第5話:語られた“祭”
「このままじゃ、帰れなくなる」
朝、浅井がぽつりと呟いた言葉に、誰も返事をしなかった。
昨日から続く空間の歪み。記録の消失。繰り返される“何かに見られている”感覚。
俺たちは明らかに、“ただの山奥の集落”とは異なる場所に足を踏み入れてしまっていた。
________________________________________
「……下山しよう」
昼前、俺はそう提案した。
「一度、麓まで戻る。ルートを確かめて、村の“外”から全体を再検証する。まだ引き返せるうちに」
津田も浅井も頷いた。森山は少し間を置いてから、しぶしぶ頷いた。
俺たちは、荷をまとめて出発した。村を抜け、鳥居を越え、来た林道を歩いて戻る。
途中、前にも立ち寄った麓の町に寄ることにした。あのガソリンスタンドの隣に、地元の人間が集まる古い駄菓子屋がある。
その裏手に、小さな古民家があった。
俺は直感的に、そこに“話を聞ける人間”がいる気がした。
________________________________________
「お若い方が、あそこへ?」
古民家の主は、背の曲がった白髪の老婆だった。名前は村上すえさん。80代後半とのこと。
俺が“地図に載っていない集落”について話すと、老婆は一瞬、目を見開いたが、そのまま視線をそらした。
「……話さない方が、いい」
「知ることで、戻れなくなることがあるのは、わかっています。でも、知った上で、どうにか“出る道”を探したいんです」
静かに、俺はそう言った。
しばらく沈黙が続いた。
老婆は湯呑を口に運び、静かに話し始めた。
「昔々、あの山の奥に、一つの村がありました。名前は……忘れた。そうするように、決められているから」
「決められている?」
「“あの祭”が終わったとき、この土地の者は皆、そう誓ったのです。——“記録しない”“語らない”“思い出さない”と」
老婆の語りは、まるで封じた記憶を一枚ずつ剥がしていくようだった。
________________________________________
かつて、村にはある風習があった。
年に一度、集落の真ん中にある広場で「神降ろしの祭」が行われた。
神は、 “外から来た者”に宿るものとされていた。
「昔は、山越えでやってきた旅人、商人、巡礼者がよくいた。その者たちを“迎え”に行くのです」
迎えとは——つまり、招き入れるということだった。
集落では、その者を“神の器”と呼び、一晩、食を与え、酒を飲ませ、舞を奉納し、神を宿らせたと信じた。
その後、祭の終わりとともに、“器”は——姿を消した。
「死んだ……という記録は、ないのです。ただ、姿が見えなくなる。そして、二度と戻ってこない」
外部の者を神とし、消す。
それを、長く繰り返していた。
だがある年、何かが起きた。
「器に選ばれた者が、村の名前を言ってしまったのです」
それは、祭の終盤だったという。
神が完全に降りきる前、器が口にした本来の村の名前が、空に響いた。
その夜から、村の中で、子どもが眠ったまま目を覚まさなくなった。
数十名の村人が、名前を呟くようになり、最後には——皆、同じ顔になっていった。
「器の顔に、ね」
翌年、村は封印された。
道は閉じられ、地図から抹消された。
役所には“自然崩壊により廃村”と記録され、住民票は統合された。
だが——そのすべては、表向きの処理にすぎなかった。
「今も、あの村はあるのです。言葉ではなく、記憶の中に。神の器になった者が、いつか戻ってくるのを、待っている」
「なぜ記録してはならないのか。それは、名を与えられた存在が、この世に定着してしまうから」
記録とは、存在の証明。
しかし、この村は、「忘却」によってしか保たれない存在だった。
「あなたたち、カメラで何かを記録しましたね?」
老婆が鋭く言った。
「ええ……」
「ならば、もう“迎え”が来ています」
俺は全身の血が冷たくなるのを感じた。
「どうすれば……出られるんですか」
「今から、すべてを消すこと。記録したものも、記憶も。言葉にせず、思い出さず、振り返らない。
それができれば——あなたは、元の場所に戻れます」
「ただし、それができなかった者たちは、皆、村に残されたままです」
「神として? それとも、村人として?」
老婆は、答えなかった。
ただ、湯呑を静かに伏せて言った。
「神と村人は、もう区別がつかないのです」
________________________________________
その日、村には戻らなかった。
俺たちは町に一泊し、思い出せる限りの記録を抹消しようとした。カメラは分解し、SDカードは石で叩き割った。
だが、俺は——一つだけ、USBに保存したデータを持ち帰った。
佐原遼という記録者として、すべてを抹消する前に、“証拠”を残すべきだと感じたからだ。
________________________________________
森山が虚ろな声で言った。
「……なあ。戻る前に、もう一度だけ、確かめたいんだよ」
「何を?」
「俺たちは本当に、あそこに行ったのか?」
「どういう意味だ?」
森山の顔は真剣だった。冗談や余裕は、そこにはなかった。
「……正直、最近の記憶が曖昧なんだ。撮ったはずの映像が消えてるのはわかる。でも、それ以上に——思い出せない。どの家に泊まったか、誰と何を話したか。村の配置すら、バラバラになってる気がする」
俺たちはそれを、ただの恐怖や精神疲労だと思い込もうとしていた。けれど、彼の言葉は正しかった。
“村の記憶”が、時間と共に摩耗し始めている。
まるで——自分たちが体験したことすら、“上書きされている”ような感覚だった。
その夜、眠る前。
夢の中で、俺は再びあの広場にいた。
焚き火。誰もいない石柱。
音楽のような笛の音。
そして、俺の背後で、誰かが囁いた。
『記録したな』