第六話:結界破壊と、手ごろなサイズの「白き王」 ~伝説の魔獣は極上の干し肉とマタタビに陥落しました~
私は呼吸を整え、意識を一点に集約させた。
頭の中に描くのは、前世で年末の大掃除の際に活躍した、あの強力な洗浄道具だ。水を極限まで圧縮し、細い管から勢いよく噴出させることで、頑固な汚れすらも削り取る水の刃。
狙うは、天井近くにある結界の綻び。長い年月を経て魔力が薄れている、その一点だ。
「いけ……!」
私の周囲の空間から、細く絞られた水流が放たれた。
それは一直線に空を走り、ドーム状の結界の上部に激突した。
バチバチバチッ!
激しい火花が散り、水と魔法陣が反発し合う鋭い音が地下空間に響き渡る。
結界が波打ち、抵抗しているのが伝わってくる。魔力の壁は厚く、硬い。けれど、水は決して退かない。岩をも穿つ滴のように、絶え間なく同じ場所を叩き続ける。
「もう少し……!」
額に汗が滲む。
魔力の消費に伴い、体から力が抜けていく感覚がある。足が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
ここで止めたら、あのお腹を空かせた可哀想な猫たちは、また何百年もご飯を待つことになるかもしれない。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
私の執念が、水流の勢いをさらに強めた。
ピキッ。
硬質な何かがひび割れる音がした。
結界の光が乱れ、狙っていた一点に亀裂が走る。
パリンッ!!
ガラス細工を床に落としたような高い音が響き、結界の一部が砕け散った。
ぽっかりと空いた穴。
そこから、内部に充満していた白い霧が溢れ出してくる。
『開いた! 開いたぞ! 自由だァァァ!!』
歓喜の叫びと共に、霧の中から何かが飛び出してきた。
私は身構えた。
巨大な白虎だ。着地の衝撃に備えなければならない。十メートルを超える巨体が降ってくるのだから、押しつぶされないように距離を取る必要がある。
――しかし。
煙を突き破って私の目の前に着地したのは、私の予想とはあまりにかけ離れた物体だった。
タンッ、と軽い音を立てて床に降り立ったのは、真っ白な毛玉。
いや、違う。
それは、私が抱きかかえることができるほどの白猫だった。
ふわふわの真っ白い毛並み。
ピンと立った三角の耳。
短めの手足に、少し長めの尻尾。
どこからどう見ても、単なる猫にしか見えない。
「……え?」
私が目を丸くしている間に、その白い生き物は迷いのない動きで床に置かれた干し肉へと突進した。
『肉ぅぅぅぅ!! 会いたかったぞ、我が愛しの肉よぉぉぉ!!』
彼は前足でガシリと干し肉を押さえ込むと、夢中でかぶりついた。
フガフガ、ムシャムシャと、野生などどこへやらといった勢いで貪り食う。その食べっぷりの良さと言ったら、見ているこちらが気持ちよくなるほどだ。
この猫のどこにそんな食欲があるのかと思うほど、大きな干し肉の塊はみるみるうちに小さくなっていく。
私はしゃがみ込み、その食事風景をじっと見守った。
可愛い。
猛烈に可愛い。
必死に肉を噛みちぎろうと頭を振る仕草も、嬉しさのあまり尻尾がピンと立って震えているところも、すべてが愛おしい。
これが、伝説の魔獣? 白い王?
詐欺だと言われても信じてしまいそうだが、この際そんなことはどうでもいい。
このもふもふ具合は、間違いなく国宝級だ。
やがて、干し肉を綺麗に平らげた彼は、満足げに一つ大きなゲップをした。
そして、前足で顔を丁寧に洗い始めた。
『ふぅ……。生き返ったわ。実に美味であった。人間にしては良い仕事をするではないか』
彼は顔を上げ、偉そうに私を見上げた。
金色の瞳は確かに理知的で、先ほどの巨大な影と同じ輝きがあった。
『褒めてやるぞ、小娘。我の空腹を満たした功績は大きい。……ん?』
そこで初めて、彼は違和感に気づいたようだ。
私を見上げる首の角度が、以前よりも急であることに。
そして、自分の前足が、以前よりも随分と短く、丸っこくなっていることに。
彼は恐る恐る、自分の前足を目の前にかざした。
ぷっくりとしたクリームパンのような白い手。鋭い爪は隠れ、ピンク色の肉球が柔らかそうに見えている。
『……な、なんだこれは』
彼は慌てて自分の体をねじるようにして振り返った。
そこにあるのは、勇猛な虎の胴体ではなく、丸みを帯びたモチモチの白い背中と、短くて愛らしい尻尾。
『ち、縮んでいるぅぅぅぅ!? なんたることだ! 我が威厳ある巨躯が! 鋼の筋肉が! なぜこのような軟弱な綿毛の塊になってしまったのだァァァ!!』
彼は頭を抱えるようにして、その場を転げ回った。
コロコロと転がる白い猫。
悲痛な叫びを上げているはずなのに、傍目にはただ猫がじゃれているようにしか見えない。
「あらあら……。封印が長すぎて、魔力が足りなくなってしまったのかもしれませんね」
私が助け舟を出すと、彼はハッと動きを止めた。
『そ、そうか。魔力切れか……。確かに、数百年も飲まず食わずで封印に抗っていたのだ。体が小さくなるのも無理はない……』
彼は自分に言い聞かせるように頷く。
『まあ良い。腹は満たされたし、この姿も動きやすくて悪くはない。威厳は多少損なわれたが、中身は変わらず最強の王であることに変わりはないのだからな』
立ち直りが早い。
そこらへんは、さすがは気まぐれな猫らしい。
彼は、えっへんと胸を張るようにして立ち上がり、私に向かって宣言した。
『よかろう、人間。貴様の献身に免じて、我の世話係となる栄誉を与えてやる。名はなんという?』
「カトリーナです。あなたは?」
『ふむ、カトリーナというのか。我の名を知りたいとは殊勝な心がけよのぉ。しかし、我には人間に名乗る名などない!』
「そうですか。なら、あなたの名前はハクでいいですね。ねぇ、ハク?」
『ハクだと?』
「そうよ、ハク。可愛くていい名前だと思うけれど。呼びやすいし」
『安直すぎるわ!却下だ!断じて認めん!もっと高貴で、恐ろしくて、世界が震えがるような名があるだろう!』
彼は毛を逆立てて抗議した。
『そもそも、白いからハクなど、貴様の命名センスはどうなっているのだ!もっとこう、破壊の帝王とか!あるいは、白銀の雷鳴とか、そういうのにしろ!』
彼はプイッと顔を背けた。
どうやらお気に召さないらしい。
けれど、私は彼が拒否できない「切り札」をまだ持っている。
私はポーチから、小さな小袋を取り出した。
封を開けると、独特の甘く刺激的な香りが漂い出す。
極上のマタタビの粉だ。
ピクリ。
彼の耳が反応した。
『……む? なんだ、この香りは……』
顔を背けていたはずの彼が、吸い寄せられるように振り返る。
私は掌に少しだけ粉を乗せ、彼の鼻先に差し出した。
「どう? ハク」
『ぬうぅ……! こ、これは……抗えん……! 体が勝手に……!』
彼は葛藤するように身をよじらせたが、本能には勝てなかった。
スリスリと私の手に顔をこすりつけ、喉をゴロゴロと鳴らし始める。
金色の瞳がとろんと蕩け、口元がだらしなく緩んでいる。
『あー……これ最高だニャ……。たまらんニャ……』
口調まで変わってしまっている。
私はその隙を逃さず、彼――ハクの顎の下や耳の後ろを、指先で優しく掻いてあげた。
ここが気持ちいいんでしょう? と問いかけるように。
『そこ……そこだニャ……。もっと……もっとやってくれニャ……』
「名前、ハクでいい?」
『……もう何でもいいニャ……ハクでもポチでも好きに呼ぶといいニャ……極楽だニャ……』
陥落。
伝説の魔獣は、マタタビと指先のテクニックの前にあっけなく敗北を認めた。
私は心の中で勝利を噛み締めつつ、至福の表情で身を委ねてくる白い猫の手触りを堪能した。
ふわふわで、温かくて、柔らかい。
最高だ。これまでの苦労がすべて報われた気がする。
ひとしきり堪能した後、ハクはハッと我に返ったように身震いをした。
『……っ! 我としたことが、不覚を取った……! 恐るべし人間、恐るべしマタタビ……』
彼はバツが悪そうに顔を洗ったが、すぐに気を取り直して周囲を見渡した。
『しかし、なんだこの汚さは。埃っぽいし、カビ臭い。王たる我が住まうには、あまりに環境が悪すぎるぞ』
彼は鼻を鳴らし、不満げに髭を震わせた。
確かに、ここはまだ掃除の手が入っていない地下室だ。
私が掃除を提案しようと口を開きかけた時、ハクが思い出したように耳をぴくりと動かした。
『そうだ。我の従者がいたはずだ。あいつが目を覚ませば、掃除くらいはやってくれるだろう』
「従者?」
『ああ。我の執事だ。封印される前はいつも側にいた。こまごまとしたことは何でもやる、便利な奴でな。……ただ、あいつも我と同じように封印されたはずだが、どこにいるかまでは知らん』
「知らないの?」
『当たり前だ。我が先に意識を失ったのだからな。おそらく、この地下のどこかに別の結界があるのだろう。何しろ、封印をかけた連中たちは狡猾だったからな。我と従者を一緒にしておくほど間抜けではあるまい』
人使い……いや、猫使いの荒い王様だ。従者がいるのに居場所も把握していないとは。
でも、執事がいるというのは助かる。この広い屋敷を私一人で管理するのは、正直骨が折れると思っていたところだ。
それに、もう一匹いるなら、きっとその子もお腹を空かせているはず。
「じゃあ、探しに行きましょう。一緒に」
『む。我が自ら出向くのか?』
「ハクの従者なんでしょう? 王様自ら迎えに行ったら、きっと喜ぶわ」
私がそう言うと、ハクは少し考えてから、えらそうに尻尾を立てた。
『ふん。まあよかろう。たしかに、この寛大な王の慈悲を見せてやるのも一興だ。……背負え、カトリーナ。歩くのは面倒だ』
「はいはい」
私はハクを肩に乗せた。
彼は当然のように私の肩でくつろぎ、その長い尻尾を私の首に巻き付けてくる。天然の極上マフラーだ。温かい。
私たちは、地下空間を探索した。
ハクの結界があった広間から奥へ続く通路がいくつかあり、その一つ一つを確かめていく。
通路は狭くて暗かったが、ハクの金色の瞳が薄闇の中で淡く輝いていて、どうにか足元は見えた。
右手の通路の先は、倉庫だった。古い家具などが山積みだったが、従者はいなかった。
左手の通路には、食糧庫だったようで、冷暗所として機能しており、ワインなどが置かれているだけだった。
そして、真ん中に足を踏み入れた時、ハクの耳がピンと立った。
『……この先だ。微かだが、あいつの気配がする』
「わかるの?」
『この程度の感知ができなくて、何が王か。王たる者、配下の気配くらいは寝ていても嗅ぎ分けられるのだ』
さっきまで「どこにいるかは知らん」と言っていたのに、近づいたら分かるらしい。
都合のいい鼻だ。いや、これこそが猫の本能なのだろう。
通路の奥は少し広くなっていて、そこに小さな魔法陣があった。
ハクのものと比べれば小規模で、人一人が入れる程度の大きさしかない。
けれど、その構造は確かで、結界の様子は暗くてよく見えなかった。
私は干し肉を一つ取り出した。
「お腹、空いてますよね?」
私が問いかけると、暗闇の中から上品な声が返ってきた。
『……お気遣い痛み入ります。恥ずかしながら、空腹で目が回りそうです。先ほどから漂ってくるあの芳しい香りに、理性が焼き切れそうになっておりました』
ハクとは対照的な、礼儀正しい言葉遣い。
でも、切実さは同じだ。
肩の上でハクが鼻を鳴らした。
『ふん、やはりここか。……おい、待たせたな』
結界の中から、わずかに空気が揺れた。声の主が反応したのだろう。
『おお主様……! その御声は、主様ですか……!?』
落ち着いた口調が一瞬だけ崩れ、驚きと安堵が混じった声が漏れた。
『声を荒げるな。みっともない。……さて、カトリーナ。あの結界を壊してやれ。いや、待て。やはり我がやる。あいつは我の従者だ。我の手で解放してやるのが筋というものだろう』
おや。
意外にも義理堅いところがあるらしい。
私がこっそり微笑むと、ハクは気づいたのか気づかなかったのか、しれっとした顔で肩から飛び降り、結界の前に立った。
小さな白い猫が、自分よりも大きな結界を見上げている。
その光景だけ見ると、どこか滑稽にも映るが、ハクの金色の瞳は真剣そのものだった。
空気が変わった。
地下の重たい空気が、一瞬にしてピンと張り詰める。
ハクの体から、淡い白い光が滲み出した。それは、有無を言わせない圧倒的な魔力の輝きだった。
『砕けよ』
短い一言。
詠唱も、身振りも、何もない。ただ、王の意思がそこにあった。
瞬間、結界全体がバラバラに割れた。
ガラガラと音を立てて結界が崩壊していく。
どうにかこうにか私が苦労して穿った結界を、ハクはたったの一言で粉砕した。
――やっぱり、この子はとんでもない存在なんだ。
改めてそう思いながら、私は崩れた結界の先を見つめた。
薄い煙が立ち込める中、ゆっくりと黒いものが動く。
煙の中から、一つの姿が現れた。
それは――
黒い猫だった。
サイズはハクとほぼ同じ。
闇夜を切り取ったような漆黒の毛並みと、宝石のような緑色の瞳を持つ、美しい猫。
彼は封印の残滓を振り払うように身体を一度ブルブルと震わせると、前足を揃え、流れるような動作で深々と頭を下げた。
『主様……! お迎えに来ていただけたのですか。何という慈悲深い……。感激の極みで……』
落ち着いた渋い低音に、感情が滲んでいる。
声だけ聞けばベテランの老紳士のようだが、その姿は可愛らしい黒い猫だ。
と、その時だった。
ハクが、くくくっ、と喉を鳴らして笑い始めた。
『ぷっ……くく……おい、お前……。なんだ、その姿は。随分と小さくなったものだな。今では我と同じ……いや、心なしか我より小さくないか?』
ハクは尻尾を足元でバタバタと叩きながら、愉快そうにヒゲを震わせている。
自分だって猫の姿になっているくせに、従者の姿を見て大笑いしているのだ。
黒猫は、はっとしたように自分の前足を見つめた。
クリームパン……ではなく、こちらは黒い手袋をはめたような、けれどやっぱり丸くて短い前足が目に入る。
彼はゆっくりと自分の体をねじるようにして背中を確認し、それから長くてしなやかだったはずの尻尾が、今はハクと同じ程度の短めの猫の尻尾になっていることに気づいた。
『………………え』
緑の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
『わ、私の体が……。私は高貴なる猫の従者たる……。なぜ、このような……』
彼の声がどんどん小さくなっていく。
耳がぺたんと伏せられ、尻尾が力なく垂れ下がった。
さっきまでの威厳ある低音は消え去り、しょぼくれた黒猫がそこにいた。
『主様と同じく、封印の影響で……この程度の身体になってしまったのですか……。私は……主様にお仕えする執事でありながら……この姿では……』
『ぶはっ、やめろ、その顔! 面白すぎて腹が痛い! 耳がぺったんこだぞ! お前、昔は「主様の右腕」とか言って偉そうにしていたくせに、今じゃただの猫ではないか!』
ハクは前足をバタバタさせて大笑いしている。
小さな白い猫が転げ回って笑う姿は、それ自体が愛らしいのだが、本人にはその自覚がまったくないらしい。
さすがに見かねて、私は口を開いた。
「ハク。あなたも人のこと言えないでしょう。同じ猫の姿じゃない」
ハクがピタリと笑いを止めた。
『……は? 我のこの姿は、選択の結果だ。仮の姿であって――』
「さっき自分で『なんたることだ、我が威厳ある巨躯が、なぜこのような軟弱な綿毛の塊に』って喚いていたのは誰だったかしら」
『ぐっ……!』
ハクが言葉に詰まる。
黒猫が、くすりと小さく笑った。
『……主様も、同じ御姿でしたか。それならば、少しは救われる思いです』
『救われるな! 我と一緒にするな! 我は王だぞ!?』
「はいはい、王様は偉い偉い。……ところで」
私は騒がしい白猫を片手であしらいながら、黒猫の前にしゃがみ込んだ。
干し肉をそっと差し出す。
「まだお腹空いてるでしょう? まずは食べて。話はそれからにしましょう」
黒猫は耳をわずかに持ち上げ、私の顔を見つめた。
それから、恐る恐る干し肉に鼻を近づけ、一口噛みちぎる。
『……んっ。……素晴らしい。肉の旨味が凝縮されています。ハーブの香りも心地よい。これは良いものです』
ハクとは対照的に、一口サイズに噛みちぎってから上品に咀嚼する。
しみじみと味わうその姿は、美食家のようだった。
食べ終わると、彼は口元を前足で丁寧に拭い、居住まいを正した。
伏せられていた耳が少しだけ戻り、緑色の瞳に落ち着きが戻ってきている。
『重ねて感謝いたします、カトリーナ様。……この姿には動揺いたしましたが、主様と共にいられることに変わりはありません。それだけで十分です』
彼の声は静かだったが、ハクへの深い忠誠が滲んでいた。
「こいつの名前はハク、ね」
私が彼に言う。
『我が特別に、そう呼ぶことを認めた名だ。貴様もそう呼ぶがよい!』
『はい、ハク様!』
黒猫が白猫の前でしっぽを振っている。
猫の集会の一場面のようにしか見えないが、伝説の魔獣同士なのだ。
猫にしか見えないけれど。
ふと、私は彼にまだ名前がないことが気になった。ハクはただ「従者」や「あいつ」「貴様」と呼んでいたけれど、これから一緒に暮らすのに、それでは呼びにくい。
「ねえ、あなたのお名前は?」
私が尋ねると、彼は少し困ったように首を傾げた。
『名前……ですか。私は、ただの従者ですので』
「それじゃあ不便だわ。この子の名前も、私がつけてもいいかしら?」
『王たる我が特別に許そう』
『カトリーナ様がそう望まれるのであれば』
彼は静かに頷いた。
興味なさのようにハクはそっぽを向いた。
ちょっとハク、部下に冷淡じゃないの?そう思ったけれど、今は彼の名前を付けることが先だ。
私は彼の姿をじっと見つめた。
闇に溶け込むような、美しい黒。余計な装飾のない、洗練された色。
「……クロ。クロはどう?」
シンプルすぎるかもしれない。でも、彼の真っ直ぐで飾らない性質には合っている気がした。
彼はその名前を口の中で転がすように呟いた。
『クロ……。クロ、ですか。短く、呼びやすい。それに、どこかハク様に通じる名前です』
彼は満足そうに目を細めた。
『ありがとうございます、カトリーナ様。今日から私はクロと名乗らせていただきます』
『ふん、安直な名前だな。だがまあ、覚えやすくていい。白と黒で対になっているのも、悪くはないだろう』
ハクが横から口を挟んだが、その尻尾は機嫌よさそうに揺れている。
さっきまで大笑いしていたくせに、なんだかんだで従者が戻ってきたことが嬉しいのかもしれない。
『さて、クロ。腹も満たされたことだし、職務に戻れ』
ハクが顎で部屋の隅を指し示した。
『この屋敷は汚すぎる。王たる我が住まうには不快だ。お前の手でピカピカに磨き上げろ』
クロは周囲を見渡し、眉をひそめた。
『……もちろんです。この地下の部屋も、埃だらけ、蜘蛛の巣だらけではありませんか。これでは執事の名折れです』
クロの尻尾が、パタパタと忙しなく動く。
さっきまでしょぼくれていたのが嘘のように、彼のやる気スイッチが入ったようだ。
やはり、この子は根っからの執事気質なのだろう。仕事があれば、自分の姿がどうであれ、前に進める。
『カトリーナ様。ハク様。少々お時間をいただけますか? まずは最低限、居住スペースだけでも整えさせていただきます』
「ええ、もちろん。手伝うわ」
『滅相もございません。主の手を煩わせるわけには参りません。ここは私にお任せを』
クロはそう言うと、前足で床を軽く叩いた。
すると、ふわりと風が巻き起こった。
屋敷の中に澱んでいた空気が動き出し、新鮮な外気が流れ込んでくる。
淀んだ空気が浄化されていくのを肌で感じた。
周囲の地下空間のカビやほこりが一掃されたようだ。
『さすがだ、クロよ。期待しているぞ!』
『はい、ハク様!』
そうして、二匹の猫は先を進みだした。




