第3話:誰もいない村、誰かがいる村
朝、目を覚ました瞬間、俺は何かの音で起こされたことに気づいた。
それは、柱が軋む音だった。
ギィ……ギィ……
風のせいだろうか。だが、窓は閉めたはずだった。寝袋の中で、俺は静かに上半身を起こす。周囲には津田と浅井がまだ眠っていた。森山の姿が、ない。
「森山?」
小声で呼ぶ。返事はない。
俺は懐中電灯を手に取り、静かに玄関に向かう。扉は閉まっていた。外に出た痕跡も、音もない。
寝床に戻ろうとしたとき——
天井から、“わずかな物音”が聞こえた。
カサ……カサ……という、何かが擦れる音。
……屋根裏だ。
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はしごのある収納式の天井を開けると、微かな埃が舞った。
懐中電灯で照らすと、木の床が現れ、その奥に小さな箱があるのが見えた。
慎重に体を持ち上げ、屋根裏に這い上がる。
そこには、古い木箱と、一冊のノートがあった。
表紙には「昭和四十六年——祭記録」とだけ書かれている。
手に取った瞬間、ページの間から乾いた花びらが落ちた。何十年も前のものだろうか。ページをめくる と、震える文字でびっしりと日記のような記録が綴られていた。
『他所者がまた来た。
この村に、なぜ戻るのだろう。
神の名を呼んではならない。名は封じた。忘れることで守ってきた。
だが、誰かがまた記録しようとしている。
名前を思い出せば、そこに引き込まれる。』
不意に背後から声がした。
「おい、いたのか」
津田だった。俺は驚いてノートを隠しかけたが、津田は無言で手元を覗き込んできた。
「……やっぱり、こういう記録があるんだな」
「見てたのか?」
「お前がいないって浅井が騒いで、探しに来た。で、声が聞こえて……」
「声?」
「うん。“戻ってきたのか”って、誰かが囁いたような」
俺はノートをリュックにしまい、屋根裏を降りた。
「そういえば、森山見なかったか?」
「森山? まだ寝てるけど?」
「……え?」
寝床に確認に行くと、森山は何事もなかったかのように眠っていた。
俺と津田が何度起こそうとしても、一向に起きる気配はなかった。
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朝食を済ませた後、俺と津田と浅井は村の中心部へ足を運ぶことにした。昨日確認した民家は5軒。すべて同じような構造で、ほとんどが廃屋だが、生活の名残があった。
驚くべきことに、一軒だけ、洗濯物が干されていた。
白いシャツ。布団を干すための竹竿。風になびくそれらは、明らかに“昨日干されたもの”にしか見えなかった。
「これ……誰かいるよな。絶対に」
「人の気配はある。でも姿が見えない。それが一番不気味だ」
「ここに“住んでいる”ってことか? 村ごと記録から消えてるのに」
俺たちはその家には入らず、少し離れた広場のような場所へ向かった。
広場には、不自然な石組みがあった。石を六角形に組み、その中心に木柱が立てられている。何かの祭具だろうか。台座には、摩耗して読めない文字が刻まれていた。
「ここが……祭の跡?」
「夜に何かやってたのかもな」
「でもさ、何年も前の記録のはずなのに、これ……新しくないか?」
確かに、石は苔むしておらず、表面がやけに滑らかだった。つい最近、誰かが磨いたような……。
そのとき、浅井が何かを見つけた。
「……これ」
木柱の根元に、折りたたまれた紙切れがあった。開くと、子どものような筆跡で文字が書かれていた。
『しってはならない
かえってはいけない
わすれて
わすれて
わすれて』
読んだ瞬間、喉がひゅっと詰まったような感覚がした。
「これ……誰が書いたんだ?」
「子ども、か? でも、こんな場所に……」
「書き方が、まるで教え込まれてるみたいな……」
そして、俺たちは気づいた。紙切れの裏に、歪んだカタカナで、何かの“名前らしきもの”が書かれていたことに。
『ム□ノナマエ □□□□□』
文字の一部が塗り潰され、まるで視認されることを拒んでいるようだった。
だが、それでも“村の名前”がそこに在ることは、明白だった。
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夕方、森山がようやく目を覚ました。
「……水飲んでくる」
と言って外に出たが、10分経っても戻らない。
津田と俺が探しに出ると、森山は井戸の前にしゃがみ込んでいた。
「森山? どうした?」
「……なあ」
森山は、井戸の水を見つめながら言った。
「この村、俺……前に来たことある気がする」
「は?」
「夢の中だと思ってた。でも、こうして見ると、懐かしいって感じがするんだ。匂いとか、空の色とか……音がね、懐かしい」
「夢と現実を混同してるんじゃないか?」
「そうかもな。でも、……ずっと昔、どこかで名前を呼ばれた記憶がある」
森山の言葉が嘘ではないことは、その目つきが証明していた。彼は怯えても、興奮してもいなかった。ただ静かに、真実を確認するようにして呟いていた。
「この村……名前を思い出すと、戻ってこれなくなる気がする」
「じゃあ、思い出すなよ」
「……でも、思い出したいんだよ。俺のどこかが、それを欲してる」
その瞬間、井戸の水面に波紋が走った。
風はない。落ち葉も落ちていない。
それでも、波紋が広がった。
俺たちは、そこからすぐに離れた。
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その晩、津田がカメラの再確認をしていた。
「……おかしい」
「どうした?」
「昨日撮ったはずの動画……消えてるどころか、“別のもの”に置き換わってる」
「……別の?」
「これ、見てくれ」
彼は画面を俺に向けた。
そこには、4人の若者が村の広場で焚き火を囲んでいる映像が映っていた。
「……これ、俺たちじゃないか?」
間違いない。映っているのは、俺、津田、浅井、森山。だが——
「……誰も撮ってないよな? こんなの」
「夜、こんなふうに火を焚いてないし、こんな服も着てない……」
動画の中の“俺たち”は、どこか表情が固く、仮面のように笑っていた。
そして、最後の数秒。
カメラがぐるりと回転し、撮影者の顔が一瞬だけ映った。
その顔は、俺だった。
でも——俺は撮影していない。
……だったら、誰が、いつ、どこから撮ったのか?
映像の最後、ノイズと共に“何かの音声”が聞こえる。
耳を澄ませると、それは……微かな囁きだった。
……ナマエ……ワス……レ……
……コノムラ……ノ…………
耳の奥で、何かがゆっくりと開いていくような気がした。
そして、カメラが完全にブラックアウトした瞬間、誰かが俺の背後で、小さく呟いた。
『また……来たのか』