は打ち切り!」
たまりかねたように、カズオが顔を上げて叫んだ。
道路わきに腰を下ろしていた老婆はゆっくりと立ち上がって、残念そうに辺りを見渡した。
「そうだねぇ……」
「また明日、明るくなってから探そうぜ。もう暗いし、ばあちゃん、送ってくよ」
「そうしようか」
私も立ち上がり、老婆の横に並び、3人で歩き出した。