第二十五話:執事の風刃と、伝説の魔獣の天変地異 ~すべてをハリケーンで吹き飛ばしました~
私が両手で力を込めて重い大扉を押し開けると、外の冷たい空気が玄関ホールへと一気に流れ込んできた。
外はすでに日が落ちており、夜の暗さが広がっている。
扉のすぐ外にある石畳の階段を下りると、そこは広い前庭だった。
その前庭の真ん中に、漆黒の毛並みを持つクロが一人、背筋を伸ばして静かに立っていた。
彼は少しだけ離れた場所から、屋敷の入り口へと向かってくる者たちをじっと見据えている。
クロの視線の先、森と前庭の境目あたりに、ぞろぞろと集まってくる人間たちの姿があった。
王立騎士団の精鋭部隊だ。
水鏡の魔法薬で見ていた通り、彼らの姿は目を覆いたくなるほどにひどいものだった。
立派だったはずの銀色の鎧は、クロが作った泥沼にはまり込んだせいで赤黒く汚れ、あちこちがへこんだり傷ついたりしている。
手にした剣や槍も、本来の武器としての役目を果たしておらず、杖の代わりのように地面に突き立てられ、騎士たちはそれに寄りかかってなんとか立っている状態だった。
彼らの顔は極度の疲労でやつれ果て、目は落ちくぼんでいる。
何日もエルフの魔法で森の中をさまよい歩かされ、食事も水も奪われ、夜は山猫たちの遠吠えで一睡もできなかったのだ。
もはや、国を守る精鋭部隊の面影はどこにも残っていなかった。
ただの、疲れ果てた遭難者の集まりにしか見えない。
「あれが……王都から来た騎士団なのね」
私は少し離れた大扉の前で立ち止まり、その惨状を見守った。
私の足元には、ハクがのっそりと歩いてきて、座り込んでいる。
彼はまだ自分の出番ではないと思っているのか、大きなあくびをして、前足で顔を洗うようなしぐさをしていた。
このような緊迫した場面でも、彼のマイペースさは全く変わらない。
騎士団の先頭に立っているのは、体格の良い騎士団長だった。
彼もまた頭から足の先まで泥だらけでボロボロだったが、それでも騎士としての意地があるのか、無理に胸を張ってクロの方を睨みつけていた。
「おい、そこをどけ! たかが猫一匹が、我々王立騎士団の前に立ち塞がるなど、身の程を知れ!」
騎士団長が、怒鳴った。
そこには、かつての威厳や力強さはなく、ただただ、苛立ちの感情しか感じられなかった。
それはある意味、人間らしい感情だったのかもしれない。だって、森では水や食料すら事欠いていたのだから。
その彼は腰から剣を抜き、ふらつく足取りでクロに向かって一歩踏み出した。
後ろに続く騎士たちも、団長に合わせて武器を構えようとするが、その動きはひどく鈍い。
『この先は、私が仕えるカトリーナ様とハク様の居城です。汚れた足で踏み入ることは、執事である私が決して許しません』
クロは、相手の威嚇に全く動じることなく、冷たく静かな声で答えた。
彼の言葉は、私たちにははっきりと理解できるが、人間の騎士たちにはただの猫の鳴き声にしか聞こえていないはずだ。
それでも、クロの毅然とした態度と、全身から発せられる只者ではない気配に、騎士団長はさらに顔を赤くして怒りをあらわにした。
「ニャーニャーと、言葉を理解しているような態度をとりおって。薄気味悪い化け猫め。魔女の使い魔なら、ここで切り捨ててくれる!」
騎士団長が剣を力任せに振り上げ、クロに向かって走り出そうとした、その瞬間だった。
『テンペスト』
クロが、短く言葉を発した。
途端に、前庭の空気が一気に冷たくなり、周囲の木々が大きく揺れ始めた。
低い音が地面から湧き上がってきたかと思うと、次の瞬間、強烈な暴風が騎士団に向かって吹き荒れた。
ただの強い風ではない。
風の渦の中に、目には見えない無数の刃がいくつも重なっているような、恐ろしい風だ。
「な、なんだこの風は!」
「うわあっ! 剣が!」
騎士たちの悲鳴が上がる。
クロの風属性魔法が、彼らの手から剣や槍を次々と弾き飛ばしていった。
金属の武器が風に巻き上げられ、カランカランと音を立てて遠くの地面に落ちていく。
重い鎧を着ている騎士たちでさえ、風の勢いに耐えきれず、次々と足を取られて地面に転がった。
私は大扉の陰に隠れながら、そのすさまじい光景を見ていた。
クロの風魔法は、私と二人で屋敷の掃除をする時に使う穏やかなものとは全く違う。
相手だけを容赦なく襲う、圧倒的で正確な力だ。
騎士たちは武器を失い、地面に這いつくばったまま、ただ強風に耐えることしかできなくなっていた。
『これ以上進むというのなら、次は見えない風があなたたちを鎧ごと粉々にすることになります。おとなしく引き返しなさい』
クロが風の音に負けない通る声で警告した。
しかし、騎士団長は泥にまみれながらも、まだ諦めようとはしなかった。
彼にとって、手ぶらで王都に帰り、何の成果も上げられなかったと報告することは、死ぬことよりも恐ろしいのかもしれない。
「なんだこれは! ふざけるな!!! こんなところで引き下がれるか! 我々は国王陛下の命を受けてきたのだ! 魔女を討ち取るまでは絶対に帰らん!」
彼は地面に落ちていた仲間の剣をなんとか拾い上げ、再び立ち上がろうとした。
その目は、極度の疲労と恐怖、そして追い詰められた焦りによって、少しおかしくなっているように見えた。
理性を失い、無理にでも前へ進もうとする彼らに、私は思わず声を上げそうになった。
これ以上彼らが前に進めば、クロは本当に彼らを傷つけてしまうかもしれない。
その時だった。
『まったく、騒々しい連中だ。我の安眠を妨げた罪、万死に値するぞ』
私の足元にいたハクが、のっそりと立ち上がった。
彼は小さな白い猫の姿のまま、ゆっくりとした、どこか面倒くさそうな足取りで、クロの横へと歩いていく。
ハクが前庭の中央に立った瞬間、周囲の空気がピリッと張り詰めたのがわかった。
クロの風魔法の冷たさとは違う、肌を刺すような重圧感だ。
「今度はなんだ? ははっ、ただの白猫ではないか!」
騎士団長がハクを指差して叫んだ。
彼の目には、ただの愛らしい小さな白い猫が、のこのこと歩いてきたようにしか見えていないのだ。
しかし、ハクは彼らを一瞥しただけで、小さく鼻を鳴らした。
『ただの白猫だと? よく見ろ、愚か者ども』
ハクは、彼らに向かって「ニャーッ!」と短く、しかし低く響くような声で鳴いた。
もちろん、ハクの言葉は人間の騎士たちには通じない。
ただの猫の威嚇にしか聞こえなかった騎士団長は、嘲笑するような顔つきになった。
「猫が何匹集まろうが同じだ! そんな小さな体で、我々を止めることなどできるわけがないだろう!」
彼がそう言って一歩前に踏み出そうとした、次の瞬間だった。
ハクが石畳の上でピタリと立ち止まり、彼らを見下ろすように少しだけ顎を上げた。
そして、ハクの小さな体から、目に見えない強大な力が爆発的に解き放たれた。
伝説の魔獣としての本能、彼自身が生まれ持った固有能力。
『王の威圧』だ。
耳には聞こえないはずの低い音が、頭の芯に直接叩きつけられたような感覚があった。
周囲の空気が急激に重くなる。
呼吸をすることすら難しくなり、見えない巨大な手が頭を上から押さえつけているような、圧倒的な力が空間全体を支配した。
それは、魔法のような炎や風による物理的な攻撃ではない。
絶対的な捕食者と、非力な被食者。
生き物としての根本的な格付けを、本能のレベルで無理やり理解させる力だ。
「あ……が……っ」
先ほどまで威勢よく剣を振り上げていた騎士団長が、喉からひきつった音を漏らし、その場に両膝をついた。
彼の手から剣が力なく滑り落ち、石畳を叩く乾いた音が響く。
他の騎士たちも同じだった。
百人近くいた屈強な男たちが、誰一人として立っていることができず、次々と泥だらけの地面に這いつくばった。
彼らは自分の体に何が起きているのか理解できていない様子で、ただただ、目の前にいる小さな白猫から発せられる圧倒的な恐怖に縛り付けられている。
顔は真っ青になり、歯の根が合わずにガチガチと音を立てている者が何人もいた。
過酷な訓練を積み重ねてきた彼らの精神力も、伝説の魔獣が放つ本物の威圧の前では、薄い紙切れのように簡単に破れ去ってしまったのだ。
『我の姿がまだ、ただの猫に見えるか? 愚かな人間よのぉ』
ハクは、地面に伏して小刻みに体を揺らしている騎士たちを、退屈そうに見下ろした。
彼らはハクの言葉を理解できないが、その小さな白猫が、自分たちの命をいつでも簡単に奪える恐ろしい存在であることだけは、骨の髄まで理解したはずだ。
『さて、十分に思い知ったようだな。これ以上、我の庭を汚い姿でうろつかれては目障りだ。さっさと消え失せろ』
ハクはそう言うと、ふっと息を吸い込んだ。
『ハリケーン』
ハクが短く唱えた瞬間、先ほどのクロの魔法よりもさらに巨大で強烈な突風が、前庭全体をなめ回すように発生した。
それは、相手を切り刻むような鋭い風ではない。
巨大な見えない壁が、凄まじい速度で押し寄せてくるような、まさに空気の津波のような風だ。
「うわああぁぁぁっ!」
地面に這いつくばっていた騎士たちが、枯れ葉のように次々と宙に巻き上げられた。
重い鎧を着ているはずなのに、彼らの体は風の力に全く逆らうことができず、森の方向へと無残に吹き飛ばされていく。
泥水が飛び散り、悲鳴が重なり合い、彼らはもみくちゃになりながら、森の奥深くへと転がっていった。
ものの数秒の出来事だった。
強風がピタリと止むと、さっきまで大勢の人間で埋め尽くされていた前庭には、誰の姿もなくなっていた。
後に残されたのは、彼らが落としていった剣や槍、それにいくつかのへこんだ兜だけだ。
静寂が戻った前庭は、まるで何事もなかったかのように静まり返っている。
『ふん、つまらん奴らだ。我がわざわざ出向くほどの相手でもなかったな』
ハクは、森の奥へと続く道を一瞥すると、興味を失ったように背中を向けた。
『二度とこの北の森に近づく気は起きないだろう。もし再び来るような愚か者がいれば、次こそは王都ごと吹き飛ばしてやる』
独り言のようにつぶやきながら、ハクはその愛らしい身体をブルッと大きく動かした。
その背中は、まさに一仕事が終わったという満足感に満ちていた。
「ハク、本当にすごかったわ。前庭も屋敷も、全く傷ついていないもの。それに、誰も怪我をさせずに、追い返すことができたわね」
私が大扉から出てハクの頭を優しくなでると、彼はとても気持ちよさそうに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。
クロも静かに私のそばにやってきて、優雅にお辞儀をした。
『これで、屋敷の中を汚される心配もなくなりましたね。ハク様のお力には、ただただ感服するばかりです』
「ありがとう、クロ。あなたの風魔法の牽制があったからこそ、彼らもすっかり戦う気をなくしたのよ」
『もったいないお言葉です』
しばらくすると、森の奥からカサカサという足音が聞こえ、山猫のリーダーやエルフの青年たちが姿を現した。
彼らも、遠くから今の状況を見ていたのだろう。
誰も傷を負っておらず、無事に自分たちの役割を終えて戻ってきたのだ。
『おおっ!人間の姉ちゃん、大成功だったぜ! あいつら、泣き叫びながらものすごい勢いで森の外へ逃げていったぞ!』
「お疲れ様。みんなのおかげよ。本当に、本当にありがとう」
私は一人ひとりに声をかけ、ねぎらいの言葉をかけた。
私たちが力を合わせ、知恵を絞ったことで、理不尽な暴力を持った大軍を退け、この大切な居場所を守り抜くことができたのだ。
胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてくる。
前庭には、逃げ出した騎士たちが置いていった武器がたくさん散らばっている。
これらは後で、エルフたちに頼んで森の奥深くへ埋めてもらうか、農具など何か役に立つものに作り替えてもらうとしよう。
「さあ、みんな、屋敷の中に入りましょう。お留守番をしてくれたみんなと一緒に、温かいお茶と甘いお菓子をたっぷり用意するわ。ゆっくり休みましょう」
私がそう言うと、みんなの顔がパッと明るくほころんだ。
ハクは私の足に体をすりすりこすりつけ、山猫たちはしっぽを勢いよく振りながら屋敷の中へ駆け込んでいく。
エルフの青年たちも、とても穏やかな表情をして後に続いた。
王都からどんな理不尽なことを言われようと、どんな大軍が押し寄せてこようと、私はこの大切な場所を絶対に守り抜く。
そう、私はこの北の離宮を任された、正当な管理者なのだから。
楽しそうに屋敷の中へ入っていくみんなの背中を見つめていると、私の心はどこまでも穏やかに落ち着いていった。




