第九話:離宮の部屋割りと、初めての夜 ~最高の「もふもふ湯たんぽ」を両手に抱えて至福の睡眠を~
大広間での賑やかな大宴会が終わり、空になった皿が長いテーブルの上に並んでいた。
外はすっかり暗くなり、石造りの建物の向こう側から、ピューピューと北の地特有の冷たい夜風が吹き付ける音が聞こえてくる。
夕方のうちはまだ十分に暖かかったけれど、夜が更けるにつれて、古い屋敷の中にじわじわと冷気が入り込んできた。
『おい、カトリーナ。それにクロ。なんだこの寒さは』
先ほどまで機嫌よく食後の身だしなみを整えていたハクが、丸い体をさらに小さく丸めて声を上げた。
その真っ白な毛並みが、かすかに小刻みに揺れている。
『王たる我が、このような場所で凍えてしまうぞ! 早くなんとかしろ!』
『申し訳ございません、ハク様! ただちに対処いたします!』
ハクの不満の声を聞くやいなや、クロが短いしっぽをピンと立てて立ち上がった。
彼は食堂の隅へ小走りで向かうと、分厚い石壁をじっと見つめた。
先日の大掃除と修繕で、壊れた箇所はすべて直してある。
しかし、この離宮は頑丈な石造りゆえに、外の厳しい冷気が石を通じて直接じわじわと内部に伝わってきてしまうのだ。
建物の構造そのものから熱が奪われていくため、ただ暖炉を燃やすだけでは到底追いつかない。
『土よ、壁を覆え』
祈るように、クロが短く言葉を発した。
土属性魔法の『クリエイト』が発動した。
屋敷の周囲にある土や砂が、魔法の力によって、石壁の表面に薄く吸い付いていく。
その土は空気をたっぷり含んだ見えない断熱の層を作り出し、冷たい外気が石から伝わってくるのを次々と防いでいった。
壁全体から床下まで、クロは丁寧に土の層を作って、屋敷を冷えから守るように覆い尽くしていく。
「すごいわ、クロ。壁から伝わってくるヒンヤリした感じが、全然なくなった」
私が感心して声をかけると、クロは振り返って小さくうなずいた。
『これだけではまだ不十分です。屋敷全体の空気を温めなければ、ハク様におくつろぎいただくことはできません。カトリーナ様、暖炉の火を少し強めていただけますか』
「ええ、わかったわ」
私は暖炉のそばに行き、薪を数本追加した。
パチパチという音とともに、オレンジ色の炎が勢いよく燃え上がる。
クロは暖炉の前に立ち、緑色の瞳を細めた。
『風よ、巡れ』
今度は風属性魔法だ。
クロから放たれた目に見えない風のうねりが、暖炉の周囲にたまっていた熱い空気を優しく包み込んだ。
風は荒々しい突風ではなく、春のそよ風のように柔らかい。
その暖かい空気の塊は、クロの魔法に導かれて食堂を出て、冷え切っていた廊下や、高い天井の玄関ホール、さらには二階の居住スペースへとゆっくりと運ばれていく。
魔法による全館空調とでも言うべき素晴らしい技術だ。
冷たかった屋敷内の空気が、みるみるうちに心地よい温度へと変わっていく。
『ふむ……。まあ、これなら許してやろう』
ハクは丸くなっていた体を少しだけ伸ばし、満足そうに鼻を鳴らした。
「クロのおかげで本当に快適になったわ。……なんだか、部屋が暖かくなったら、急にお風呂に入りたくなってきたわね」
私は自分の服の袖を軽く引っ張った。
王都を出発してから二週間、ずっと馬車に揺られ通しだったのだ。
宿場町で体を拭くことはあっても、たっぷりのお湯に浸かることなどできなかった。
今日の大掃除でかいた汗も洗い流したい。
『お風呂、ですか。たしか、この一階の奥に浴室があったはずです。ご案内しましょう』
クロが先導して、私たちは長い廊下を奥へと進んだ。
たどり着いた浴室は、貴族の屋敷らしくとても広々としていた。
床や壁は白い石張りで、中央には大人数人が足を伸ばして入れるほどの巨大な石造りのバスタブが設置されている。
しかし、何百年も使われていなかったため、バスタブの底にはうっすらと土埃がたまり、空気も少し古びた匂いがしていた。
「まずはここを綺麗にしないとね。クロ、お願いできる?」
『承知いたしました』
クロは浴室の中央に進み出ると、静かに目を閉じた。
「『キュア』」
彼から放たれた淡い青色の光の波が、浴室全体へと広がっていく。
光が通り抜けた場所から、カビの臭いや古い空気が一掃され、清々しい香りだけが残された。
脱衣所から浴室の隅々まで、まるで新築のように清潔な空間へと生まれ変わる。
「ありがとう。次は私ね。お水を張るわ」
私はバスタブの前に立ち、両手を前に出した。
頭の中で、清らかで澄んだ水がとめどなく湧き出す様子を思い描く。
「『ウォータ』」
何もない空間から、透明な水が滝のように勢いよく流れ出し、巨大な石のバスタブを満たしていく。
水属性魔法は私の得意分野だ。
これだけの量の水を出すには少し集中力が必要だけれど、今の私には苦にならない。
あっという間に、バスタブはたっぷりの水で満たされた。
「さて、あとはこれを温めるだけなんだけど……」
私はバスタブの縁に手をかけ、ちらりと後ろを振り返った。
そこには、水に濡れることを嫌がって、脱衣所の入り口から顔だけを覗かせているハクの姿があった。
「ねえ、ハク。王様にお願いがあるのだけれど」
『む? なんだ。我は水など好かんぞ。見ているだけで毛がしなしなになりそうだ』
ハクは露骨に嫌そうな顔をして、一歩後ろに下がった。
猫が水を嫌うのは当然の反応だ。
しかし、ここで彼に火属性魔法を使ってもらわなければ、私は冷水風呂に入ることになってしまう。
私は精一杯の作り笑いを浮かべ、彼を持ち上げるための言葉を並べた。
「あのね、この冷たいお水を、ちょうどいい温度の心地よいお湯に変えるには、とてつもなく偉大で、立派な力の持ち主が必要なの。ただの火属性魔法じゃ、お水が沸騰して少なくなってしまうわ。いい感じの温度調整ができる、最強の王様じゃないと無理みたいなの」
私の言葉を聞いて、ハクの白い耳がぴくりと動いた。
彼は誇らしげに胸を張り、しっぽをピンと立てて浴室の中へと足を踏み入れた。
『ふはは! カトリーナよ、よく分かっているではないか! その通り、ただ火を放つだけなら下等な魔獣にもできる。だが、この王たる我の炎は、熱の強さすらも完全に支配しているのだ!』
「ええ、本当に頼りにしているわ。お願いできるかしら?」
『よかろう! 我が特別に、極上の湯を用意してやろう!』
ハクはバスタブの縁にひらりと飛び乗った。
水面を見下ろす彼の金色の瞳が、真剣な光を帯びる。
「『ファイヤーボール』」
ハクの周囲の空間から、ポンッと小さな火球が一つ、生み出された。
それは攻撃に使うように超高速で向かっていく攻撃の塊ではなく、穏やかで柔らかな熱を持った赤い光の塊だった。
その火球が、フワフワと浮かびながら、ゆっくりと水の中へと沈んでいく。
ジュワッという小さな音とともに、水面から白い湯気が立ち上がり始めた。
ハクは湯気の中でじっと水面を見つめ、炎の熱量を絶妙にコントロールしている。
『どうだ、カトリーナよ。すごいだろう!』
見るからにいい感じの湯加減。
私はお湯に手を入れた。
「すごいわ、ハク!熱すぎず、ぬるすぎず、本当に最高のお湯よ。さすがはハクね!」
『当然だ! 我にできぬことなどない!もっと我をあがめよ!』
「ええ、すごい!すごいわ!」
私はバスタブの縁にいるハクを抱き寄せて、首元を指先でゆっくりと掻いてあげる。
『むぅ。もっとゆっくりと、首をかけ…』
私は手櫛の要領で指を動かし、しばらく、もふもふとした彼の毛並みを整えていく。
『むふぅ。もっと右だ…』
「分かったわ」
指先を細かく滑らせて、ハクの要望を満たす。
十分にお手入れを堪能すると、もう満足したのか、私の腕の中からハクは飛び出した。
『もう十分だ。我は暖炉におるぞ!』
そう言って、プイッと横を向いてすたすたと歩いて行った。
自らの欲求の通りに行動する、自由さ。
これぞまさに猫だ。
「はいはい」
私は、そんな王をじっと見ていた。
『カトリーナ様、私たちは外で待機しております。ごゆっくりと旅の疲れを癒やしてください』
「ありがとう。すぐに出るから、クロも休んでいてね」
私は二匹の猫が浴室から出ていくのを見送り、浴室の扉を閉めた。
服を脱ぎ、石の床に足を踏み入れる。
クロの魔法で綺麗になった床は、冷たさもなく心地よい。
私はゆっくりとバスタブの中へ入り、肩までお湯に浸かった。
「はあ……」
思わず、深い息が漏れる。
温かいお湯が、強張っていた筋肉をゆっくりとほぐしていく。
馬車での長旅による疲労や、冷たい夜風で冷え切っていた体が、芯から温まっていくのがわかる。
私は目を閉じ、お湯の中で手足を大きく伸ばした。
王都にいた頃も、大きなお風呂には入っていた。
けれど、あの頃は常に誰かの視線を気にしていた。
メイドたちが付き添い、髪を洗い、体を磨き上げる。
それはリラックスするための時間ではなく、公爵令嬢としての見栄えを保つための作業でしかなかった。
温かいお湯に入っていても、心の中はずっと冷え切っていたのだ。
アレクセイ様に嫌われないように。
マリアに弱みを見せないように。
お父様の期待を裏切らないように。
ここでは、誰の顔色を伺う必要もない。
こんなささやかなことが、今の私にとっては信じられないほど幸せに感じられた。
私は両手でお湯をすくい、顔を洗った。
水の音だけが、静かな浴室に聞こえる。
不思議な能力に目覚めて、この北の地へやってきて、気難しくて愛らしい二匹の猫と出会った。
ここから私の本当の生活が始まるのだと思うと、胸の奥から静かな活力が湧き上がってくるのを感じた。
◇
お風呂から上がり、さっぱりとした気分で一階のホールに戻ると、二匹の姿はなかった。
どうやら先に二階の居住スペースへ向かったようだ。
私は手すりの直った大階段を上り、二階の廊下へと足を進めた。
二階には、いくつかの大きな部屋が並んでいる。
廊下の突き当たりにある一番大きな両開きの扉が、どうやらこの屋敷の主賓室のようだ。
その扉は大きく開け放たれており、中からハクの声が聞こえてきた。
『うむ! この広さといい、この立派な寝台といい、まさに王の間にふさわしい! 我はここを寝所に定めるぞ!』
私が部屋の入り口から中を覗くと、かつて公爵が使っていたであろう豪華な天蓋付きのベッドのど真ん中で、真っ白なハクが堂々と丸くなっていた。
ベッドは大人三人が寝転がっても余るほどの大きさで、小さな猫の姿のハクが真ん中にいると、なんだかぽつんと小さく見えて可愛らしい。
『カトリーナ、遅かったではないか。我はもう寝るぞ。ここが今日から我の部屋だ』
「ええ、とても似合っているわ。王様にぴったりの立派なお部屋ね」
『ハク様、私はすぐ隣の部屋を待機部屋として使用させていただきます。何か御用があれば、いつでもお呼びください』
隣の部屋の入り口から顔を出したクロが、深く頭を下げて言った。
執事としての役割をここでも徹底するようだ。
「じゃあ、私はハクの向かいの客室を……と言いたいところだけれど」
私はハクのいるベッドに近づいた。
「私はこの部屋で、ハクと一緒に寝るわ」
『ば、馬鹿なことを言うな!』
ハクは飛び起き、全身の毛を逆立てた。
『我を誰だと思っている! 偉大なる王だぞ! 王たる者が、従者と同じベッドで寝るなど不敬にもほどがある!』
しっぽを太くして激しく怒るハク。
予想通りの反応だ。
私は慌てることなく、ゆっくりとハクのそばに腰を下ろした。
「私の部屋になる予定だった客室も、クロの魔法のおかげで暖かいのだけれど、やっぱり北の夜は冷える気がして。王様の素晴らしい熱が必要なのよ」
『我は貴様の暖房道具ではない!』
「偉大なる王様、どうか私に慈悲を」
私は言葉とは裏腹に、両手でハクの頭にそっと手を添え、親指で耳の後ろのくぼみをくるくると揉みほぐし始めた。
猫が一番喜ぶポイントを、絶妙な力加減で刺激する。
『ぬ……っ。やめろと言って……そこは……』
ハクの抗議の声が、だんだんと弱くなっていく。
逆立っていた毛が少しずつ寝そべり、太くなっていたしっぽも元の細さに戻った。
「ハクの温もりがないと、私は明日、風邪をひいてしまうかもしれないわ。そうしたら、とびきり美味しいご飯を作る人がいなくなってしまうのよ。そんなの、王様にとっても困るでしょう? だから、お願い。一緒に寝てちょうだい」
私はさらに指先の動きを滑らかにし、彼の首回りを心地よくほぐしていく。
『あー……うむ。まあ、そういうことなら……仕方あるまい』
ついに、ハクの口からゴロゴロという低い音が漏れ始めた。
金色の瞳がとろんと細められ、警戒心はすっかりなくなっている。
『我の優秀な料理番が倒れては、この離宮の運営に支障をきたすからな。……特別だぞ。我の熱でお前を温める名誉を与えてやろう』
「ありがとう、ハク。王様の慈悲に感謝するわ」
私は心の中で大きなガッツポーズをした。
これで一つ目の「もふもふ」は確保した。
しかし、私の欲望はこれだけでは満たされない。
せっかく二匹いるのだから、両方揃ってこそ極上の空間が完成するのだ。
私は廊下にいるクロに声をかけた。
「それで、クロもこのお部屋に来てほしいわ」
『ハク様の御前へ?それは、どういうことでしょうか?』
「ええ、とても重要な用事よ。執事のクロも、いざという時の護衛と、私の足元の湯たんぽ役として必要不可欠です」
私がきっぱりと言うと、クロは緑色の瞳を丸くして固まった。
『あ、足元の……湯たんぽ、ですか?』
「そうよ。ハクには腕の中をお願いしたの。でも、足元が冷えると眠れないから、クロには足元をお願いしたいの」
『な、なんと恐れ多い!』
クロは慌てて一歩後ろに下がった。
『主様と同じベッドで寝るなど、執事として決して許されることではありません! 私の寝所は隣の待機部屋です! 私のような者にはとても……!』
クロは生真面目すぎる性格ゆえに、身分差を気にして強く固辞してきた。
ハクのように指先の技術でごまかせるタイプではない。
どうやって説得しようかと考えていると、ベッドの上で丸くなったままのハクが、大きなあくびをしながら言った。
『おい、クロ。廊下でごちゃごちゃとうるさいぞ。我の眠りの邪魔をする気か』
『申し訳ございません、ハク様! ただいま静かにいたします!』
クロはハクに向かって深く頭を下げた。
『カトリーナの足が冷たいと、我のところまで冷気が伝わってきて不快だ。おいクロよ、王の足元を温める許可を与えよう。とっととベッドの端に来て丸くなれ』
『ハ、ハク様の御命令とあらば……!』
クロの耳がピンと立ち、しっぽがかすかに揺れた。
主からの直接の命令とあっては、真面目な彼に断る理由はない。
彼は少し緊張した面持ちでハクの部屋へと入り、ベッドの足元の方へぴょんと飛び乗った。
私はベッドに入り、毛布を首元まで引き上げた。
私の左腕のすぐそばには、真っ白なハクが丸くなり、規則正しい寝息を立てている。
彼の体から伝わってくる熱は、暖炉の火よりもずっと優しくて暖かい。
そして私の足元には、漆黒のクロが少し遠慮がちに、けれどしっかりと私の足先を包み込むように座ってくれている。
二匹の猫から、ゴロゴロという喉を鳴らす低い音が、心地よいリズムとなって伝わってくる。
右も左も、足元も。
どこを触っても、柔らかくて温かい毛並みがある。
これ以上の贅沢が、この世界のどこにあるというのだろうか。
王都の冷たい屋敷で一人ぼっちで寝ていた頃には、想像もできなかった幸福だ。
私はそっと目を閉じた。
北の離宮での初めての夜は、厳しい寒さなど微塵も感じさせない、極上の「もふもふ」空間に満たされていた。
極上の幸せとともに、私の意識は眠りへと落ちていった。




