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第四話:北の離宮は幽霊屋敷!? ~お腹を空かせた「怒れる王(?)」の切実な心の声~

 旅が始まって、もう二週間が過ぎた。

 馬車の窓から見える景色は、出発した頃とはすっかり変わっている。王都の周辺に広がっていた金色の麦畑は、いつしか深い緑の針葉樹に取って代わられた。道幅もどんどん狭くなり、石畳は途中で途切れて、ただの泥道に変わった。


 ガタン、ゴトン。


 馬車が揺れるたびに、お尻の骨に地面の硬さが直に伝わってくる。もう慣れた。というより、痛みに感覚が麻痺してきたのかもしれない。


 周囲の景色は一変していた。

 木々はまばらになり、枝に葉はほとんどついていない。空は低く垂れ込め、灰色の雲がどこまでも続いている。風が冷たい。吐く息がうっすら白くなってきた頃、ついに空から白いものがちらつき始めた。


 雪だ。


 窓の外に手を伸ばすと、ひとひらが掌に落ちて、すぐに消えた。

 王都では滅多に見ない光景だ。北へ来たのだと、肌で実感する。


「……お嬢様。その、本当にこの先へ行かれるんで?」


 御者台から、遠慮がちな声が降ってきた。

 この御者は旅の初日こそ無愛想だったが、日が経つにつれ、別の意味で口数が減っていった。最初は「いちいち話しかけるな」という態度だったのが、今では「怖くて喋りたくない」に変わっている。

 彼が怯えているのは、寒さだけではない。

 宿場町に立ち寄るたびに、土地の人間から聞かされる噂のせいだ。「北の森には化け物が出る」「あの先に住んでいた者はみんな、二度と帰ってこなかった」。そんな話ばかりが、聞こえてくるのだから。


「ええ、行きますよ。予定通りに」


 私が何でもないように返すと、御者は小さく唸っただけで、それ以上は何も言わなかった。

 手綱を握る彼の背中が、日に日に丸くなっている気がする。


 正直なところ、寒さに関しては私も楽ではなかった。

 だけど、平気でいられる理由がある。

 私は外套の内側に手を入れ、懐に抱えた小さな布袋をぎゅっと握りしめた。中に入っているのはマタタビの粉だ。こんなものがカイロの代わりになるはずもないのだが、この袋を抱えていると不思議と心が温まる。

 だって、この先にいるのだ。

 真っ白で、フワフワで、触り心地は極上だという、伝説の「もふもふ」が。



 旅の間、私は行く先々で情報を集めていた。

 宿場町の裏路地、街道沿いの農家の軒先、あるいは馬車が水を飲ませに寄った小川のほとり。どこにでも、「彼ら」はいた。

 猫のネットワークは、私が思っていたよりも遥かに広範囲に張り巡らされていた。王都の猫から北方の猫へ、北方の猫からさらに奥地の猫へ。私の「猫語がわかる人間」という評判は、私自身よりも先に北へ届いていたようで、行く先々で猫たちが出迎えてくれた。


『おう、あんたが噂の通訳人間か! 話に聞いてたより普通の人間だニャ』


 ある宿場町の塀の上に座っていた、太った三毛猫がそう言って笑った。


「普通って、どんなのを想像してたの?」


『もっとこう、全身から猫の匂いがプンプンする、やべー感じの人間ニャのかと』


 失礼な。いや、遠からずかもしれないが。


「北の離宮のことで何か知ってることはない?」


 私が尋ねると、三毛猫は片耳をぺたんと伏せた。


『あー、あの屋敷。あそこの地下に眠ってるっていう白い王様、相当気難しいって話ニャ。機嫌を損ねたら最後、大地がひっくり返るとか何とか』


「気難しい……」

『けど、めちゃくちゃフワフワしてるらしいニャ。毛並みだけなら、この世のどんな猫にも負けないって、北の連中が言ってたニャあ』


 その言葉に、私の背筋がぴんと伸びた。

 気難しい? 関係ない。

 むしろ、ツンデレの猫ほど懐いた時の破壊力が凄まじいことを、前世の猫カフェ通いで私は熟知している。


 別の日には、山道で出会った痩せた灰色の猫から、また違う情報を得た。


『白い王ってのは、昔はこのあたりのヌシだったらしいニャ。怒らせると怖いけど、気に入られれば森の恵みを分けてくれるって、じいちゃんが言ってたニャ』


 ヌシ。

 森の恵み。

 なんという響き。なんという魅力。

 もふもふで、強くて、頼りになる王様。


 私は馬車の中で一人、声を殺してガッツポーズをした。

 この旅は、間違いなく正しい選択だった。




 それからさらに数日。

 ある朝、御者が馬車を止めた。


「お嬢様。この先の道、もう馬車じゃ無理です。轍もねえし、道自体がなくなってます」


 覆いを開けて前を覗くと、確かに道らしき道は消えていた。

 あるのは、背の低い灌木がまばらに生えた荒れ地と、その奥に黒々と広がる針葉樹の森だけだ。冷たい風がびゅうびゅうと吹き抜け、私の髪を乱暴に攫っていく。


「地図によれば、この森を抜けた先に離宮があるはずです。もう少しだけ――」

「いえ、ここまでにさせてください」


 御者の声は固かった。

 彼は御者台から降り、荷台に積まれた私の荷物を手際よく地面に並べ始めた。その手つきに迷いはない。


「この先は、私には行けません。旦那様からの命も、ここまでとのことですから」


 私は馬車から降り、足元の固い地面を踏みしめた。ブーツの底から冷気が伝わってくる。


「お嬢様」


 荷物を下ろし終えた御者が、手綱を握り直した。


「……お達者で」


 その一言だけを残して、彼は馬車の向きを変えた。

 ガラガラと車輪が回り、来た道を引き返していく。馬車はみるみる小さくなり、灰色の空に吸い込まれるようにして消えた。


 私は一人になった。

 風の音だけが、耳元でゴウゴウと唸っている。

 足元には、私の全財産であるいくつかの荷物。

 前方には、人の気配など欠片もない森。


 ――よし。


 私は大きく息を吸い込んだ。

 冷たい空気が喉を通り、腹の底まで届く。

 怖くないと言えば嘘になる。でも、足が止まるほどではない。

 この先に、あの子たちが待っているのだから。


 私は荷物を背負い、森の中へと足を踏み入れた。



 森の中は、外よりもずっと静かだった。

 風は木々に遮られて弱まり、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。枯れ枝を踏むたびに、パキパキと乾いた音が立つ。

 鳥の声がしない。

 虫の羽音も聞こえない。

 まるで、この森全体が息を殺しているような、そんな不思議な静けさだった。


 どれくらい歩いただろう。一時間か、あるいは二時間か。

 不意に、木々の間から視界が開けた。

 そこに、それはあった。


 北の離宮。

 私が目指してきた、新しい家。


 ――いや。


 「家」と呼んでいいのか、これは。


 確かに目の前にあるのは、かつて立派な屋敷だったことが辛うじて分かる、巨大な洋館だった。

 三階建ての石造りの建物。しかし、その壁はあちこちで崩れ、ツタがびっしりと這い出している。屋根の瓦は半分以上が落下し、むき出しになった梁が空を向いている。窓という窓のガラスは一枚残らず割れており、中から冷たい風が吹き出している。正面の大扉は片方が脱落して地面に倒れ、もう片方も傾いて今にも落ちそうだ。

 庭は雑草に埋もれ、噴水だったらしき石の塊は、苔に覆われて原型を留めていない。


 幽霊屋敷。

 前世で見たホラー映画に出てきそうな、まさにそんな見た目だった。


「…………」


 私はしばらく無言で、その光景を眺めた。

 想像はしていた。廃墟同然だとは聞いていた。

 だけど、実物は想像の三倍くらい酷い。


 その時、背後でバサリと音がした。

 振り返ると、さっき私を降ろして去ったはずの御者が――いや、違う。

 そこには誰もいなかった。

 代わりに、森の木々の間から、いくつもの光る目がこちらを見ていた。


 ザッ、ザッ、と枯れ葉を踏む音。

 低い木の陰から、一匹、また一匹と、獣が姿を現す。


 猫だ。

 だが、王都で見た飼い猫とはまるで違う。

 体格は犬ほどもあり、毛並みは荒く、筋肉質な四肢が力強い。耳は大きく、牙がちらりと覗いている。その目つきには、愛らしさの欠片もない。

 山猫。

 野生の、本物の猫科の獣。

 その数、ざっと見ただけで七、八匹。

 彼らは私を中心にして、ゆっくりと輪を作り始めた。


『何だ、こいつ。人間か?』

『こんなところに人間が来るなんて、珍しいな』

『食えるのか?』

『お前、馬鹿だな。人間は不味いってオヤジが言ってたぞ』


 頭の中に、彼らの会話が流れ込んでくる。

 王都の猫たちよりも声が太くて荒っぽい。言葉遣いも乱暴だ。でも、ちゃんと猫語として理解できる。


 私は荷物をゆっくりと地面に下ろし、両手を広げて見せた。敵意がないことを示すためだ。

 そして、口を開いた。


「こんにちは。私は南から来ました。ここで暮らさせてもらおうと思っているの」


 山猫たちの動きが、ぴたりと止まった。

 七、八対の目が、一斉に私に集中する。


『……今、こいつ、猫の言葉を喋ったか?』

『喋った。絶対喋ったニャ。俺の耳は間違えねえ』

『嘘だろ。人間が猫語を?』


 ざわめきが広がる。

 警戒が、驚きに変わっている。

 私はその隙を逃さなかった。

 背中の荷物から、とっておきの品を取り出す。


 高級な干し肉だ。

 王都の市場で手に入る中でも最上級の、牛の腿肉を丁寧に塩漬けにして干したもの。人間が食べても美味い。猫が食べたら、もっと美味い。

 私はそれを一つ、二つ、三つと、山猫たちの前に並べた。


「よかったら、食べて。旅の挨拶代わりに」


 肉の匂いが広がった瞬間、山猫たちの目の色が変わった。


『……ほう。なかなかいい匂いだな』

『おい、食っていいのか、これ?』

『肉だ、肉だニャ! しかもすげえいい肉!』


 一匹がおっかなびっくり――いや、そそくさと近寄り、干し肉に鼻を近づける。ひとかじりした途端、尻尾がぴんと立った。


『うめえ! 何だこれ、うめえぞ!』


 その声を合図に、残りの山猫たちも我先にと干し肉に飛びつく。

 警戒心? なにそれ、食べられるの? とでも言いたげな勢いだ。

 ものの数分で、干し肉はきれいさっぱりなくなった。


 猫という生き物は、どの世界でも変わらない。

 美味しいご飯をくれる者は、味方だ。それが猫にとっての絶対法則である。


 山猫たちの態度は、明らかに軟化していた。

 さっきまでの「食えるのか?」という物騒な会話はどこへやら、何匹かは満足げに前足で顔を洗い始めている。


 その中から、一匹だけ、肉に手をつけなかった猫が進み出た。

 他の山猫よりも一回り大きく、毛並みは茶褐色。右耳が半分ほど欠けており、左目の上に古い傷跡がある。明らかに百戦錬磨の風格。

 ボスだ、と直感した。


『お、おい。人間のお前、名前は?』


 低い、落ち着いた声だった。


「私はカトリーナと申します」

『いやはや、なるほど。お前、本当に猫の言葉がわかるのか』

「ええ。もちろん。私には、あなたたちが何を言っているか、全部聞こえてるわよ」

『ふん……。なるほど、例の噂は本当だったか。猫ネットワークも、たまには当たるもんだな』


 ボス猫は私をじろりと見上げ、それから背後の屋敷に目をやった。


『言葉がわかるなら、忠告してやる。この屋敷には近づくな』

「どうして?」

『地下に、やべえのがいる』


 ボス猫の声が、少し低くなった。


『「王」だ。ずっと腹を空かせて怒ってる。機嫌が悪いなんてもんじゃねえ。あいつが吠えると、地面がグラグラ揺れるんだ。俺たちは怖くて近寄れねえ』

「腹を空かせて、怒ってる……」

『ああ。とにかく近づくな。食われるぞ』


 腹を空かせた怒れる王。

 ボス猫は真剣な顔でそう言った。

 彼にとっては、それは恐ろしい警告のつもりなのだろう。


 だけど。

 私の頭の中では、まったく別の翻訳が行われていた。


 お腹が空いて、ご機嫌ナナメの猫ちゃん。


 ――それって。

 ご飯を持っていけば、仲良くなれるってことじゃない?


「ありがとう、忠告は受け取ったわ」


 私はボス猫に丁寧にお礼を言ってから、背中の荷物を担ぎ直した。


「でも、私はあの屋敷に入る。いえ、入らなきゃいけないの」

『おい、正気か? 死ぬぞ?』

「大丈夫。私、お腹を空かせた猫の相手は得意なの」


 ボス猫は呆れたように片耳を伏せ、後ろ足で首筋をガリガリと掻いた。


『変な人間だな……。まあいい。死んでも俺たちは助けに行かないからな』

「うん。でもまた干し肉、持ってくるから」

『……そうか。わかった。俺たちは屋敷の中には入らないし、助けない……が、屋敷の庭からお前を見守るくらいはしてやろう』


 急に態度が変わった。

 やはり、食べ物に釣られているのだ。

 山猫でも猫は猫、ということだろう。


「そう、ありがとう」


 私は礼をいって、背中の荷物を担ぎ直して、屋敷の正面へと歩き出した。


 ザッ、ザッ……。


 背後から、枯れ葉を踏む音がいくつもついてくる。

 振り返らなくてもわかる。ボス猫をはじめとする山猫たちが、一定の距離を保ちながらも、私の後をついてきているのだ。

 「死んでも助けに行かない」と言い張っていたくせに、極上の干し肉の魅力と、これから何が起こるのかという好奇心には勝てないらしい。


 恐ろしくも愛らしい護衛たちを引き連れて、私はついに「北の離宮」の入り口へと足を踏み入れた。


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