第2話:存在しない村への道
山の匂いが濃くなるのは、標高が1,000メートルを超えたあたりだった。
俺たちは長野県某郡の小さな町にあるビジネスホテルに前泊し、早朝、林道に向けて出発した。四駆が唸るような音を立てて、国道から舗装の悪い山道へと入っていく。
助手席の津田が、タブレットを確認しながら言う。
「この辺りに入ると、もうGoogleマップも圏外になる。地形図とコンパスでやるしかない」
「すでに文明が届いてねぇな……」
後部座席で浅井がつぶやく。森山は車酔いに顔をしかめながら、窓の外をじっと見つめていた。
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午前9時を回った頃、俺たちは「新開林道」と書かれた古びた木の看板の前にたどり着いた。看板は朽ちて一部が割れ、文字の下半分は苔で覆われていた。
「ここから先は……未舗装だな。行けるとこまで車で行って、あとは歩こう」
津田の言葉どおり、林道は砂利と泥でできた簡易な道だった。車体が揺れ、下からゴトンと石を踏む音が響く。
だが、30分ほど走ったところで、行き止まりにぶつかる。山の斜面が崩れかけた場所に、無造作に“通行止め”の看板が立てられていた。ロープも何もない。
「ここ、地図だとまだ道が続いてるんだよな」
「うん。手紙の地図だと、この先に集落が……」
俺たちは装備を背負い直し、徒歩で進むことにした。ブーツに履き替え、バックパックを担ぎ、GPSは起動せず。方位磁針と地形図、方角と太陽の位置を頼りに、林道の“延長線”を踏み出す。
気温は22度ほど。木漏れ日が差し、風が涼しい。だが、妙に音が少ないのが気になった。鳥の鳴き声も、虫の羽音も、ほとんどしない。
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「……あった」
津田が立ち止まり、前方を指差した。灌木の隙間から、苔むした石畳が現れていた。
幅1メートルほどの石道が、山中に続いている。周囲の木々に比べてその道だけが不自然に開けていて、何かの導線のようだった。
「これ……参道か? 神社?」
「鳥居も見える」
浅井が小声で言った。
確かに、道の先に、朱色の木製鳥居がぽつんと立っている。その奥に、石造りの祠のような建物も見えた。
鳥居をくぐった瞬間、森山が立ち止まった。
「……耳、詰まってない?」
「え?」
「ほら、飛行機に乗ったときみたいな圧……耳が、変な感じする」
俺もその違和感に気づいた。確かに、音の輪郭が鈍くなり、耳の奥に微かな圧がある。高度のせいではない、何か空気そのものが変質したような感じだ。
祠の前を過ぎたとき、俺は無意識にスマホを取り出し、動画を回そうとした。
だが、電源が落ちた。
バッテリーは満タンのはずだった。再起動しようとしても、無反応。
「俺のもだ……。いきなり落ちた」
浅井が隣でスマホを振っている。
「これってさ……やっぱ電磁波か何かあるんじゃ……」
「いや、そんな……地形の問題か?」
しかし、その時すでに俺たちは“村”の輪郭を視界に捉えていた。
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木々の隙間から見えたのは、数軒の古い民家だった。
瓦屋根の一部が落ち、木造の壁には蔦が絡んでいる。だが、崩れてはいない。完全な廃墟でもない。
「……ここだ」
津田がつぶやく。
俺たちはゆっくりと歩を進め、第一の家屋の前に立った。
表札は……ない。名前も番地もない。ただ、木の柱に古びた紙札が貼られており、墨で“火之禍封”とだけ書かれていた。
「ヒノカフウ……?」
「火の禍、封じる……?」
「お祓い的な意味か?」
緊張が、言葉を切り取っていく。
玄関は開いていた。扉は少しだけ開けられ、誰かが中にいるような気配さえあった。
だが、中は静まり返っている。
「……勝手に入っていいのか?」
「まぁ……誰もいなさそうだけど」
俺たちは慎重に足を踏み入れた。
家の中は、予想外に綺麗だった。
埃は少ない。畳には日差しが差し込み、押入れは閉じられ、ちゃぶ台の上にはコップが一つ置かれていた。
まるで、ついさっきまで誰かがいたような雰囲気。
「なあ……これって……」
森山が窓の外を見つめたまま動かない。
「……さっきから、誰か、見てる気がする」
俺も背後に目があるような感覚に襲われていた。背筋にじんわり汗が滲む。
「写真、撮っておくか?」
津田が躊躇いながらカメラを構えた。シャッター音。
その瞬間——
パキッ
音がした。
外だ。木の枝が折れるような音。そして、細く、乾いた足音。
誰かが、外を歩いていた。
俺たちは息を潜めた。だが、声は聞こえない。足音だけが、家の周囲を一周するようにゆっくりと巡っていく。
「……動くな」
俺は津田に目配せした。
だが、外には誰の姿もない。
足音は、徐々に遠ざかり、やがて消えた。
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その夜、俺たちは一番状態の良さそうな民家に泊まることにした。
電気はない。ランタンと懐中電灯。ガスは当然使えず、食料は持参の非常食。
だが、風呂場の蛇口を捻った浅井が驚いた顔で言った。
「……水、出る。てか、冷たくて綺麗。なんか……湧水?」
それは確かに不気味だった。インフラが死んでるはずの場所で、水だけが生きている。
俺たちは寝袋を並べ、消灯前に共有した動画を見返そうとした。
だが、ファイルが破損していますという表示ばかりだった。
「なにこれ……」
「全部? 撮ったばっかだろ?」
「こっちは再生できる……いや、音だけだ。映像が、真っ黒……」
浅井がスピーカーに切り替える。
——ザザザザ…………
……ヒュ…………
…………サハ……ラ…………
「今、なんて言った……?」
「……佐原、だよな?」
俺の名だ。間違いない。
誰が、なぜ。
映っていない。聞こえるのは、俺の名前を呼ぶ“何かの声”。
その時、森山が急に頭を抱えて呻いた。
「……あぁ……なんか……頭の奥が……グワングワンする……っ」
「おい、森山!?」
「……ムラ……ノ……ナマエ……」
その声は、掠れて意味を成さない。だが、俺たちは聞き逃さなかった。
森山は、村の名前を、口にしようとしていた。
だが、その名前は、まだ……誰も知らないはずだった。