第七話:廃墟同然の離宮を大掃除! ~水と風の魔法で、快適な猫御殿を作ります~
地下空間のどんよりとした空気を背にして、私たちは長い石段を登りきった。
一歩、また一歩と石段を上がるたびに、少しずつ周囲の空気が変わっていくのがわかる。
重苦しい地下の空気から、地上特有の風の流れを感じる空間へ。
外の明るい日差しが差し込む一階のホールへと戻ってくると、改めてこの北の離宮の惨状が目の前に広がった。
床には枯れ葉や泥が分厚く層を作り、歩くたびにカサカサと乾いた音を立てる。
それはまるで、森の中を歩いているかのような錯覚を起こさせるほどだった。
壁のあちこちには、ひび割れが走り、長い年月をかけて剥がれ落ちた壁紙の残骸が散らばっていた。
かつては美しい模様が描かれていたのだろう壁紙も、今ではただの汚れた紙切れに過ぎない。
高い天井からぶら下がる大きな照明器具は、もはや本来の形がわからないほど分厚い蜘蛛の巣で覆い尽くされている。
その蜘蛛の巣には、何年分もの埃が積もり、灰色のお化けのように見えた。
部屋の隅には、脚の折れた椅子や、引き出しがない飾り棚が乱雑に放置されていた。
床板の間からは雑草のようなものまで生えていて、自然の力に飲み込まれつつある建物だと実感させられる。
たしか、ここでの感覚が麻痺していたけれど、こうして見直すと、本当にお化け屋敷としか言いようがない。
これからここで生活していくのだと思うと、さすがの私もため息が出そうになった。
王都から持ってきた荷物を片付けるにしても、まずはこの惨状をどうにかしなければならない。
私がどうやって片付けようかと考えていると、隣を歩いていた小さな黒猫が、ぴたりと足を止めた。
『……これは、ひどいありさまです』
クロの低い声が、静かなホールに届いた。
その声には、深い絶望と嘆きが込められていた。
彼は宝石のような緑色の瞳で、荒れ果てた屋敷の隅々を見渡している。
『ハク様の威光を示すべき離宮が、これほどまでに荒れ果てているとは……。地下で眠っていたとはいえ、執事として情けない限りです。ただちに大掃除と修繕を開始いたします』
クロのピンと立った耳が、やる気を示すように前を向いた。
しっぽが左右に大きく揺れている。
見た目は愛らしい小さな黒猫なのに、その体から立ち上る雰囲気は、何十人もの使用人を束ねる熟練の家令そのものだった。
彼の言葉遣いや立ち振る舞いには、長い年月をかけて培われた誇りのようなものが感じられる。
『カトリーナ様、ハク様。どうか、その汚い床に直接座らないようにお願いいたします。お二人の尊いお体が汚れるなど、あってはならないことです』
「そうは言っても、座る場所なんてどこにもないけれど」
『すぐに私が対処いたします』
クロはスッと右の前足を高く掲げた。
小さなピンク色の肉球が見える可愛らしいポーズだけれど、そこにはしっかりとした魔力が集まっていた。
彼は短く言葉を発した。
『風よ』
その瞬間、屋敷の中を心地よい微風が通り抜けた。
最初は優しく頬をくすぐる程度だった風が、次第に意思を持ったかのように強さを増していく。
クロの放つ風属性魔法だ。
大きな風のうねりは、床に積もった枯れ葉や泥、そして壁についていた細かな埃を器用に巻き込んでいく。
まるで見えない巨大なホウキが、屋敷中のゴミを集めて回っているかのようだ。
風は一つの大きな塊となり、枯れ葉の山や土ぼこりを包み込んでいく。
やがてその塊は、開け放たれた大扉から勢いよく外へと飛び出していった。
あとに残されたのは、表面のゴミがきれいに掃き清められた床板だった。
「すごいわ、クロ。見事な魔法ね。これだけの広さを一瞬で綺麗にするなんて、すごいわ」
『お褒めいただき光栄です。ですが、まだまだ表面の大きなゴミを取り除いただけに過ぎません。長年こびりついた汚れは、風だけでは落としきれませんので。次は、壊れた家具の修繕に取り掛かります』
クロは休むことなく、ホールに放置されていた壊れたソファや椅子へと向き直った。
彼は土属性魔法の『クリエイト』を発動させた。
床の端にある細かな土や砂が集まり、折れた椅子の脚の形へと変化していく。
土は極限まで固められ、元の木材と変わらないほどの硬さと強度を持った新しい脚となった。
さらに、傾いていた棚の下に土を詰めて水平にし、割れていた窓枠の木材の欠けを塞いでいく。
クロが魔法で次々と家具を直していく様子は、見ていて本当に気持ちが良い。
あっという間に、椅子や机が使える状態に戻っていった。
「クロのおかげで、座る場所ができたわね。でも、クロの言う通り、床や壁にはまだ、こびりついた泥や黒ずみが残っている。ここからは私の出番ね。床の泥汚れは私に任せて」
私は祈るように魔法を発動した。
得意な水属性魔法を使う時だ。
頭の中で思い描くのは、汚れを吸い取って離さない、弾力のある水の塊。
私は静かに言葉を発した。
「『ウォータ』」
私の周囲の空間から、清らかな水が生み出される。
それは地面に落ちることなく、私の魔力によってソフトボールほどの大きさの水の球体となってフワフワと浮いた。
私はその水の球体を、泥で汚れた床へと向かわせる。
水の球体は床の上を生き物のように転がり始めた。
球体が通った跡は、水拭きをしたようにすっきりと綺麗になっている。
水が床のくぼみに入り込んだ泥や埃を取り込み、自分の中に閉じ込めているのだ。
透明だった水の球体は、汚れを吸い取るにつれて次第に茶色く濁っていく。
私は、何度か新しく綺麗な水の球体を作り出しながら、部屋の隅から隅へと動かして、ホール全体の床を磨き上げていった。
木目がはっきりと見えるようになった床板は、本来の美しさを取り戻していた。
『ほう、素晴らしい水魔法の応用です。カトリーナ様も、なかなかどうして、確かな腕をお持ちのようですね』
「ありがとう。クロが先に大きなゴミを飛ばしてくれたから、細かい汚れを落とすだけで済んだわ。二人で協力すれば、この広い屋敷もすぐに綺麗になりそうね」
床の汚れは落ちたものの、長い間閉め切られていた古い建物特有の、じめじめとした空気は残っていた。
鼻の奥にまとわりつくような、カビっぽい臭いだ。
すると、クロが一歩前に出た。
『そこは私にお任せください。浄化の魔法で、不潔なものを取り除きましょう』
クロは目を閉じ、再び前足を軽く持ち上げた。
「『キュア』」
水属性魔法の『キュア』は、本来なら毒や麻痺を取り除くための魔法だ。
しかし、その見方を変えれば、空間そのものを浄化することもできるらしい。
クロの体から、淡い青色の光の波が広がっていった。
光の波が壁や床、天井を通り抜けるたびに、空気が澄んでいくのが肌で感じられた。
鼻をつく古い臭いや、湿っぽい空気が、あっという間に消え去っていく。
まるで、よく晴れた日に外で干したばかりの布団のような、清潔で心地よい空気に変わったのだ。
深呼吸をしたくなるほど、清々しい空間になった。
「すばらしいわ、クロ。本当に新しいお家みたいになった。これでようやく、ちゃんとした生活が始められそうね」
『恐縮です。これでハク様におくつろぎいただける空間の第一歩が整いました』
一方、そんな私たちのがんばりをよそに、まったく動こうとしない者が一名――いや、一匹いた。
真っ白でふわふわの毛並みを持つ、この離宮の主。ハクだ。
彼は、クロが直したばかりの長机の上にどっかりと横たわり、大きなあくびをしていた。
私とクロが忙しく動き回っている間も、彼はずっとそこに寝そべっていたのだ。
『ふあぁ……。ご苦労なことだな。従者たちがせかせかと働くのを見るのは、なかなか愉快だぞ。そのまま精を出して、我の寝床を極上のものに仕上げるのだぞ』
彼は前足を舐めながら、完全にくつろいでいる。
自分は一歩も動かずに、私たちを見物しているのだ。
しっぽをぱたぱたと動かしながら、まるで観劇でもしているかのような余裕の態度だった。
なんとも横柄な態度だ。
しかし、ここで怒ってはいけない。
相手は伝説の神獣であり、猫である。
猫を思い通りに動かすには、北風ではなく太陽のアプローチが必要なのだ。
それに、私とクロだけでも掃除は十分にできるけれど、彼にも少しは参加してほしい。
一緒に作業をすることで、もっと家族としての繋がりが深まる気がするからだ。
それになにより、彼が魔法を使えばもっと早く片付くのは間違いない。
私はハクの気を引くために、わざと大きな声を出した。
「ちょっと、ハク。王様なら少しは手伝ったらどうなの?」
『馬鹿を言うな。我は王だぞ? 王たる者が、自ら泥水にまみれて掃除をするなどあり得ない。労働などという下等な行為は、お前たちに任せておけばいいのだ。我はここで、お前たちの働きぶりを評価してやるという重要な役目を担っているのだからな』
堂々とした言い訳だ。
私は心の中で苦笑しながら、次の手を打つことにした。
「そうね、王様は労働なんてしなくていいわ。でも、あそこを見て」
私は高い天井からぶら下がっている大きなシャンデリアを指差した。
クロの風魔法で大きな埃は落ちたものの、よく見ると埃が残っている。
今、クロは今は床の細かなへこみの点検に集中している。
「もしあそこを一瞬で綺麗にできるような、とてつもなく偉大で力のある存在がいたら、今日のお昼ご飯にとびきり上等な干し肉を大盛りで用意するのに……。あーあ、誰か助けてくれないかしら。王様みたいに偉大な力を持っている人がいてくれたら、本当に助かるんだけど」
私はわざとらしく大きなため息をつき、ちらりとハクの方を見た。
ハクの白い耳が、ぴくりと動いた。
寝そべっていた姿勢が、少しだけ前屈みになる。
『……とびきり上等な干し肉の大盛り、と言ったか』
「ええ。私が特別に用意した、一番美味しい部分よ。めったにいないわよね」
『ふはははは! カトリーナよ、お前は本当に無知だな!』
ハクは長机から勢いよく立ち上がり、胸を張った。
しっぽがピンと垂直に立っている。
『我を誰だと思っている! 最強の白虎、偉大なる王だぞ! あんな埃の一つや二つ、我が力をもってすれば瞬きする間に消し去ってくれるわ!』
「えっ、本当? ハクならできるの?」
『当然だ! よく見ておれ! 我の恐るべき力をその目に焼き付けるが良い!』
とても単純だ。
干し肉と少しのおだて文句で、伝説の王様はあっさりとその気になってくれた。
ハクは長机から床に飛び降りると、天井のシャンデリアを見上げた。
彼の金色の瞳が鋭く光る。
『吹き飛べ』
ハクが短く声を上げた瞬間だった。
局地的な強烈な突風が下から上へと吹き上がり、シャンデリアを直撃した。
風属性魔法だろう。
本体を壊すことなく、そこにしつこくまとわりついた埃だけが見事に吹き飛ばされる。
それだけでなく、突風は天井全体を舐めるように走り、残っていた細かな汚れをすべて外へと弾き出してしまった。
先ほどのクロの魔法よりも、さらに力強く、意志のある風だった。
「すごいわ、ハク! さすがは王様ね。一瞬で綺麗になっちゃった」
『ふん、どうだ。我の力にかかればこんなものだ。さあ、約束の干し肉をよこせ。大盛りだと言ったからな!』
ハクは得意げに鼻を鳴らし、私の足元にすり寄ってきた。
私は鞄から干し肉を取り出し、ハクの口元に運ぶ。
彼は機嫌よくそれを口に入れる。
『むしゃむしゃ……うむ。良い心がけだ。我を敬うことを忘れるなよ。もっと背中をさすっても良いぞ』
私は、しゃがみ込んで彼の柔らかい背中にそっと触れた。
真っ白でふわふわの毛並みは、極上の触り心地だ。
彼が掃除を手伝ってくれたお礼という名目で、たっぷりと毛並みを堪能させてもらう。
手伝ってほしかった理由の半分は、こうして彼と触れ合うためだったりもする。
「はい、約束通り。とっても助かったわ、ありがとう。ハクのおかげで、屋敷が見違えるように綺麗になったわ」
これで彼も、立派な掃除のメンバーだ。
私たち三人は、そのまま一階の他の部屋にも取り掛かった。
食堂の長いテーブルを綺麗に拭き上げ、その奥にある配膳室のかまども使えるように整える。
クロが風魔法で全体の埃を飛ばし、土魔法で壊れた場所を直し、水魔法でカビを吹き飛ばす。
私が水魔法で床や壁をピカピカに磨き上げる。
そして時々、機嫌を取って手伝わせるハクの魔法が加わる。
三つの力が一緒になることで、廃墟同然だった北の離宮の一階は、みるみるうちに人間が生活できる快適な空間へと生まれ変わっていった。
作業がひと段落した頃、私は配膳室の奥にある小さな窓に気がついた。
換気のために窓を開けようとしたのだが、金属製の留め具が曲がっていて、うまく開かない。
私が力を入れて引っ張っていると、クロが足元にやってきた。
『カトリーナ様、ここは私にお任せください。力任せに引っ張ると金具が折れてしまいます。少し形を整えれば直るはずです。修繕は私の得意分野ですから』
「ありがとう、クロ。お願いしてもいい?」
私は場所を譲った。
クロは窓枠の近くの台にひらりと飛び乗り、曲がった金属の留め具に向き直った。
彼は前足を伸ばし、留め具をつまんで形を直そうとした。
しかし。
カチャ。ツルッ。
クロの前足は、金属の表面を捉えることができなかった。
今の彼の姿は小さな黒猫であり、手には指がない。
あるのはふわふわの黒い毛と、柔らかいピンク色の肉球だけなのだ。
細かい金属の部品を強くつまんで引っ張ることは、物理的に不可能だった。
真剣な表情でクロは、もう一度前足で留め具を挟み込もうとした。
カチャカチャッ。
やはりダメだ。
魔法を使って家具全体を直すことはできるのに、手作業が必要な細かい部分は直せないようだ。
クロの表情に明らかな焦りが見え始めた。
彼は右の前足で試し、次は左の前足で試し、ついには両前足を使って必死に金属をひん曲げようとした。
ふんぬぅぅ、と小さな唸り声まで上げている。
しかし、肉球はぷにぷにと金属を押し返しているだけで、留め具の形は少しも変わらなかった。
頑張れば頑張るほど、肉球が押し込まれるだけだった。
『そんな……!』
クロの動きがピタリと止まった。
彼の耳がぺたんと頭にくっつくように下がり、しっぽがだらりと床に垂れ下がった。
『私は……執事失格です。かつては王の右腕として、どんな細かな作業もこなしてきたというのに……。今の私には、窓の留め具一つ直すことができない。これでは、お茶を淹れることも、ボタンを縫い付けることもできません。私は無能です……。ハク様にお仕えする資格などありません……』
どんよりとした暗い空気が、クロの小さな体から流れ始めた。
本気で落ち込んでいる。
彼にとっては、執事として主の身の回りの世話が十分にできないことは、大変な絶望なのだ。
私はあわててクロを慰めるためにしゃがみ込んだ。
「そんなことないわ、クロ。あなたは全然無能なんかじゃない。さっきだって、あれだけの家具を直してくれたじゃない」
『ですが、カトリーナ様……。私はこんな小さな金具ひとつ、どうすることもできないのです』
「貸してみて。ここは私がやるから」
私はクロの横に立ち、両手を使って曲がった留め具を慎重に押し戻した。
人間である私には、五本の指がある。
少し力は必要だったが、てこの原理を使って押し込むと、金具はカチンと音を立てて元の位置に戻った。
これで窓がスムーズに開け閉めできるようになった。
「ほら、直ったわ。ねえ、クロ。これは魔法の力とは関係ないの。ただの体の作りの違いよ」
私はひどく落ち込んでいるクロの頭にそっと手を伸ばし、優しくさすった。
彼の黒い毛並みはしっとりとしていて、とても滑らかだった。
「あなたたちは魔法がとっても得意。重いものを動かしたり、家全体を綺麗にしたり、外の敵から守ったりするのは、あなたたちの力が一番役に立つわ。私には真似できないことよ」
『……はい』
「でも、細かい手作業が必要なことは、私が得意なの。だって私には指があるから。だから、これからは役割分担をしましょう」
『役割分担、ですか』
クロが緑色の瞳を少しだけ大きくして、私を見た。
「そう。力仕事、警備、そして全体の掃除の魔法は、ハクとあなたにお願いするわ。その代わり、こういう細かい修理や、指先を使うような細かな作業は、全部私が担当する。そうすれば、お互いの得意なことで助け合えるわ。これでどうかしら?」
私の提案を聞いて、クロはしばらく黙って考えていた。
自分の小さな前足を見つめ、それから私の顔を見上げる。
やがて、彼はゆっくりと姿勢を正した。
ぺたんと下がっていた耳が、ピンと元に戻る。
『……なるほど。適材適所というわけですね。確かに、今の私の手では、小さな金具をつまむこともできません。力仕事や護衛は私とハク様が担い、細かな作業はカトリーナ様にお任せする。それが最も理にかなっているようです』
彼は小さく頷いた。
『悔しいですが、カトリーナ様の提案に従うのがもっとも道理にかなっているでしょう。実際の細かな作業はお任せしますが、屋敷の管理や家事の知識には自信があります。私の厳しい助言は覚悟しておいてくださいよ』
「ふふっ、ええ、頼りにしているわ。私の専属の家事アドバイザーね。クロの助言があれば、もっと快適な生活ができるはずだわ」
クロのしっぽが、パタパタと楽しげなリズムを刻み始めた。
どうやら機嫌を直してくれたようだ。
自分の得意分野で役に立てるとわかって、安心したのだろう。




