第7話:記録する者の代償
——3人が消えて、残ったのは俺ひとり。
この村に“時間”という概念が残っているのかどうか、もう定かじゃない。
朝も昼も夜も、同じような空気が漂っている。
時計は止まったまま。スマホは暗闇の中。音も景色も、すべてが記録に適さない状態で静かに揺れている。
俺は、自分が“最後の記録者”になったことを自覚していた。
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昼過ぎ、村の広場に立った。
かつて、森山が呟いた「ここに来たことがある気がする」という言葉を思い出す。
今なら、理解できる。
この広場は、俺の記憶のどこかに、ずっと存在していた。
焚き火の石組み。磨かれた柱。風に揺れる草木の音。そのすべてが——懐かしい。
記録を始めたのは、そのときだった。
バックパックの中から取り出したのは、俺が密かに保存しておいた最後のUSBメモリ。
ノートPCと接続し、消されていないか確認する。
——無事だった。音声ファイル、動画ファイル、写真……断片的だが、確かに残っている。
俺はノートPCを開いたまま、手帳に文字を書き始めた。
「この村の存在を、私は“記録”する」
「森山良平、津田和志、浅井勇馬——3名のゼミ仲間とともに、調査に訪れた」
「地図に載らない集落。そこには、姿を見せぬ人々の気配があり、明らかに“現実と異なる空間”が広がっていた」
「録音機材やカメラは、村の中心に入ると作動不良を起こし、記録データは次々と消えていった」
「村には名前がない。しかし、誰もがその“名”を口にしかけ、ついには戻ってこなかった」
俺は筆を止める。
ペン先が震えていた。だが、それを止めることはできなかった。
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書き終えた記録は、USBとともに防水封筒に封じる。
宛先は——俺たちの民俗学ゼミの研究室。
すでに郵便局の場所は確認してある。
町に戻れば、送ることはできる。
だが、問題は「戻れるかどうか」だ。
俺は村の出入り口へと歩き出した。
鳥居を抜け、林道へと向かう。
何度か辿った道。
けれど——今日は違った。
歩いても、歩いても、出られない。
来たはずの方向に、知らない風景が続いている。
倒木が道を塞ぎ、あったはずの看板はなくなり、進んでも、なぜか村の入り口に戻ってしまう。
ループだ。
「……やっぱり、“名前”を思い出さないといけないってことか」
俺は小さく呟いた。
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その夜、焚き火を囲んで一人、椅子に座った。
録音機をオンにし、自分の声を記録する。
「2023年8月14日。佐原遼。
匿名集落内、村の中心。
これが、最後の記録になる可能性がある。」
「私は……今、“村の名前”を思い出しかけている。
それは、確かに、音として脳の奥にある。
口にすれば、ここから抜け出せるかもしれない。
だが、同時に、“それ”を口にした瞬間、俺は“村のもの”になる——そう確信している」
「記録とは、存在の証明だ。
だが、この村においては、存在を証明された瞬間に“封印が解かれる”。
名前を与えることで、この村は、再び地図に戻ってくる」
俺は目を閉じた。
——“その音”が、喉の奥まで上がってきている。
……ムラノ……ナ……
……マ……エ……
俺は、寸前で声を止めた。
——ダメだ。言ってしまえば、もう戻れない。
だが、次の瞬間——録音機が、勝手に再生を始めた。
俺が話した覚えのない、自分の声が響く。
「この村の名前は——」
ノイズ。歪んだ声。
「ウ……タ……レ……」
「ウタレ……村……」
口に出していないはずの音が、録音に残っていた。
俺は愕然とする。
すでに、俺の中の“何か”が、名前を言っていたのか?
それとも、“この村そのもの”が、俺の声を使って“名乗った”のか?
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防水封筒と荷物を持ち、再び村を出るルートを探した。
が——今回は、不思議なほど簡単に、出口にたどり着いた。
……出られる?
まさか、俺が“名前を言った”から?
そう思った瞬間、背中に視線を感じた。
振り返ると、霧の奥に、4人の人影が立っていた。
森山、津田、浅井——そして、もう1人。
それは、俺だった。
広場に立つもう1人の“佐原遼”は、無表情で、こちらを見ていた。
俺の口が動いた。
『行くのか?』
「……ああ」
『じゃあ、“記録者”は、お前じゃなくなる。
今から、お前が、“語られる者”になる』
俺は、一歩、後ずさった。
封筒を強く握る。
「……いや、違う。俺は、語る側でいたい。
そのために——ここを出る」
風が吹いた。霧が舞い上がり、視界が消える。
再び目を開けたとき——俺は、村の外にいた。
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麓の郵便局で、封筒を投函した。
受取人は、民俗学ゼミ宛。差出人不明で出した。
職員の女性が言った。
「……あれ? これ、ちょっと古い封筒ですね。紙質が、昭和っぽい」
俺は答えなかった。
郵便局を出ると、村の方向を振り返った。
だが——遠くからでも見えるはずの鳥居は、消えていた。
俺は、自分が歩いてきたはずの道を眺め、ぽつりと呟いた。
「……記録した、からか?」
そのとき、ポケットの中の録音機が、勝手に再生された。
『これが、最後の記録になる可能性がある』
それは、俺の声。
けれど、次の瞬間、聞き覚えのない音声が混じった。
『戻ってきたのですね』
俺は息を呑んだ。
——“誰の声”だった?
——なぜ、それが録音されていた?
手が震える。
風の音が遠く、誰かの笑い声のように聞こえた。
俺は気づいた。
記録したことで、俺もまた、語られる側になったのだ。