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第二話:完全犯罪(笑)の真相と、北の離宮への左遷交渉 ~極上のモフモフが待っているらしいです~

 石造りの壁に囲まれた狭い一室で、私は硬い簡易ベッドの上に座っていた。

 高い位置にある鉄格子のはまった小さな窓から、白い朝の光が差し込んでいる。その光の帯の中を、埃がキラキラと舞っているのをぼんやりと眺めていた。


 王宮の大広間から自らの足で立ち去った私は、そのまま実家の公爵邸へと帰還した。

 けれど、住み慣れた私の部屋に戻ることは許されなかった。私の退場後、王宮からただちに送られた使者の報告を受けた父によって、私は屋敷の北東の端にある、普段は使われていない客間とも物置ともつかないこの部屋へ押し込められたのだ。

 昨夜、ここに放り込まれると同時に、扉の外からは重々しい錠が下ろされる音が響いた。それ以来、廊下からは見張りとして立っている騎士の、金属鎧が擦れる音と、規則的な足音だけが微かに聞こえてくる。


 本来なら、絶望して泣き喚くか、あるいは怒りに任せて扉を叩き続ける場面なのかもしれない。

 公爵令嬢として育てられたプライドが、このような不当な扱いに耐えられるはずがないからだ。


 けれど、私の心は不思議なほど穏やかだった。静かな湖面のように凪いでいる。

 一晩中、後頭部のあたりでズキズキと鈍い痛みが続いていたが、それもようやく治まりつつあった。

 それよりも、頭の中が驚くほど冴え渡っていた。

 昨日まで私の心を占拠していた重苦しい靄のような感情――アレクセイ様への執着や、マリアへの嫉妬、公爵家の娘として完璧であらねばならないという強迫観念――が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていたからだ。


 私は自分の手のひらを広げ、じっと見つめた。

 白く、細い指。手入れの行き届いた爪。日に焼けたことのない肌。

 これは間違いなく、カトリーナ・フォン・ベルンシュタインの手だ。

 けれど、この体を動かしている意識の根底には、かつて別の世界、日本という国で生きていた「私」の感覚がしっかりと根付いている。

 毎朝満員電車に揺られて通勤し、理不尽な上司に頭を下げ、安月給で働きながらも、週末に猫カフェへ行くことだけを楽しみにしていた三十代の私。

 その記憶と、公爵令嬢カトリーナとしての十七年間の記憶が、ひとつの器の中で混ざり合い、新しい形へと整えられていくのを感じる。

 以前の私は、貴族社会という狭い箱庭の中で、他人の評価ばかりを気にしていた。

 けれど今は違う。

 私には、もっと大切なものがある。守るべき尊厳よりも、追いかけるべき「癒やし」があることを思い出してしまったのだ。


「さて……」


 私は小さく呟き、きしむベッドから立ち上がった。

 ドレスは着替える暇も与えられず、昨夜のままだったが、不思議と不快感はない。コルセットの締め付けも、今の私にとっては戦闘服のベルトのようなものだ。

 これからどうなるのか、おおよその予想はついていた。

 アレクセイ様は婚約破棄を宣言した。そして、父である公爵は王家の決定に逆らうような人ではない。

 むしろ、傷ついた家名をどう守るか、それだけを考えているはずだ。


 コンコン、と扉が叩かれる乾いた音がした。


「カトリーナ様。旦那様がお呼びです」


 低い男の声。長年、父の側近を務めている執事の声だ。

 私はドレスの皺を軽く手で伸ばし、姿勢を正した。

 鏡はないが、背筋を伸ばし、顎を引く。それだけで、公爵令嬢としての仮面は十分に機能する。

 中身が猫好きの元会社員の記憶を思い出したことなど、誰にも気づかれないように振る舞うことくらい、わけはない。


 ガチャリと鍵が開く音がして、重い扉が開いた。

 そこに立っていたのは、表情を一切崩さない執事と、護衛の騎士が二人。

 まるで凶悪な重罪人を移送するかのような物々しさだが、私は顔色ひとつ変えずに彼らの前を歩き出した。


「参りましょう」


 私の声は落ち着いていた。執事が一瞬だけ怪訝そうな眉の動きを見せたが、すぐに無表情に戻り、先導を始めた。


 長い廊下を歩く間、屋敷の使用人たちとすれ違った。

 彼らは一様に壁際に立ち止まり、頭を下げてやり過ごそうとするが、その視線が冷ややかなものであることは肌で感じ取れた。

 軽蔑、嘲笑、そして「関わりたくない」という拒絶。

 以前の私なら、その視線に傷つき、あるいは怒りを覚えていただろう。「私はやっていない」と叫び出しそうになるのを、必死で堪えていたかもしれない。

 自分の家なのに、どこにも居場所がないという孤独感に押しつぶされていただろう。


 けれど今は、彼らがどう思おうと関係ない。

 痛くも痒くもない。

 だって、私には聞こえてしまっているから。


『あーあ、お嬢様、とうとうやっちゃったかニャ』

『昨日の夜会で王子に捨てられたって噂だぜ。いい気味だニャ』

『でもよ、マリア様のあの猫かぶりよりは、こっちのお嬢様の方が裏表なくてマシだったんじゃね?』

『まあな。マリア様、俺の尻尾踏んでも謝りもしないし、餌も安物だし』


 廊下の曲がり角や、窓の外、あるいは中庭の植え込みの陰から。

 屋敷に住み着いている猫たちの「井戸端会議」が、私の耳に次々と飛び込んでくるのだ。

 人間の使用人たちは口を閉ざしているが、猫たちは遠慮がない。

 どうやら、屋敷内での私の評判は地に落ちているが、同時にマリアの本性についても猫たちはしっかりと見抜いているようだった。


『あいつ、昨日の夜も厨房から高級なハムを盗み食いしてたぜ。メイドのせいにしてたけどな』

『性格悪いニャー。それに比べてカトリーナ嬢ちゃんは、たまに美味しいおやつくれるから好きだニャ』


 そんな会話が聞こえてくる。

 その声を聞いているだけで、口元が緩みそうになるのを必死で堪える。

 この能力――「猫語完全通訳」とでも呼ぶべき力は、私の最大の武器であり、そして最高の癒やしだ。

 誰が敵で、誰が味方か。真実はどこにあるのか。

 人間がどれだけ言葉を飾ろうと、猫たちの前ではすべてが丸裸にされてしまう。

 そう思うと、私を見る使用人たちの冷たい視線すら、何も知らない哀れな人々の反応として、滑稽なものに思えてくるのだった。


 やがて、父の執務室の前までたどり着いた。

 重厚な扉の前で、執事が一度立ち止まり、ノックをした。


「入れ」


 中から聞こえてきたのは、感情を感じさせない低い声だった。

 執事が扉を開け、私を中へと促す。

 私はゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。


 執務室は、相変わらず冷え冷えとしていた。

 壁一面の本棚には難解な法律書や歴史書がびっしりと並び、部屋の中央には大きな黒い机が鎮座している。

 その向こう側に、父――ベルンシュタイン公爵が座っていた。

 整えられた銀髪と、厳格さを体現したような口髭。その瞳は冷たく、私を娘としてではなく、早急に処理すべき案件の一つとして見ているのがありありと分かった。


「座れ」


 父は書類から目を離さず、短く命じた。

 私は机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。座り心地は悪くないが、背もたれが直角で、くつろぐことを許さない作りになっている。

 しばらくの間、部屋には父がペンを走らせる音だけが響いていた。

 カリ、カリ、という乾いた音が、静寂を際立たせる。

 これは父の得意なやり方だ。相手を待たせ、沈黙によって圧力をかけ、精神的に優位に立つ。

 以前の私なら、この沈黙に耐え切れず、「お父様」と声を震わせていたかもしれない。

 あるいは、恐怖で体が縮こまっていたかもしれない。


 でも、今の私は違う。

 私は窓の外に目をやった。

 窓枠の向こう、庭の木の上に、一匹の茶トラ猫が昼寝をしているのが見えた。

 前足をだらりと垂らし、気持ちよさそうに目を細めている。

 

『あー、今日は風が気持ちいいニャー。平和だニャー』


 そんなのんきな独り言が聞こえてくる。

 その声を聞いているだけで、父の発する威圧感など、そよ風以下のものに感じられた。

 むしろ、あの猫のお腹の毛並みはどうなっているのだろう、触ったらどんな感触だろう、ということばかり考えてしまう。


 十分ほど経っただろうか。

 私が微動だにせず、恐怖の色も見せないことに違和感を覚えたのか、父がようやくペンを置き、顔を上げた。


「……カトリーナ」


 重々しい声で私の名を呼ぶ。


「はい」


 私は淡々と短い返事をした。

 父の眉間に、わずかに皺が寄る。私が泣き崩れるか、必死に弁解するとでも思っていたのだろう。


「昨夜の件、報告は受けている。アレクセイ殿下に対し、数々の無礼を働き、あまつさえマリアに危害を加えようとしたそうだな」


 確認、というよりは、事実の認定だった。

 父の中では、すでに私が「加害者」であることは確定事項なのだ。

 なぜやったのか、本当にやったのか、そんな問いかけは一切ない。


「殿下がそのようにご報告されたのであれば、そういうことなのでしょうね」


 私は事務的に答えた。

 ここで「やっていません」と言ったところで、信じてもらえるはずがない。

 マリアが用意周到に根回しをし、アレクセイ様がそれを全面的に支持している以上、私の言葉など枯れ葉一枚ほどの重みもない。

 それに、もうどうでもよかった。

 こんな、娘の言葉よりも世間体や権力者の言葉を優先するような家になど、未練はひとかけらもない。


 父は私の態度に、さらに不快感を募らせたようだった。

 反省の色が見えない、とでも思ったのだろう。

 彼は机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、私の前に突き出した。


「王家からは、お前の処分を一任されている。公爵家としても、これ以上の醜聞は避けねばならん。よって、お前をベルンシュタイン家から除籍し、南の修道院へ送ることに決定した」


 南の修道院。

 その名前を聞いた瞬間、私の脳裏に地理情報が浮かんだ。

 王都から馬車で一週間ほどの距離にある、温暖な気候の土地だ。

 一見すると悪くない条件のように思える。

 だが、貴族の娘が送られる「南の修道院」といえば、その実態は「矯正施設」に近い。

 規律は厳しく、私語は禁止され、朝から晩まで祈りと労働の日々。

 外部との接触は一切断たれ、一生を塀の中で過ごすことになる場所だ。


「もう二度と家の敷居を跨ぐことは許さん。そこは、罪を悔い改めるには相応しい場所だ」


 父は冷たく言い放った。

 それは、実の娘に対する言葉とは到底思えなかった。

 まるで、壊れた道具を廃棄処分にするかのような事務的な口調。

 胸の奥で、カトリーナとしての古傷が少しだけ痛んだ気がした。

 でも、すぐにその痛みは引いていく。

 今の私には、もっと大事な目的があるからだ。


 私は父の目を真っ直ぐに見据え、静かに告げた。


「お言葉ですが、その処分には同意いたしかねます」


 部屋の空気が凍りついた。

 父は目を見開き、自分の耳を疑うような顔をした。

 今まで一度たりとも父に逆らったことのない私が、明確な拒絶の言葉を口にしたのだから、無理もない。


「……なんだと? 今、なんと」

「南の修道院へは行きません。そこに行けば、私はただ飼い殺しにされるだけです。そのような未来は望みません」


 きっぱりと言う私に、父の顔色が赤く染まっていく。

 机をドン、と叩き、彼は立ち上がった。


「貴様、立場が分かっているのか! これは決定事項だ! 罪人の分際で、選べる権利などあると思っているのか!」


 父の怒声が部屋に響く。

 窓の外で寝ていた茶トラ猫が、驚いて飛び起きるのが視界の端で見えた。

 『うわっ、びっくりしたニャ! なんだ今のデカイ声は!』と文句を言っている。

 私は内心で猫に謝りつつ、冷静に言葉を続けた。


「権利などありません。ですが、取引ならできるはずです」

「取引だと?」

「はい。公爵家にとっても、私が南に行くより、もっと都合の良い場所があります」


 私は一度言葉を切り、少しだけ身を乗り出した。

 ここからが勝負だ。

 私の、これからの人生を――最高の「もふもふライフ」を手に入れるための、最初で最後の賭け。


「私を、北の離宮へ送ってください」


 父の動きが止まった。

 怒りよりも、困惑の色が浮かぶ。


「北の……離宮だと?」


 無理もない反応だ。

 北の離宮。

 それは、ベルンシュタイン家が所有する領地の中で、最も北の端に位置する場所だ。

 一年のおよそ半分が雪に閉ざされ、魔物が出没する危険地帯に近い。

 貴族の間では、「北へ行く」というのは「死にに行く」のと同義語だ。


「正気か? あそこは人の住めるような場所ではない。寒さは厳しく、物資も届かん。ましてや、女一人で生きていけるような土地ではないぞ」


 父の言葉は、私の身を案じているわけではない。

 単に、あまりにも不可解な提案に理解が追いついていないだけだ。


「承知の上です。だからこそ、罪人の隠居場所としては最適ではありませんか?」


 私は静かに微笑んだ。


「南の修道院では、人目につきます。私がそこにいれば、『ベルンシュタイン家の恥』として、いつまでも社交界の噂話に上るでしょう。ですが、北の果てならば誰も気に留めません。私はそこで、誰にも会わず、静かに罪を償いたいのです」


 もっともらしい理屈を並べる。

 「反省」や「償い」という言葉を混ぜることで、父の自尊心をくすぐる。

 父は顎に手を当て、考え込み始めた。


 確かに、彼の立場からすれば悪くない話だ。

 厄介者の娘を、世間の目から完全に隔離できる。

 しかも、南の修道院へ寄付金を払い続けるよりも、放置されている北の離宮へ送る方がコストもかからない。

 北の厳しい環境なら、私が長く生きられる保証はない。自然といなくなるのを待つのも一つの手だ――そんな打算が、父の目の中に浮かんでいるのが見えた。


 でも、本当の理由は別にある。

 父には絶対に言えない、私だけの秘密の理由。


 それは、昨晩のことだった。

 断罪劇の後、私がこの薄暗い部屋に放り込まれ、硬いベッドの上で膝を抱えていた時のことだ。

 天井近くにある小さな通気口から、一匹の猫が音もなく降り立った。

 毛並みは灰色でボサボサ、片耳が欠け、片目は白濁している。いかにも裏社会のボスといった風貌の老猫だった。

 どうやって入り込んだのか、見張りの騎士たちには気づかれていないようだった。


 彼は私の顔をじっと見上げると、挨拶もなしに唐突に話し始めたのだ。


『おい、娘。お前だろ、俺たちの言葉がわかるようになった奇特な人間ってのは』


 私が驚いて声を上げようとすると、彼は「静かに」とでも言うように片手を挙げ、一方的に言葉を続けた。

 その声はしわがれていたが、不思議と威厳があった。


『いいか、よく聞け。もしお前がこの家を追い出されるなら、北へ行け。あそこの「北の離宮」の地下には、とんでもないのが眠ってる』

『とんでもないの?』


 私が思わず聞き返すと、老猫はニヤリと笑ったような顔をした。


『ああ。我ら猫の始祖に近い、偉大なる王だ。今は封印されちまってるが、その気配だけで俺たち猫は平伏しちまう』


 彼はそこで言葉を切り、夢見るような目で虚空を見つめた。


『噂じゃ、その王様、とんでもなく「もふもふ」らしいぜ。真っ白で、フワフワで、触り心地は極上だとか。……俺も一度でいいから、その毛並みに埋もれてみたいもんだニャ』


 ――もふもふ。

 真っ白で、フワフワ。

 その単語を聞いた瞬間、私の沈んでいた心臓が大きく鳴った。

 伝説の魔獣? 猫族の王?

 そんなことはどうでもいい。

 重要なのでは、「そこに行けば、最高級のもふもふに会えるかもしれない」という一点のみ。

 私の前世の記憶が、その情報を「最重要事項」として認識した。


『俺はもう年で、北までの旅には耐えられねえ。だから、代わりにお前が行け』


 老猫はくるりと背を向け、身軽な動作で再び通気口へと飛び乗った。

 去り際に、彼は太い尻尾を揺らして言い残した。


『もし会えたら、王によろしくな』


 それだけ言い残し、彼は闇の中へと消えていった。

 嵐のように現れ、去っていった老猫。

 だが、彼が残した情報は、絶望の淵にいた私に強烈な光を与えた。


 南の修道院に行けば、規則で動物を飼うことなど許されないだろう。

 そんな灰色の人生なんて、死んでも御免だ。

 北へ行けば、自由がある。

 厳しい自然? 魔法があるじゃないか。

 魔物? 猫の言葉が分かれば、交渉の余地はあるかもしれない。

 何より、そこには「白い王」が待っているのだ。


「……本気なのか」


 父の低い声が、私を回想から引き戻した。

 彼はまだ疑っているようだ。華やかな生活しか知らない公爵令嬢が、自ら極寒の地を選ぶなど、狂気の沙汰だと思っているに違いない。


「本気です。私はもう、煌びやかなドレスも、夜会も、偽りの社交辞令も必要ありません。北の地で、土に触れ、風を感じ、静かに余生を過ごしたいのです」


 「余生」という言葉に、父は納得したような表情を見せた。

 十七歳の娘が使う言葉ではないが、今の私にはそれが似合っていると判断したのだろう。


「いいだろう」


 父は重々しく頷いた。


「お前がそこまで言うのなら、北の離宮へ行くことを許可する。ただし、援助は一切しない。持っていける荷物は馬車一台分のみ。護衛も御者一人だけだ。現地に着いたら、あとは自分一人で生き延びろ」

「寛大な処分に感謝いたします」


 私は立ち上がり、深々と頭を下げた。

 これは、これまでの養育に対する感謝と、これからの完全なる絶縁を意味する礼だった。

 父はもう、私の方を見ていなかった。すでに書類に視線を戻し、ペンを手に取っている。

 私という存在が、彼の中で「処理済み」の箱に入れられた瞬間だった。


 私は足音を立てずに部屋を出た。

 重い扉が背後で閉まる音を聞いたとき、私は大きく息を吐き出した。


 やった。

 勝った。

 思わずガッツポーズをしそうになるのを、廊下にいたメイドの視線に気づいて慌てて止めた。

 顔は無表情を保ったまま、心の中ではサンバのリズムが鳴り響いている。

 自由だ。

 面倒な婚約者も、意地悪な妹も、冷徹な父も、これでおさらばだ。

 これからは、誰に気兼ねすることなく、猫を愛で、猫と話し、猫のために生きることができる。


 私は足取り軽く、自分の部屋というより、今は倉庫へと向かった。

 荷造りをしなければならない。

 ドレスなんて一枚も持っていかない。代わりに、動きやすい服と、分厚い毛布、そして何より重要な――隠し持っていた「マタタビの粉」を確保しなければ。


 廊下を歩いていると、先ほどの茶トラ猫が窓枠から飛び降りてきた。

 私の足元にすり寄り、尾を立てて見上げる。


『おい、人間。いい匂いがするニャ。お前、何かいいことあったのか?』


 私はしゃがみ込み、周囲に人がいないことを確認してから、小声で答えた。


「ええ、とってもいいことがあったの。これから、素敵な旅に出るのよ」


 猫は不思議そうに首を傾げたが、すぐに興味を失ったようにあくびをした。


『ふーん。まあ、頑張れよ。あと、その隠してる干し肉、置いてけニャ』


 ちゃっかりしている。

 私はドレスのポケットから、朝食の残りの干し肉を少しだけ取り出し、猫の前に置いてやった。

 猫は嬉しそうに喉を鳴らしながら食べ始める。


 その姿を見ながら、私は確信した。

 私の選択は間違っていない。

 北の地で何が待っていようと、猫さえいれば、私は生きていける。

 いや、むしろこれからが、私の本当の人生の始まりなのだ。


 待っていてね、北の白い王様。

 今から私が、あなたをモフりに行きますから。


 私は立ち上がり、暗い廊下を光の差す方へと歩き出した。


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