第8話:無名の村、永遠の名
東京のアパートに戻った夜、俺は初めて「帰ってきた」と思った。
あの村での時間が夢だったのではないかと錯覚するほど、街の光はまぶしく、電車の音が現実を思い出させた。
だが、ある違和感は、確実にそこにあった。
俺は、家にあるすべての鏡が少しだけ歪んで見えることに気づいた。
ガラスの奥に映る自分が、ほんのわずかに表情をずらしているような、そんな不快な錯覚。
「戻ってきた」はずだった。
でも本当に、戻れたのか?
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封筒を送ってから5日後。
民俗学ゼミに立ち寄った時、教授は怪訝な顔をしていた。
封筒は、確かに届いていた。
だが、教授からの言葉に、俺は耳を疑った。
「差出人不明の古い封筒が届いたんだが、中に白紙の紙が何枚も入っているし、同封してるUSBにもデータは空だし……。佐原、何か知らないか?」
「え……?」
俺はその場でUSBを確認した。
しかし——中身は、まっさらだった。
動画も、音声も、文書も、何もない。
記録したはずのすべてが、消されていた。
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その夜、夢を見た。
広場。焚き火。誰もいないはずの村。
音がしない世界の中で、4人の影が焚き火の周りを回っている。
森山、津田、浅井、そして——もう1人。
それは、俺だった。
“俺”は、仮面をかぶっていた。
赤と黒の木彫りの仮面。無表情なその面の下で、俺の目だけがこちらをじっと見つめていた。
『名前を記録した者は、名前を忘れられない存在になる』
声は、どこからか響いてきた。
『忘れられないということは、“語られ続ける”ということ』
『語られ続けるということは、“そこにい続ける”ということ』
『……あなたは、もう向こう側の人間だ』
目覚めたとき、冷や汗が額から流れ落ちていた。
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数日後、研究室に届いた封筒が、なぜか机の上に置かれていた。
差出人不明。中には手紙と、地図のコピー。
内容は、かつて俺が見たものと——まったく同じ。
『この村は、存在してはならない。
見た者は、記録してはならない。
名前を呼んだ瞬間から、向こう側になる。
地図を見たのなら、もう止まれない。
この記録が届いたということは、私はもういない。』
日付だけが違っていた。昨日の日付が記載していた。
俺は恐怖とともに、ようやく理解した。
あの手紙を最初に送ってきたのは、俺だった。
俺が「まだ名前を思い出す前の自分」へと、記録を送り返していたのだ。
全てのはじまりも、終わりも、佐原遼が“記録した”瞬間に起こっていた。
記録は、存在の証明。
だが、証明された存在は、忘れられないものとして語り継がれる。
そしてその記録は、新たな誰かに届き——“祭”がまた始まる。
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ある日、ゼミの後輩が言った。
「先輩、これ見てくださいよ。なんか変な封筒届いたんですよ。差出人、不明で」
俺はそれを見て、無言になった。
——あの封筒だった。
地図。名前のない村。指紋のついた紙。震える文字。
「怪文書って感じですよね。調査しに行ってみます?」
彼は笑った。かつての俺たちと同じように。
俺は、止めなかった。
止めることが、できなかった。
俺の役割は、もう終わっていた。
俺は“記録した者”ではなく、“語られる者”になっていた。
窓の外、風に揺れる木々の向こう。
俺には、見えていた。
——鳥居。
——焚き火の広場。
——仮面をつけた自分。
そして、彼の口が、動くのが見えた。
『また、帰ってきたのですね』