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早々に私たちは病院を後にした。
1週間後には退院すると聞いて、それから私たちは自宅にお祝いを持っていった。
「あの時は、本当にありがとう。本当に、私、ヨーコがいたからがんばれたよ」
ヤスコがコーヒーを置いて、私の横に座った。
「もう、肝心な時にダイスケいないんだから」
テーブルを挟んで向こう側で彼女を抱いて座るダイスケに、ヤスコが口をとがらせた。
「しょうがないだろ、出張だったんだから。でも、間に合ったじゃん」
「それが不思議なのよね。あれだけがんばっても出てこなかったのに、ダイスケの顔みたとたん、スルスルって出ちゃったのよねぇ」
「パパを待っててくれたんでちゅよねー」
「もう、赤ちゃん言葉はやめてよね」
ダイスケは、抱いている彼女の顔を見つめ、赤ちゃん言葉であやし続けている。
それを見ながらヤスコと私は呆れて笑った。
カズオはダイスケの横で、彼女の顔を興味津々に覗き込んでいる。
「それにしても、本当にダイスケとヤスコが結婚して、赤ちゃん生まれたんだね」
ダイスケの記憶は別れた時から止まったままだったし、ヤスコがそのダイスケと結婚したなんて、ちょっと信じられなかった。
今こうして現状を見せられて、ようやく納得する。
「変な感じ?」
ヤスコが小声で聞いてくる。
「まあ、ね。でも、二人見てると、すごく幸せそうだし。なんか、羨ましいくらい」
「あっけなくダイスケのこと振るからよ。なんてね。ヨーコだって、なんかいい感じじゃん? もう、付き合い長いの?」
「ん? そんなことも、ないけどね」
そういえば、コイツに出会ってから、もうすぐ1ヶ月になるんだ。
でもまさか1ヶ月とは言えないし。
「もしかして、彼が未成年の頃にひっかけた?」
「ヤスコ、私のこと、勘違いしてる」
「ゴメン、冗談。あいつが、ダイスケがさ、気にしてて」
そういうヤスコの目線の先で、ダイスケは相変わらず親バカ全開で彼女に話し掛けている。
横にいるカズオとも、言葉を交わして楽しそうだ。
「カズオくん見て、ちょっとヤキモチ焼いたのかもよ」
「それは、ないでしょ」
それは、きっとない。
あるとすれば、それは私の方かもしれない。
一瞬固まった私を見て、またヤスコは笑う。
「まあ、それはどうかわかんないけど。サトルと、ちゃんと別れてないって聞いたみたいだから。今となっては余計なお世話よね」
「………」
サトルも高校の同級生だ。
ダイスケの友達で、私がダイスケと別れて、しばらくしてから偶然合コンで一緒になって、なんとなく連絡を取って遊んでいるうちに、付き合うようになった。
でも、母が入院して、サトルが就職して忙しくなって、自然消滅したものだと私は思っていた。
「私以上に、サトルはヨーコのこと、探してたみたいだから」
何となく、それは知っていたけど。
だけど、もう、終ったことだ。
「何二人で内緒話してんの?」
ちょっと甘えた声をしながら、いつのまにか後ろにきたカズオが私たちの間から顔を出した。
ヤスコは目をまん丸に見開いて首をかしげると、ダイスケの方に行って赤ちゃんを抱っこする。
「そうだ、ヨーコに報告があるの」
ね、とダイスケの方を向くと、ダイスケは、少し照れくさそうに頷いた。
「実はね、この子の名前、『陽子』なの」
「え? ヨーコって、陽子?」
「そう、ヨーコと同じ、太陽の陽に子供の子。今時『子』のつくコも珍しいと思ったんだけど、ダイスケがね、どうしても陽子がいいってきかないの。高校時代の彼女の名前をそのままつけちゃうなんて、どうかと思わない?」
わざと、嫌味っぽくダイスケに向かって言う。
「マジで?」
私より、横にいるカズオが素で唖然としている。
私は……正直戸惑っている。
「私もね、ヨーコみたいに、優しくって明るい子になってほしいと思うから、女の子だったらヨーコにするって決めてたんだ」
「いつかまた会えるとは思ってたけど、こんなに早く、それも陽子が生まれてくる時にヨーコがいてくれるなんて、思ってもみなかったから、本当に驚いたよ」
ヤスコにつづけて、ダイスケも私の目を真っ直ぐに見て言う。
「そんな……」
目の前の二人は、見つめ合って柔らかな表情で、すやすやと眠り続ける陽子の顔を覗き込む。
陽子、私と同じ名前、私のようにと名付けるなんて。
私なんて。
全てが人並みで、特別なものが何もなかった。
その人並みさえ、一生懸命にならなきゃ追いつけなくて。
劣等感を隠す為に、優しく明るく振舞って。
私には、死がまとわりついていて。
もうすぐ死ぬというのに。
言葉を失っている私に、ヤスコが気付いた。
「ごめん、嫌、だった?」
「ううん、そんなんじゃなくて……なんていうか、照れるじゃん」
とりあえず、笑ってみた。
うまく、取り繕えてる?
「だって、私みたいにだなんて言われたら、ねぇ」
どうしよう、なんて言おう。
出生届、もう出したのかな。
やめた方がいいって、言っていいのかな。
「きっと、スゲェいい女になりますよ、陽子」
私が口を開こうとした瞬間、横からカズオが乗り出してきた。
「コイツ、結構料理もウマイし、意外と気が利くし。どうしよう、20年後の陽子ちゃんに、俺惚れちゃうかも」
静まりかえっていた部屋に、バカなコイツの言葉が浮いたように響いて聞こえた。
何言ってんのよ、相変わらず空気読まずに馬鹿ばっかり……と思ったら。
「だろ? カズオもそう思うだろ? うん、ぜったい陽子はいい女になるよ。ああ、パパは心配でしょうがないでちゅ」
もっとバカなことを、ダイスケが言ってくれた。
「カズオくんが言うならまだしも、ダイスケがそういう事をいうのはちょっといただけないんですけどっ」
ヤスコは抱いていた陽子をダイスケから引き離すように立ち上がり、私の横に座った。
淋しそうな顔をしてダイスケもついてくる。
ヤスコが私に陽子を差し出した。
「抱っこしてあげて」
「……うん」
ぎこちなく陽子を抱き上げる。
暖かくて、小さくて、柔らかくて。
陽子。
お願い、あなたは、幸せになってね。
ううん、きっと、この二人に見守られて幸せに生きていける。
大丈夫だから、安心して、今は眠って。
「ありがとう」
私は、ダイスケとヤスコの顔を交互に見た。
顔を上げた時に、ポロポロと涙がこぼれて、陽子のおくるみに落ちた。
ヤスコが私の肩を抱いて、頭をくっつけてきた。
反対隣にはダイスケがいて、後ろからカズオが覗き込んで。
陽子のおかげで、私は幸せだよ。
「陽子ちゃん」
生まれてきてくれて、ありがとう。