悪魔と契約する系1
ヨルトが生まれるまで、俺は確かに天才だった。
才能ある者にしか使えないと言われる、魔法をわずか八歳で身につけ、剣を握らせれば同世代の中では右に出る者はいない。
剣に魔法にもちろん学問だって街の子どもたちの中では群を抜き、周りの大人たちからは神童だと持て囃されていた。「将来は王国騎士団だ」だの「いや、王宮魔導師だ」だの。実に気分が良いものだった。
だが、そんな大人の手のひらはあまりにも簡単にひっくり返る。
ヨルト、我が弟は五歳にして俺よりも繊細で複雑な魔法を使い、剣技も五つの年齢差を感じさせないほどの腕前である。それを知った大人たちは「将来は王国騎士団長だ」だの「いや、王宮魔道士長」だのと俺に言った言葉よりも上のことを言った。
二年間神童だった俺はヨルトの誕生によりめでたくただの人間に戻されたわけである。大人たちは俺を褒めていたことさえ忘れて、今も弟に夢中だ。それは実の両親でさえ例外ではない。
「素晴らしい、ヨルト! 我が息子よ!」
「すごいわ本当に!」
庭で剣の稽古をするヨルトを父と母が褒め称える。俺はそれを窓を隔てて見ていた。つい最近まで、あそこは俺の居場所だった。俺のために雇われた騎士も今ではヨルトの目覚ましい成長に喜楽しているが、前までは……あそこまで笑ってはいなかったが、俺と共に剣を振るのだって楽しんでいたはずだ。
……カーテンを閉めた。
「よいのですか? クリム様も参加なされては?」
「……無理だよ」
メイドは紅茶を淹れて、俺の前に置いた。白を基調とした器に煌めく赤い水面から果物の匂いが漂う。珍しい出し物に感心しながらも、ひとくち口に含むとほっと息をついて、心に渦巻くモヤを晴らそうとする。
「それに家を継ぐための勉強をしないと」
精一杯の笑顔で彼女に返す。我が家は王都からほんの少し離れた街を統べる公爵家だ。長男である俺は当然家督を継がなくてはならない。もちろんそれは名誉あることだ。しかし――。
「本当はクリム様も剣を振り、魔法を放つ。自由と称賛が欲しいのでしょう」
「……っ!」
メイドが見透かしたように言ってくる。確かにその通りだ。ヨルトに才能さえなければ、もっと俺は自由だったかもしれない。何もないヨルトが家を継ぎ、才能溢れる俺は騎士団や王宮魔導士になれたかもしれない。その脚光を、親からの愛さえも失いただひたすらに勉学に励むのはつまらなかった。いや、悔しかった。酷く醜い感情がずっと胸中を巡っていた。
それを否定したくて、言葉を紡ごうとするが上手く出てこない。
「よいことをお教えしましょう」
「……? 何を――」
メイドは指をパチンと鳴らした。すると部屋中のカーテンは閉められ、扉には鍵がかかり、一縷の光も許さない暗闇へと変わる。そしてそんな部屋の燭台に一斉に火が灯された。魔法だ。一介のメイドができる芸当ではない。驚きのあまり、メイドの顔を見た。炎の揺らぎに照らされたメイドの澄ました顔。
……こんなメイド、我が家に居たか?
「自己紹介を致しましょう。私はアガリア――いわゆる悪魔でございます」
アガリアは上品に頭を下げた。スカートが地面に着くのを嫌ってか、裾を摘み、ゆったりとした動作で膝を曲げる。淑女としては当然の立ち振る舞いだが、彼女のそれは完璧すぎたと言っても良い。
だからこそ俺は彼女の言葉を信じられなかった。
「あ、悪魔だって……?」
彼女はコクリと頷いた。悪魔。公爵家の家督を継ぐ者として当然その言葉を知っている。幾度となく本で読んだその存在はまさしく悪鬼羅刹。彼らは人の願いを叶える代償にその対価を貰うのだ。そして、その多くは命。
ただ、本の中の彼らはどれも傍若無人で、礼節をわきまえ気品を感じさせるアガリアはその存在から逸脱しているように思えた。
「まっ、待ってくれ。理解できない。悪魔がなぜ俺に? それに君がそうだという証拠もない」
「……それでは、これならどうでしょうか」
アガリアはまた指を鳴らした。周囲から暗い紫の光が溢れ出る。それは魔法を使うために必要な魔力そのものだった。魔力の光は布のようにアガリアに纏わりつく。眩い光が消滅すると彼女は先程までのメイドの姿から角や黒い翼の生えた姿となった。その姿は宗教絵画でよく目にした悪魔とよく似ている。これも魔法だろうか。姿を変えてしまうとは高度な魔法だ。
「今現在では私が悪魔であると証明する方法はこれしかありません」
悪魔の姿となっても口調は変わらずその見た目との差に多少の違和感を覚えてしまう。アガリアは再度俺に悪魔であると信じたかを聞き、放心しながらも頷く様を見て満足したのか元のメイド姿に戻った。
「さて、私がクリム様のもとに現れた件についてですが――」
彼女は咳払いをして話しはじめた。
「クリム様はヨルト様に大変引け目を感じていると見受けられます。私であればその悩みを解消するお手伝いができましょう」
故に現れたのだと、一貫してアガリアは悪魔らしからぬ敬った言葉を使う。彼女の言葉はどこか不思議で魅力的だった。思わずその提案に乗ってしまいたくなるほどだ。しかし、俺がそれに応えることはない。公爵家の跡取りたる者、我が醜い欲望に抗えずして、どうするというのだ。
「悪いけど、君と契約する気はない。帰ってくれ」
「そうですか。ですがこれはただのご挨拶。詳しい契約の方はまた改めて、クリム様の身から溢れる感情を合図にお伺いさせていただきます」
まるでこれがビジネスであるかのような残響だけを残し、アガリアの姿は紫に煌めく光の粒子となって泡のように消えてしまった。いつのまにかカーテンは開き蝋燭の火は消えて、外からは仲睦まじい親子の声が聞こえてくる。
「…………なにが引け目だ」
やっと否定する言葉を吐き出した。まるでその感情を取るに足らないものだと卑下したいかのように。
俺はカーテンを閉めるとまた机に向かった。アガリアが淹れた紅茶は跡形もなく、さっきの時間が夢であったかのような錯覚を起こさせる。
だがむしろ、そうであって欲しかったのだとその存在をとうに忘れた五年後に思い起こされることになる。




