第五話:地下に眠る封印の獣 ~「背中が痒い」「暇すぎる」って、ただの拗ねた巨大猫ですよね?~
私は屋敷の正面に立った。
傾いた大扉の前。
近くで見ると、扉は分厚い。そこにある鉄の飾り金具が錆びてボロボロになっている。残っている片方の扉に、両手をかけた。
ずっしりと重い。
体重をかけて押し込むと、ゆっくりと扉が少しだけ開いた。
中から流れ出したのは、カビと埃と、長い年月が凝縮されたような、古い空気だった。
目を凝らして内部を覗き込む。
暗い。天井からの崩れた瓦礫が光を遮っているのだ。かろうじて、広い玄関ホールらしきものが見える。
床には落ち葉と土埃が積もり、壁にはひび割れが走り、階段の手すりは折れて倒れていた。
その時だった。
地下の、ずっと奥の方から。
地面そのものが鳴っているような、低く、重い音が響いてきた。
ズウウウウン。
足元がかすかに振動する。
続いて、咆哮が来た。
文字にすれば、「グルルルルルアアアアア」という、獣の唸り声だ。空気がビリビリと揺れ、天井からパラパラと埃が落ちてくる。普通の人間がこの音を聞けば、腰が抜けるだろう。
実際、後ろの方で山猫たちが「やべえ、始まった」とざわめいている。
だけど、私の耳には、その咆哮の「中身」がはっきりと聞こえていた。
『供物はまだかぁぁぁ!! 我を何百年放置する気だ愚かな人間どもぉぉぉ!! 腹が減りすぎて目が回るわぁぁぁ!! 干し肉でも生肉でもなんでもいいからよこせぇぇぇ!! 背中! 右の肩甲骨の下あたりが猛烈に痒い!! この結界は狭すぎて身体が伸ばせん!! 爪とぎもない!! 誰か来て我を崇め奉りつつ背中を掻けぇぇぇ!!』
……飯はまだか。背中が痒い。爪とぎが欲しい。誰か来い。
私は思わず、くすりと笑ってしまった。
うん、間違いない。
これは「猛獣の咆哮」ではなく、単なる「お腹空いたコール」だ。
私は恐怖を感じるどころか、むしろ口元が緩んでしまうのを止められなかった。
これから会いに行くのは、恐ろしい化け物なんかじゃない。
お腹を空かせて拗ねている、ちょっと大きな猫ちゃんだ。そう思えば、足取りも軽くなるというものだ。
私は重たい扉の隙間から、屋敷の中へと足を踏み入れた。途端に、ひんやりとした湿気を含んだ風が頬を撫でる。長い間、閉め切られていた建物特有の、カビと埃が混ざったような匂いが鼻をついた。
屋敷の内部は、外から見た印象を裏切らない荒れようだった。かつては来客を迎えていたであろう広い玄関ホール。
高い天井を見上げれば、本来ならば美しい輝きを放っていたはずのシャンデリアが、今は分厚い蜘蛛の巣に覆われ、埃まみれの塊となって力なくぶら下がっている。
床には枯れ葉が吹き溜まりを作り、ところどころ板が腐って穴が開いていた。壁紙は湿気でふやけて剥がれ落ち、その下から黒ずんだ石の肌が覗いている。
まさに、お化け屋敷。夜に一人でここへ来いと言われたら、さすがの私でも尻込みしたかもしれない。
けれど、昼間の光が差し込む今、私の目にはこの惨状が「宝の山」に見えていた。
「……なるほど。これはやりがいがありそうね」
私は腕組みをして、ホールを見渡した。確かに汚い。ボロボロだ。掃除をするだけでも一苦労だろう。でも、建物の骨組みはしっかりしている。石造りの壁は分厚く、基礎も頑丈そうだ。何より、この広さが素晴らしい。
あそこの高い壁には、段差をつけて板を渡せば、猫たちが喜んで駆け回るキャットウォークになる。天井が高いから、三段、いや四段はいけるかもしれない。
あの大きな窓辺は、日当たりが良さそう。ふかふかのクッションを並べれば、最高のお昼寝スポットになるはずだわ。この広いホールは、猫たちが全力疾走して運動会をするには十分な広さだ。
家具を少なめにして、障害物競走のコースを作るのもいいかもしれない。
私の頭の中では、すでにリフォーム後の「猫御殿」の完成予想図が出来上がりつつあった。
前世では、ペット不可の狭いアパート暮らしだった私にとって、この広さは夢にまで見た贅沢だ。自分の手で、猫たちのための理想的な環境を作り上げる。そう考えただけで、これから始まる苦労よりも、楽しみの方が勝ってしまう。私も随分とたくましくなったものだ。貴族の令嬢だった頃の私がこれを知ったら、卒倒してしまうかもしれない。
そんなふうに一人でニヤニヤしている私の様子を、開け放たれた大扉の外から、山猫たちがいぶかしげに覗き込んでいる。
『やっぱり帰った方がいいんじゃないか? 王様、相当機嫌悪いみたいだぜ。さっきからずっと文句言ってるし』
『おい、人間。王の遠吠えを聞いて、何ニヤニヤしてるんだ? 気味が悪いぞ』
『あの叫び声。もう無理ニャ。ヒゲがピリピリする』
山猫たちは決して屋敷の敷居を跨ごうとはせず、扉のすぐ外の安全圏で身を寄せ合い、不安そうに耳をあちこちに動かしている。尻尾は完全に足の間に挟まり、いつでも森へ逃げ出せる体勢だ。
無理もない。屋敷の奥底からは、依然としてあの地響きのような唸り声が続いているのだから。
ズウウウウン……グルルルル……。
建物の柱や床を伝って、振動が足の裏にビリビリと届く。普通の人間なら、本能的な恐怖で動けなくなる音だ。でも、私にはその声の「中身」が、あまりにもはっきりと聞こえてしまう。
『……人間どもめ……。我をいつまで放置するつもりだ……。腹が減ってかなわぬ……。背中も痒い……。首のあたりが猛烈に痒いのだ……。誰か……誰かあるならば、我の前に姿を見せよ……退屈で死にそうだ……』
唸り声の裏側にあるのは、切実すぎる訴えだった。怒りというよりも、長すぎる孤独と空腹に拗ねて、駄々をこねている子供のようだ。数百年の間、誰にも構ってもらえなかった寂しさが、ひしひしと伝わってくる。背中が痒いのにかけない辛さは、私にもよくわかる。
「私は地下へ行くわ。王様にご挨拶してこなくちゃいけないから。あなたたちはどうする?」
私が振り返って扉の外へ尋ねると、山猫のボスがブルブルと首を横に振った。
『俺たちはここまでだ。悪いが、ここから先へ進む気はねえニャ。王の八つ当たりに付き合うのは御免だニャ』
『そうだそうだ。俺たち、まだ長生きしたいし』
『ここで待ってるから、もし生きてたら戻ってきてくれニャ』
薄情なようだが、これが野生の世界で生きる彼らの知恵なのだろう。彼らに無理強いをするつもりはない。ここまで案内してくれただけでも十分に感謝している。
「わかったわ。じゃあ、その扉の外で荷物を見張っていてくれる? すぐに戻るから」
私は山猫たちに荷物を預けることにした。地下に何があるかわからない以上、身軽な方がいい。ただし、一番大事な「交渉のための道具」だけは別だ。私は特製の干し肉が入った包みと、マタタビの粉が入った小袋だけをしっかりと腰のポーチに詰め込んだ。これが私の武器であり、平和条約を結ぶための切り札だ。
「じゃあ、行ってくるわね」
私は山猫たちに手を振り、ホールの奥へと進んだ。正面には、二階へと続く立派な大階段がある。その脇に、地下へと続く小さな鉄の扉があった。留め具が赤く錆びつき、見るからに重そうだ。私は深呼吸をして、両手に力を込めた。
ガリガリと耳障りな音を立てて、扉が開いていった。人が一人通れるくらいの幅が開いたところで、私は手を止めた。開いた場所からは、ひときわ冷たく、重い空気が流れ出してくる。カビの臭いとは違う、もっと古く、濃い気配。魔力だ。目には見えないけれど、肌にピリピリと静電気が触れるような感覚がある。
明かりはない。私は照明の魔法を使えないし、松明も持っていない。本来なら、暗闇の中を進むのは無謀だ。けれど、今の私には不思議な確信があった。この先は大丈夫なのだと。
それに、暗闇に目が慣れてきたのもあるかもしれないが、地下からはうっすらと青白い光が漏れてきている。
私は扉の隙間から、地下へ続く階段へ進む。
その石段に足をかけた。一段、また一段。地下への階段を降りていく。
コツ、コツ、コツ。
自分の足音だけが、狭い通路に反響する。空気はさらに冷え込み、吐く息が白くなるのがわかる。壁の石材は湿っていて、手を触れるとじっとりと濡れていた。階段は長く、どこまでも続いているように思えた。まるでおとぎ話に出てくる、冥界への入り口のようだ。
相手は伝説の魔獣。いくら言葉が通じるとはいえ、その気になれば指先一つで私など吹き飛ばせる存在だ。
『……む? なんだ、この香りは?』
下から、それまでとは違う声が聞こえた。唸り声でも嘆きでもない、素朴な疑問の声。
『……むっ? 風に乗って、芳醇なる匂いがするぞ……。これは……肉か? しかも、ただの生肉ではない……。香草の香りがするではないか……』
くんくん、と鼻をすするような音まで聞こえてくる。私は思わず吹き出しそうになった。
どんなに離れていても、美味しいものの匂いには敏感。やっぱり、中身は猫だ。
私は腰のポーチを軽く叩いた。ここに入っている特製干し肉の威力は絶大らしい。これならいける。私は足取りを早め、階段を降りていった。
◇
階段を降りきると、そこには広大な空間が広がっていた。天井は見えないほど高く、壁も遥か遠くにある。まるで、地下に巨大な広場を丸ごと作ったかのようだ。
その空間の中央に、それはあった。
巨大な魔法陣。床一面に刻まれた複雑な光の線が、青白く発光している。その光が、この広い空間における唯一の光源だった。そして、魔法陣の中心には、半透明のドーム状の壁――結界がそびえ立っている。
結界の内部は、濃い霧のような白い煙で満たされていた。その煙の中に、巨大な影がうごめいている。体長は優に十メートルを超えるだろうか。しなやかで力強い四肢。長く太い尻尾。そして、三角形の耳。
間違いない。あれが、北の離宮に封印されし伝説の魔獣。白い王。
私が空間に足を踏み入れると、魔法陣の光が強まった。侵入者を感知したのだろうか。それと同時に、結界の中の影がこちらを向いた。
二つの金色の瞳が、霧の奥からぎらりと輝く。
「……何者だ」
重く、低い声が響いた。それは、先ほどまでの独り言とは違い、明確な意思と威厳に満ちたものだった。空気が震える。肌に突き刺さるような重圧。これこそが『王の威圧』なのだろう。普通の人間なら、この声を聞いただけで腰を抜かしていてもおかしくない。
しかし、相手は猫だ。
「我の眠りを妨げる愚かな人間よ。命が惜しくば、即座に立ち去れい!!」
咆哮と共に、凄まじい風圧が吹き荒れる。結界があるにもかかわらず、その殺気は風となって私を襲った。髪が舞い上がり、服がバタバタとはためく。
怖い。生き物としての本能が、逃げろと警鐘を鳴らす。けれど、私の耳は、その恐ろしい言葉の裏にある「本音」を、余すことなく拾い上げていた。
『……また人間か。どうせ何も持っておらぬのだろう。退屈だ。いい加減腹が減ったし、背中も痒いし、暇すぎて死にそうだ……』
……忙しいな、この王様。
威嚇と空腹と退屈が、頭の中で一緒くたになっている。私は、ゆっくりと魔法陣の縁まで歩み寄った。
ここで怯えてはいけない。猫という生き物は、相手が怖がればつけあがるし、逆に堂々としていれば一目置くものだ。たとえ相手が伝説の魔獣であろうと、基本は同じはず。
私は背筋を伸ばし、スカートの裾をつまんで、貴族の礼儀作法に則った優雅な一礼をした。
「初めまして、北の王よ。私はカトリーナ。この屋敷の新しい主となった者です」
私の静かな声が、広い空間に響く。魔獣の動きが止まった。金色の瞳が、驚いたように瞬きをする。
「……ほう。我の前で平伏さぬとは、肝の据わった小娘だ。だが、我は機嫌が悪い。貴様のようなひ弱な人間など、一口で――」
『……む? この匂い……やはりこの小娘からするのか? 猛烈に食欲をそそる匂いだ……。なんだこれは……たまらん……』
建前と本音が交互に聞こえてくるので、笑いをこらえるのが大変だ。私はにっこりと微笑んだ。あくまで、慈愛に満ちた聖母のような顔で。
「王よ。さぞやお腹が空いているのではありませんか?」
図星を突かれた魔獣が、びくりと身体を震わせた。
「な、何を馬鹿な……。我は誇り高き白虎。空腹などという低俗な欲求とは無縁――」
『ぐうううううう……』
盛大な腹の虫の音が、空間全体に響き渡った。それはもう、雷鳴のような轟音だった。
「…………」
沈黙が流れる。気まずい。とてつもなく気まずい空気が、私たちの間に漂う。
「……コホン」
魔獣がわざとらしい咳払いをした。
「……まあ、数百年の間、何も食していないのは事実。多少、小腹が空いていると言えなくもない」
素直じゃない。そこもまた、猫らしいといえば猫らしいけれど。
「そうですか。それは大変失礼いたしました。実は、引越しの挨拶代わりに、些細なものですが手土産を持参したのです」
私はもったいぶって、腰のポーチから干し肉の包みを取り出した。油紙で何重にも包んでいるが、それでも漏れ出す香りは隠せない。私はゆっくりと包みを開いた。
ふわっ、と濃厚な肉の香りが広がる。上質な赤身肉を、数種類の香草と、希少な岩塩で漬け込み、じっくりと風干しにして旨味を凝縮させた特製品だ。噛めば噛むほど味が染み出す、私にとっての自信作でもある。
その香りが届いた瞬間、結界の中の霧が激しく揺れ動いた。巨大な影が、ソワソワと落ち着きなく左右に動き回る。
『……なんだそれは。見たことのない肉だ……。だが、我の本能が告げている。それは極上の味がすると……。食いたい……今すぐ食いたい……』
心の声が漏れ出している。もう、威厳も何もあったものではない。私は包みを手に持ったまま、少しだけ首を傾げてみせた。
「おや? お気に召しませんか? 誇り高き王には、このような庶民の食べ物は相応しくないかもしれませんね。残念ですが、これは私が後でいただくことに――」
「待て!!」
食い気味に、声が飛んできた。
「……その、なんだ。貴様の殊勝な心がけを無下にするのも、王の度量に関わる。特別に、味見をしてやらんこともない」
上から目線だが、尻尾が左右に大きく振られているのが影の動きで丸わかりだ。私は心の中で小さく拳を握った。落ちた。ちょろい。伝説の魔獣といえど、猫は食欲に勝てないのだ。
「それは光栄ですわ。では、こちらへ」
私は干し肉の一つを手に取り、結界のすぐ手前の床に置いた。半透明の壁を隔てて、わずか数メートルの距離。魔獣が顔を近づけてくる。霧が薄れ、その姿がぼんやりと見えた。美しい白い毛並み。鋭い牙。でも、鼻をヒクヒクさせているその仕草は、完全に餌を待つ飼い猫そのものだ。
魔獣が前足を伸ばし、結界の壁に触れる。バチッ!青白い火花が散り、前足が弾かれた。
「ぬぐっ……!」
魔獣が呻き声を上げる。そう、ここには壁がある。中から出ることも、外から入れることもできない強力な封印。目の前にご馳走があるのに、食べられない。これほどの拷問はないだろう。
『……忌々しい……! 目の前に肉があるというのに……! この結界さえなければ……! ぐぬぬ……我に肉をよこせ……』
魔獣が地団駄を踏み、結界を爪で引っ掻く。カリカリと耳障りな音が響くが、結界はびくともしない。
「……かわいそうに」
私は本心から同情した。お腹を空かせた猫にお預けをするのは、私の信条に反する。何とかしてあげなければ。
私は干し肉を一旦戻し、結界に近づいて観察を始めた。魔法陣は複雑だが、動力源となっている魔力の流れが見えるわけではない。私は魔法陣のエキスパートではないのだ。
ただ、私は視線を巡らせた。ドーム状の結界の上部。天井に近いあたり。そこだけ、青白い光がわずかに明滅し、薄くなっている箇所があった。
あそこなら、あるいは。
私は白い王の方を振り返った。金色の瞳が、「早くなんとかしろ!」と涙目で訴えてきている。その必死な姿は、あの伝説の魔獣というよりも、ご飯を待ちきれないただの「お腹を空かせた大きな猫」にしか見えなかった。
「待っていてくださいね。今、お食事をお出ししますから」
私は袖をまくり、気合を入れた。さあ、ここからが私の腕の見せ所だ。
魔法を使って、この頑丈な鳥籠をこじ開けてみせようじゃないか。
すべては、もふもふのために。
私は、ただ強く頭の中で絵を描いた。狙うは結界上部の綻び。使う魔法は、私の得意な水属性。水は、どんな場所にも入り込み、使いようによっては岩をも砕く力を持つ。
「『ウォータ』」
私の静かな宣言と共に、手の中に水が集まり始めた。目指すは、最強の水圧カッターだ。私は、一点集中の水流を思い描き、結界の薄い部分へと照準を定めた。




