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第一話:婚約破棄のショックで前世を思い出す ~ついでに猫たちの心の声も聞こえるようになりました~

 王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、無遠慮な視線で満たされていた。

 天井から吊り下げられた巨大な照明が、磨き上げられた床を煌々と照らし出している。

 華やかな世界。


 だけど、今は緊迫した世界になっていた。


 華やかな音楽はすでに止まり、張り詰めた沈黙が場を支配していた。

 その中心で、私は立ち尽くしている。

 目の前には、顔を真っ赤にして怒りを露わにしている第一王子、アレクセイ様。

 そして、その背中に隠れるようにして、小刻みに体を揺らしている異母妹のマリア。


「カトリーナ・フォン・ベルンシュタイン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」


 私の名前が叫ばれる。

 そのアレクセイ様の声が、広い空間によく響く。

 その声はあまりに大きく、耳の奥がじんじんと痛むほどだ。

 周囲を取り囲む貴族たちが、ささやき合う音が聞こえる。

 嘲笑、憐憫、あるいは単なる好奇心。それらが重なりあって、粘り気のある空気となって私にまとわりつく。


 私は、わけがわからず、ただ呆然としていた。

 今日、この夜会にはアレクセイ様のエスコートで参加するはずだった。

 けれど、約束の時間になっても彼は現れず、私は一人で会場に入ることになったのだ。

 到着して間もなく、ダンスを踊ることもなく、ただ壁際で果実水を飲んでいただけの私に、突然このような怒声が浴びせられるとは思いもしなかった。


「……殿下。今の言葉は、正気でしょうか」


 どうにか絞り出した私の声は、ひどく震えていた。

 貴族としての誇りを保とうと必死だったが、指先が冷たくなっているのが自分でもわかる。

 アレクセイ様は、そんな私を鼻で笑った。


「正気か、だと? 正気でないのは貴様の方だ、カトリーナ! よくもぬけぬけと、被害者のような顔ができたものだな」


 彼は大袈裟に腕を広げ、周囲の観衆に訴えかけるように叫んだ。


「この女は、私の愛するマリアに対し、陰湿極まりない嫌がらせを繰り返してきた! ドレスを切り裂く、花瓶の水をかける。果てには、ありもしない悪い噂を流す……。その数々の悪行、もはや見過ごすことはできない!」


 身に覚えがない。

 全くもって、身に覚えがない。

 私は驚きのあまり、言葉を失った。


 ドレス?花瓶の水? 聞いたこともない。

 それに、悪い噂? むしろ、社交界で私の悪口を広めているのはマリアの方ではないか。


「殿下、それは誤解です。私はそのようなことは一切……」

「言い訳は聞きたくない!」


 アレクセイ様は私の言葉を遮り、一歩前に踏み出した。

 その整った顔立ちは、優越感と憎悪で歪んでいる。

 彼は、背後にいるマリアの肩を抱き寄せた。


「見ろ、この哀れなマリアの姿を! 今日、彼女が着てくるはずだったドレスを切り裂いたのも、貴様なのだろう!」


 言われて、私はマリアの服装に目を向けた。

 彼女が身につけているのは、夜会にふさわしい正装とは言い難い、少し地味な色合いのドレスだった。

 サイズも微妙に合っておらず、急いで用意した代用品であることは誰の目にも明らかだった。

 マリアは、潤んだ瞳で私を見つめ、震える声で言った。


「お姉さま……ひどいですわ。わたくし、あのドレスをとても楽しみにしていましたのに……。どうしてあんなことをなさったんですの?」


 その口調。

 甘ったるく、媚びを含んだ声。

 芝居がかった仕草。

 マリアは、いつもこうだ。

 父や義母の前では、か弱い被害者を演じ、私のいないところでは冷ややかな笑みを浮かべる。

 彼女は、典型的な「守ってあげたくなる令嬢」で被害者を演じきっていた。


「マリア、私はあなたのドレスなど触れてもいません」


 私は努めて冷静に返したが、マリアはアレクセイ様の胸に顔を埋めて泣き崩れた。


「怖い……っ! お姉さまの目が、とても怖いですわ、アレクセイ様……っ!」

「よしよし、可哀想に。もう大丈夫だ、私が守ってやる」


 アレクセイ様はマリアの頭を撫でながら、私を睨みつけた。

 まるで汚いものでも見るかのような目だった。


「カトリーナ。証拠は挙がっているのだ。マリアの部屋に出入りする貴様の姿を見たというメイドの証言もある。これ以上、見苦しい嘘を重ねるな」


 メイドの証言?

 おそらく、マリアが買収したか、弱みを握っているメイドだろう。

 この場において、真実など何の意味も持たないのだと、私は悟り始めていた。

 アレクセイ様は、私を断罪したいのだ。

 そして、マリアを正当な婚約者として迎え入れたいのだ。

 そのためなら、でっち上げの罪などいくらでも作り出すつもりなのだろう。


「衛兵! この目障りな女を王宮からつまみ出せ!」


 アレクセイ様の命令一下、部屋の隅に控えていた近衛騎士たちが動き出した。

 彼らは躊躇なく私に歩み寄り、両側から私の二の腕を掴んだ。


「なっ……離してください! 私は自分で歩けます!」

「黙れ!」


 騎士の一人が強く腕を引いた。

 乱暴な力に、私はバランスを崩した。

 履き慣れない高いヒールの靴が、床の上で滑った。


「あっ……」


 身体が大きく傾いた。

 支えようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 私の身体は床に叩きつけられ、その拍子に、頭を硬い大理石の床に強打してしまった。


 ゴツンッ!


 鈍く、重い音が頭の中で響いた。

 目の前が真っ白になり、火花が散ったような感覚に襲われる。

 激しい痛みが後頭部から脳天へと走り抜けた。


「う……っ」


 私は床にうずくまり、頭を押さえた。

 ズキズキと脈打つ痛みの中で、不思議なことが起きた。

 まるで、分厚い雲が風に吹き飛ばされていくように。

 あるいは、絡まり合っていた糸が、するりと解けるように。

 私の中の「何か」が、急速に形を変えていったのだ。


 ――ああ、そうか。


 唐突に、理解した。

 思い出した、と言うべきかもしれない。

 私は、カトリーナ・フォン・ベルンシュタインであると同時に、かつて別の世界で生きていた「私」でもあったのだ。

 日本という国で、会社員として働き、日々の生活に追われていた記憶。

 満員電車に揺られ、上司に頭を下げ、休日は猫の動画を見て癒やされていた、あの頃の記憶。


 その記憶が蘇った瞬間、私の中で渦巻いていた激しい感情が、嘘のように静まった。

 アレクセイ様への執着も。

 侯爵令嬢としての体面へのこだわりも。

 マリアへの憎しみも。

 すべてが、どうでもいいことのように思えてきたのだ。


 今まで私は、何をそんなに必死になっていたのだろう。

 あんな、自分のことしか考えていない王子に好かれようと、無理をして着飾り、笑顔を作り、媚びを売っていたなんて。

 今の私から見れば、アレクセイ様はただの喚き散らす子供にしか見えない。

 マリアのあのわざとらしい演技も、馬鹿げた三文芝居にしか見えない。


 頭の痛みはまだ続いているが、心はかつてないほど澄み渡っていた。

 憑き物が落ちるとは、まさにこのことだろう。

 私は床に手をつき、ゆっくりと上体を起こした。

 騎士たちが、私が気絶したのかと思って手を離していたのが幸いした。


「おい、何をぼさっとしている! 早く連れて行け!」


 アレクセイ様が苛立ちを露わにして叫んでいる。

 うるさい男だ。もう少し静かにできないものか。

 私は心の中で毒づきながら、乱れた髪を手で払った。


 その時だった。

 どこからともなく、その声が聞こえてきたのは。


『あーあ、人間ってのは本当に馬鹿だニャー』


 ……え?

 私は耳を疑った。

 今、語尾に「ニャー」とついた声が聞こえたような気がする。

 空耳だろうか。頭を打ったせいで、幻聴でも聞こえているのだろうか。


『全くだニャ。あんな下手な芝居に騙されるなんて、目が節穴なんじゃねーの?』


 また聞こえた。

 今度は別の声だ。少し野太い、投げやりな口調。

 私は痛む頭をこらえながら、声のした方へ視線を巡らせた。

 そこには、罪人の私から距離を取り、遠巻きにこちらを眺める貴族たちの壁があった。

 そして、その壁の一部に――ご婦人たちの腕の中に抱かれたり、会場の隅の椅子に座らされたりしている「彼ら」の姿があった。


 宝石をあしらった首輪をつけたシャム猫。

 貴婦人の腕の中で退屈そうにあくびをするペルシャ猫。

 彼らは口を動かしているわけでもないのに、確かに私の頭の中に直接声が聞こえている。


『あのピンクの女、自分でドレスをジョキジョキ切ってニヤニヤしてたの、俺見たぜ』

『私も見たニャー。花瓶の水も自分でこぼしてたし、ほんと、性格悪いニャー』


 シャム猫が青い瞳を細めて言えば、ペルシャ猫も同意するように尻尾を揺らした。


『あのアレクセイとかいう王子も、いい加減気づけばいいのにニャ。あの女が狙ってるのは、王子の地位だけだってことくらい、匂いでわかるニャ』

『無理だろ。あの男、自分の顔ばっかり見てて、周りのことなんて何一つ見えてねーもん。昨日の夜だって、別の令嬢とこっそり会ってたくせに、よく言うぜ』

『うわ、最低だニャ。浮気者のオスなんて、去勢してしまえばいいのにニャ』


 ……待って。

 ちょっと待って。

 この会話の内容、聞き捨てならない。

 彼らは、今まさに私の目の前で繰り広げられている断罪劇の「真実」を話しているのではないか?

 マリアが自分でドレスを切った?

 アレクセイ様が他の女性と会っていた?

 それらは、私が必死に訴えても信じてもらえなかったことや、誰も知るはずのない裏事情だった。


 私は呆然と、遠く離れた彼らを見つめた。

 すると、貴婦人に抱かれていたシャム猫が、私の視線に気づいたようにピクリと耳を動かした。

 その青い瞳が、人垣の向こうからじっと私を見据える。


『ん? おい、あいつ……俺たちの言葉、わかってるんじゃねーか?』


 シャム猫の声が、驚きを含んで頭に響く。

 隣の椅子に座っていた別の猫も、片目を開けてこちらを見た。


『まさかニャ。人間ごときに、我ら高貴なる猫の言葉がわかるはずないニャ』

『いや、目が合ってる。絶対聞こえてる顔だぜ、あれは』


 私が彼らから視線を逸らさずにいると、シャム猫は確信を得ようと、試すような低い声を送ってきた。


『おい、人間。聞こえてるなら両手を挙げてみろ』


 なるほど、テストというわけか。

 私は心の中でニヤリと笑った。

 そして、再び私を捕らえようと近づいてきた近衛騎士たちに向かって、スッと両手を目の高さまで掲げた。

 手のひらを前に向けたその仕草は、彼らへの制止であり、同時にこの馬鹿げた状況に対する完全なる無抵抗の意思表示だ。


「……お待ちください。乱暴は不要です。抵抗はいたしません」


 私の静かな、しかし凛とした声と動作に、騎士たちが思わず足を止める。


「殿下のご意志は、すでに固まっておられるのですね。これ以上、何を申し上げても無駄なようですので、婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」


 私の静かな、しかし凛とした声と動作に、アレクセイ様が気圧されたように口をつぐむ。

 周囲の貴族たちも、私が最後の悪あがきで弁明を始めるのだと思っていたのか、固唾を飲んで注目していた。

 だが、真に反応したのは、遠くにいる彼らだった。


『おいおい、本物だぜ!』

『マジかニャ! タイミングばっちりだニャ!』


 シャム猫が興奮したように身を乗り出し、隣のペルシャ猫も目を丸くしている。

 彼らは顔を見合わせ、ヒゲをピクピクと震わせた後、面白いものを見つけたとばかりに語りかけてきた。


『猫の言葉がわかる人間よ。特別に教えてやるよ。あの女、ドレスを切ったハサミは細かく砕いて、裏庭の井戸に捨てさせてたぜ。王子の浮気相手からの手紙も、昨日の夜に暖炉で燃やして灰にしたのを見たニャ。人間どもには絶対見つけられない、完全犯罪ってやつだ』


 その情報は、私にすべてを悟らせた。

 証拠はすでに隠滅されている。つまり、人間が検証できる物理的な証拠はどこにもなく、この場にいる誰も――たとえどれほど優秀な者が調べたとしても――彼らの嘘を暴くことは不可能なのだ。

 冤罪?

 上等じゃないの。真実を知っているのは、私とこの小さな証人たちだけ。こんな馬鹿げた茶番劇で、何も知らずに勝った気になっている彼らを見るのは、ひどく滑稽で、そしてひたすらに退屈だった。


 私は掲げていた手をゆっくりと下ろし、ドレスの裾を払って優雅に一礼した。

 遠くの猫たちへ「ありがとう」と目配せを送る。

 これは王子に対する敬意ではない。彼らへの冷徹な見切りと、私自身の新しい幕開けに対する挨拶だった。


 私の迷いのない堂々とした態度に、大広間を包んでいたざわめきが波を打つようにピタリと止む。

 アレクセイ様もマリアも、私が泣き叫んで許しを乞うと信じて疑わなかったのだろう。予想外の反応に目を白黒させ、次に発するべき言葉を失っているようだった。


「それでは、皆様。失礼いたします」


 私は冷ややかに真っ直ぐ彼らを見据え、それだけを告げた。

 これ以上、無能な上司のような男と、底の浅い同僚のような女の三文芝居に付き合って、私の貴重な時間を無駄にする義理はない。

 アレクセイ様が何か声を荒げるよりも早く、私はきびすを返し、自らの足で大広間の扉へと向かって歩き出した。


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