第1話:封筒の中の地図
紙の質感が、まずおかしかった。
古文書のように黄ばんでいるわけではない。だが、手に取った瞬間、ふと「これは今の世界に属していない」とでもいうような、言葉にならない違和感が手のひらを這った。
封筒の宛名は、俺が所属する大学の民俗学ゼミの名称。差出人は記されていない。
「差出人不明? またイタズラじゃないの?」
森山が苦笑まじりに封筒を覗き込んでくる。彼は俺の同期、普段は飄々としてるが、オカルト系の話には弱い。
「開けてみていいか?」
「いいけど……あんま変なの入ってたらマジで教授に渡そうぜ」
俺は躊躇いながらも、中身を取り出す。A4の紙が三枚、折りたたまれていた。
一枚目は手紙。細かく揺れる字で、震えたペンの跡が濃い。まるで、書いた人間が何かに怯えていたような筆跡だった。
『この村は、存在してはならない。
見た者は、記録してはならない。
名前を呼んだ瞬間から、向こう側になる。
地図を見たのなら、もう止まれない。
この記録が届いたということは、私はもういない。』
「なにこれ……小説の前書き?」
浅井が眉をひそめた。ゼミの中で一番冷静なタイプだが、口調に微かな緊張があった。
二枚目には、何らかの地図が印刷されていた。だが、それは市販の地図ではない。標高線や尾根のラインは、通常の地図よりも詳細で、いくつもの赤いペンの書き込みがされていた。
「……これ、長野県の山奥だな」
津田が小声でつぶやいた。彼はGPSや地形図に強い男で、ゼミでは“地図マニア”とあだ名がついている。
「新開林道って書いてあるけど、ここ……地図上だと途中で行き止まりなんだよな。でもこのコピーだと、その先に続きが描かれてる」
「ここに……囲まれた部分、集落……?」
赤ペンで囲まれた区域には、確かに複数の四角い記号があった。民家か小屋のような印。だが、それには名前が書かれていない。
「なあ、ここって……本当に集落なのか? なんか、鳥居マークもあるぞ」
「でも名前が書いてない。不自然だ」
「もしかして、地図に載ってない村……?」
それを聞いた瞬間、ゼミ室の空気が一瞬沈んだ。
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民俗学を学ぶ者にとって、“地図に載らない村”は、ある種の聖域であり、同時に触れてはならない領域でもある。
伝承、神隠し、口減らし、落人集落……日本の山間部には、歴史の谷間に埋もれた“匿名の村”がいくつも存在していたと言われている。
だが、実際に「そこに行った」「見つけた」という証言は、どれも都市伝説の域を出ない。
「どうする? 調査……行ってみるか?」
俺が口にすると、皆、顔を見合わせた。
「マジで……? こんなの、本当かどうかもわかんねぇし、変な噂だったらヤバいって」
「でもさ。もしこれが本物だったら、学会レベルの発見だよ?」
「行くなら、ちゃんと教授に話そう。調査の名目にすれば、旅費も出るかもな」
笑いながら浅井が言ったが、冗談には聞こえなかった。
誰もが、その地図の“赤ペンで囲まれた部分”から目を離せずにいた。
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その夜、俺は一人でゼミ室に戻り、手紙の文字をルーペで確認していた。
震えるような筆跡。だが、それでも必死に「何かを伝えよう」としている力がある。
一番下の行、細く、赤ペンで書き込まれたようなインクが滲んでいた。
『この記録が届いたということは、私はもういない。』
その文字の下には、小さな指紋が赤く残っていた。人差し指。まるで血で押されたように、生々しい。
俺はなぜか、息を飲み込む音を抑えられなかった。
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数日後、教授の了承を取り、夏季休暇を利用した“調査旅行”が決まった。
メンバーは、俺、津田、浅井、森山。全員、あの封筒を見た者たちだ。
「林道の終点までは車で行ける。そこから先は徒歩だな」
津田がルートを地図で説明してくれる。ルートは不確かで、途中に“道標のない分岐”が複数あるという。
「GPSもたぶん使えない。山間部は電波ないし」
「マジで行くのかよ……記録したら戻れないとか書いてあったぞ?」
森山の声に、誰も答えなかった。
すでに、俺たちは“見るべきではなかった地図”を見てしまっていた。
しかも、全員がそれを「記録」し、記憶に焼き付けていた。
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準備は進み、出発の日が近づくにつれ、俺は奇妙な夢を見るようになった。
霧に包まれた森。石畳の道。朱色の鳥居。そして、その奥に並ぶ無人の家々。
そこに立つ、顔の見えない誰かが、ゆっくりと俺の名を呼んでいた。
目が覚めた時、妙にリアルな木の匂いだけが鼻に残っていた。
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記録は、存在の証明だ。
だが、記録してはいけないものが、もしこの世にあるとしたら。
俺はそれに、触れようとしているのかもしれない——。