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第三話:嘲笑する元婚約者と、猫たちの辛辣な実況中継 ~王都の猫に見送られて、いざ北の大地へ!~

 ガタガタと、お尻の下で木の板が跳ねる。

 車輪が石畳の溝に落ちるたびに、突き上げるような衝撃が背骨を走る。

 お世辞にも乗り心地が良いとは言えない、古びた馬車の中。私は小さく息を吐き出しながら、窓の外を流れる王都の景色を眺めていた。


 私が乗っているのは、ベルンシュタイン家が所有する馬車の中でも、荷運び用に使われていたものだ。座席にはクッションなどなく、隙間風が容赦なく入り込んでくる。

 けれど、不満はなかった。

 むしろ、これまで乗らされていた豪華な箱馬車よりも、ずっと心が落ち着く。

ふかふかとしたビロードの座席や、甘ったるい香の匂いが染み付いた、あの空間は、私にとって息苦しい鳥かごでしかなかったからだ。


 私は自分の服装に目を落とした。

 重たいドレスも、身体を締め付けるコルセットも、もう着ていない。

 今の私は、厚手の木綿で作られたシンプルな旅装束に身を包んでいる。色は目立たない紺色で、スカートの丈も動きやすいように短めだ。足元には、飾り気のない革のブーツ。

 これは屋敷の倉庫から見つけ出した、かつて使用人が使っていたものだろうか。サイズを少し手直ししただけで、驚くほど身体に馴染んでいる。

 本来なら、公爵令嬢が身につけるべきものではない。

 でも、これからの私に必要なのは「美しさ」や「品位」ではなく、「機能性」と「暖かさ」だ。北の地で生き抜くために、余計な飾りは邪魔にしかならない。


 膝の上には、小さな鞄が一つ。

 父が許してくれた荷物は、馬車一台分だけだった。

 家具や宝石、ドレスの類はすべて屋敷に置いてきた。私が選んだのは、これからの生活に本当に必要なものだけ。

 寒さを防ぐための毛布と防寒着。

 火を起こすための道具や、調理器具。

 そして何より重要な――大量の「マタタビの粉」と「干し肉」。

 鞄の中身の半分は、猫たちのための貢ぎ物で埋め尽くされていると言っても過言ではない。

 宝石箱よりも、マタタビの詰まった瓶の方が、私にとっては遥かに価値がある。


「……そろそろ、城門ね」


 馬車の速度が落ちていくのを感じて、私は呟いた。

 王都を取り囲む高い城壁が見えてきた。あの門をくぐれば、私はもうベルンシュタイン家の娘ではなく、ただの一人の追放者となる。

 寂しさはない。

 あるのは、これから始まる新しい生活への期待と、少しの緊張だけだ。


 その時だった。

 馬車が不自然に大きく揺れ、完全に停止した。

 御者が手綱を引く音と共に、馬がいななきを上げる。


「何かしら」


 検問だろうか。

 私は窓の覆いを少しだけ開けて、外の様子を伺った。

 すると、そこには見たくもない顔があった。


「やあ、カトリーナ。ずいぶんとみすぼらしい格好だな」


 馬車の行く手を遮るように立っていたのは、数名の騎士を従えた第一王子、アレクセイ様だった。

 その隣には、純白のドレスに身を包み、日傘を優雅に差したマリアの姿もある。

 二人は、まるで珍しい動物でも見るかのような目で、こちらの馬車を見上げていた。


 私は小さくため息をつき、馬車の扉を開けて外へ出た。

 ここで無視をすれば、彼らの自尊心を傷つけ、面倒なことになるかもしれない。最後くらいは、大人の対応をしてあげよう。


「……アレクセイ殿下。それにマリア。お見送りご苦労様です」


 私は地面に降り立ち、埃っぽいスカートの裾を軽くつまんで一礼した。

 アレクセイ様は、鼻で笑った。


「見送り? 勘違いするな。罪人が無様に都を追い出される様を、この目で確認しに来てやったのだ」


 彼はわざとらしいほど大きな声で言った。

 周囲を通行する人々や、門番たちの注目を集めようとしているのがわかる。

 自分は正義を行い、悪女を追放したのだと、世間にアピールしたいのだろう。


「北の離宮へ行くと聞いたが、あそこは廃屋同然だそうじゃないか。野垂れ死にするにはお似合いの場所だ」

「お姉さま……」


 マリアが一歩前に出て、心配そうな表情を作った。

 その瞳は潤んでいるように見えるが、口元の端がわずかに吊り上がっているのを私は見逃さない。


「本当に北へ行かれるのですか? わたくし、お姉さまのことが心配で……。今からでもお父様に謝って、南の修道院へ行かせていただいた方がよろしいのではありませんこと?」

「ええ、ご心配なく。私は静かな場所を好みますので」


 私が淡々と答えると、マリアはふふっと小さく笑った。


「そうですか。まあ、お姉さまのような冷たい方には、氷に閉ざされた北の地がお似合いかもしれませんわね。わたくしたちは、暖かな王宮で幸せに暮らしますから、どうぞお気になさらないで」


 典型的な嫌味だ。

 以前の私なら、悔しさに唇を噛み締めていたかもしれない。

 けれど今の私には、彼らの言葉が右から左へと流れていく雑音のようにしか聞こえなかった。

 なぜなら、彼らの足元や、背後の衛兵詰め所の屋根の上で、もっと面白い「会話」が繰り広げられているのが聞こえていたからだ。


『うわー、あの男、また同じ靴履いてるニャ。他に持ってないのかニャ?』

『っていうか、あの女の香水、臭くね? 鼻が曲がりそうだぜ』

『おい見ろよ、あの王子のマント、一部が色落ちしてるぞ。気づいてないニャ、ダッセー』


 私は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。

 アレクセイ様の足元には、一匹の黒猫がいて、あからさまに彼のブーツに身体をこすりつけている。アレクセイ様は「懐かれている」と思って満足げな顔をしているが、猫が言っていることは正反対だ。


『こいつのブーツ、爪研ぎにちょうどいい硬さだニャ。バリバリにしてやるニャ』

『やれやれー!』


 マリアの方も散々だ。

 一匹の子猫が白いドレスを噛んでいる。マリアは私のほうだけを見ているため、気がついていないようだ。


『この白い布、噛み心地最高だニャー』

『マリアちゃん、気が付かないのか、鈍感だニャー』


 猫たちの辛辣な実況中継を聞いていると、目の前で偉そうに腕を組んでいるアレクセイ様や、勝ち誇った顔をしているマリアが、まるで下手な喜劇役者のように見えてくる。

 彼らは自分たちが世界の中心にいると思っているけれど、足元の小さな住人たちからは、とっくに見下されているのだ。


「……何がおかしい」


 私の口元がわずかに緩んだのを見て、アレクセイ様が不機嫌そうに眉を寄せた。


「いえ、何も。ただ、お二人がとてもお似合いだと思いまして」


 私は本心からそう言った。

 似た者同士、という意味で。


「ふん、負け惜しみを。もういい、さっさと行け。二度と私の前に顔を見せるな」


 アレクセイ様は、興味を失ったように手を振った。

 マリアも私の横を通り過ぎる際、小声で囁いた。


「精々、凍え死なないように頑張ってくださいませ、お姉さま」


 私は二人に背を向け、再び馬車に乗り込んだ。

 扉を閉める直前、アレクセイ様のブーツで爪を研いでいた黒猫と目が合った。

 黒猫は作業を中断し、私に向かって片目を閉じてみせた。


『あばよ、姉ちゃん。元気でな』


 私は小さく頷き、御者に合図を送った。

 御者が鞭を振るう音と共に、馬車がゆっくりと動き出す。

 車輪が回転し、アレクセイ様たちの姿が後方へと遠ざかっていく。

 私は一度も振り返らなかった。

 未練など、これっぽっちもない。

 さようなら、窮屈だった私の故郷。

 さようなら、私を追放した人々。


 馬車が城門をくぐり抜けると、空気の色が変わった気がした。

 王都特有の、人の欲望と熱気に満ちた空気から、土と草の匂いがする乾いた風へ。

 私は大きく深呼吸をした。

 肺いっぱいに吸い込んだ外の空気は、驚くほど美味しかった。


「はあ……終わった」


 私は座席の背もたれに身体を預け、手足を伸ばした。

 誰も見ていない。

 お行儀よく座っている必要もない。

 私はブーツを脱いで、行儀悪く前の座席に足を投げ出した。

 解放感が、身体の奥底から湧き上がってくる。

 もう、誰かの顔色を伺って笑う必要はないのだ。

 私は自由だ。


 馬車は王都を離れ、北へと続く街道を進んでいく。

 沿道には、王都の郊外に広がる麦畑が続いている。

 空は高く、雲は白い。

 これからの旅路は決して楽ではないだろう。

 北の地は厳しいと聞くし、父の言った通り、私が生きていける保証なんてどこにもない。

 けれど、私の胸の中にあるのは不安ではなく、遠足の前日のようなワクワク感だった。


 なぜなら、私には強い味方が……というより、大量の「依頼主」たちがいるから。

 私は窓から顔を出した。

 風が髪を乱すが、そんなことは気にならない。

 街道沿いの木々の枝、農家の屋根、あるいは道端の石の上。

 そこかしこに、「彼ら」の姿があった。


『おーい、人間! 白い王様によろしくなー!』

『俺もいつかそのモフモフに埋もれてみたいって伝えてくれニャー!』

『王様に「下界には極上のマタタビがある」って言っといてくれよー!』


 茶色、黒、白、三毛、ブチ。

 ありとあらゆる柄の猫たちが、街道に沿って並び、私の乗る馬車に向かって口々に叫んでいるのだ。

 そのほとんどが、見覚えのない顔だった。

 無理もない。私はこれまで公爵邸という鳥籠の中にいたのだから、王都の野良猫たちと面識があるはずもない。

 けれど、彼らは私のことを知っていた。

 どうやら、昨晩あの老猫が話した「猫の言葉がわかる人間が、伝説の白い王に会いに行く」という噂が、恐るべき「猫ネットワーク」を通じて、一晩のうちに王都中の猫たちに拡散されたらしい。

 彼らにとって私は、追放された令嬢ではなく、憧れのアイドルである「伝説の王」へのコネクションを持つ、唯一の仲介人というわけだ。


「分かったわ!みんな、ちゃんと伝えておくから!」


 私は苦笑しながら、大きく手を振り返した。

 公爵令嬢が馬車の窓から身を乗り出して、道端の猫に必死に手を振るなんて、普通の人が見れば正気を疑う光景だろう。


 でも、私にとってはこれが最上の送別会だった。

 貴族たちの偽善的な挨拶よりも、彼らの率直な言葉の方が、どれほど温かく、心に響くことか。


『おい、気をつけて行けよ。北の森には怖いのが出るって噂だぞ』

『カラスには気をつけろニャ。あいつら、光るものを狙ってくるからニャ』


 心配してくれる声も聞こえる。

 私は一つ一つの言葉に耳を傾け、心の中で感謝を伝えた。

 私は一人じゃない。

 言葉が通じるだけで、世界はこんなにも豊かで、賑やかな場所になると――私は改めて気づかされた。


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