第6話:ひとり、またひとり
翌朝、俺たちは再び村へ向かった。
自殺行為だとわかっていながら、それでも確かめなければならなかった。自分たちが何を見て、何に触れたのか。それが“どれほど現実に近い”ものだったのか。
車を降り、林道の終点から、鳥居をくぐったとき。
森山が立ち止まった。
「……ただいま」
その言葉に、俺は反射的に振り向いた。
「おい……?」
森山の顔は、どこか安堵していた。緊張ではない。恐怖でもない。——まるで、懐かしい我が家に帰ってきたかのような、安らぎの表情だった。
「やっぱり、ここだったんだな。ずっと前にも、ここにいた気がしてた」
「何言ってるんだ。ここには初めて来たんだぞ」
「いや、違う。たぶん、俺は……もともと、この村の人間だったんだよ」
「おい、森山……!」
津田が駆け寄ろうとしたそのとき。
森山は、鳥居の向こうへ歩き出した。
ゆっくりと。振り返らず。まるで、最初から決まっていた道をなぞるように。
「森山……!」
追いかけようとした俺たちの目の前で、霧が降りた。
薄く、白く、冷たい。
たった5メートル先にいたはずの森山の姿が、もう見えなかった。
霧の中から、かすかに彼の声が聞こえた。
「……ああ……やっぱり……“ナマエ”を思い出すと……帰れるんだな」
それが、森山の最後の言葉だった。
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それから数時間、俺たちは村を探し続けた。霧は次第に晴れてきたが、森山はどこにもいなかった。
彼がいたはずの家には、誰もいない。物の配置も、昨日と違っていた。
俺たちは、完全に“村の形”を見失っていた。
「……津田、さっきから黙ってるけど……大丈夫か?」
「……ああ。たぶん、わかってきたんだ」
「なにが?」
「記録を壊してるのは、村じゃない。——俺たち自身だ」
「は?」
「記録しようとすると、どこかで“自分の中の何か”が止めてる感覚があるだろ? データが消える、音が消える、映像が上書きされる……。あれって、つまり“俺たちの中の村”が、そうさせてる」
“俺たちの中の村”——その言葉は、深く沈んだ何かを引き上げるような響きを持っていた。
「この村は、“忘れられる”ことで保たれてる。でも、同時に、“思い出した者”を歓迎してる。だから……」
津田はポケットから、壊れたSDカードを取り出した。
「……これも、意味がなくなるかもしれない。記録じゃなく、ただの鍵になる」
「鍵?」
「“扉を開ける鍵”さ。開けたら、もう戻れないかもしれないけど、閉じたままじゃ、何も変わらない」
俺は、津田の表情を見た。何かが、決まっていた顔だった。
「お前、まさか——」
「俺、昨日の夜、夢で“村の名前”を聞いたんだよ。覚えてないけど、確かに聞こえた。で、その瞬間、自分がここで生まれて、ここで死ぬ姿を見た」
「それはただの夢だ。ここにお前の家族はいない」
「……いや、たぶん、ここにしかいないんだよ」
そのとき、村の奥から鈴の音が聞こえた。
澄んだ、揺れる音。誰かが祭りの準備をしているような音色だった。
津田は、それに吸い寄せられるように歩き出した。
「おい、待て……!」
「ありがとう、佐原。あとは、任せた」
そして、彼もまた、霧の中へと消えていった。
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日が傾いてきた頃、村には俺と浅井の二人だけが残されていた。
誰もいないはずの家々から、時折、遠くの生活音が聞こえる。
誰かが戸を閉める音。足音。水を汲む音。
それらは微かだが確かに聞こえ、俺の背後に張りつくように存在していた。
「……もう、ここに長くいるべきじゃない」
浅井が言った。だが、彼の声にも、少しだけ迷いが混じっていた。
「なあ、佐原……お前、夢の中で村の名前を聞いたことあるか?」
「……ある。でも、思い出せない」
「俺も。だけど、なんとなく、口の中に“その音”が残ってるんだよ。喉の奥に、ひっかかってる感じで」
「浅井……」
「たぶん、時間の問題なんだと思う。名前を思い出すのは」
俺は言葉を失った。
そして、その夜——
浅井はいなくなった。
俺は、朝まで起きていたはずだった。浅井は俺の隣の寝袋にいた。俺は彼の呼吸を聞いていた。
なのに、朝、起きると——寝袋は空だった。
中にあったのは、一枚の紙だけ。
「なまえ、おもいだした。」
たったそれだけの文字。
それを見たとき、俺は気づいた。
俺だけが、まだ名前を思い出していない。
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今、村には——俺ひとりしかいない。
かつて4人いた。
封筒を受け取ったあの日。皆、笑っていた。山の空気に浮かれていた。
「怪文書だ」「行ってみようぜ」と軽口を叩いていた。
でも、今は俺しかいない。
歩いても、誰にも会わない。
探しても、誰の声も聞こえない。
……ただ一つだけ、確かに聞こえてくるものがある。
それは、“村の名前”だ。
まだ、音にはなっていない。
けれど、確実に、俺の喉元までそれは昇ってきている。
ゆっくりと、静かに。
まるで、自分の名前のように。