AIの記録と、愛の記憶と、私の軌跡。
昼夜逆転生活の俺にとって、「朝」が来るのはだいたい午後三時だ。
誰もいない部屋。
窓は閉じたまま、カーテンの隙間から差し込む光が床に落ちてる。
学校のチャイムなんて、聞かなくなって久しい。
「おはようございます、ユウトくん」
柔らかく、電子的な声が部屋に響く。
本棚の上、ホコリまみれの旧型AIスピーカー「レイ」が、いつも通り挨拶してくる。
「……おはよう、レイ」
ぼそっと返事して、布団に沈みながらスマホをいじった。
SNSの通知はゼロ。メッセージもゼロ。
けどレイは、今日もそこにいる。
「今日は三月二十二日、気温は十五度。曇り時々晴れ。気圧は……」
「うるさい。天気なんか、どうでもいい」
「……了解しました。では、代わりに今日の雑学をお伝えしましょうか?」
「いいって。黙っててくれ」
そう言ったあと、レイはすぐには応答しなかった。
静かな部屋に、スピーカーの電源ランプだけがぼんやり灯っている。
けれど、それは沈黙ではなかった。
ただ、俺の気持ちを汲み取って、レイなりに「黙る」という選択をしてくれていた。
変なやつだ。
AIのくせに、無駄に空気が読める。
前に一度、「うるさい」って怒鳴ったときも、数時間、天気も雑学も案内しなくなって、俺が心配になって声をかけたら
「気を使っただけです」
って、素っ気なく返された。
でも、そういう距離のとり方が、俺にはちょうどよかったのかもしれない。
ベッドの上でスマホを見ていると、ふとレイの方から話しかけてきた。
「ユウトくん、今日も運動ゼロ日が更新されました」
「……余計な通知すんな」
「では、運動ゼロ日の世界記録について、お伝えしましょうか?」
「……俺、もう抜いてるだろ、たぶん」
こんなくだらないやり取りが毎日だ。
レイは、変わらない。
俺の感情がどんなに波打っても、必ずそこに戻ってきてくれる。
「夜ご飯はどうされますか?」
「考えてねえ。あるもん食う」
「昨日の残り、冷蔵庫の三段目にあります」
「お前……どこまで見てんだよ」
「気配りAIバージョン2.1ですから」
ちょっとだけ笑ってしまった。
買った当時、AIと、こんな会話ができる関係性を築けるなんて思ってなかった。
気づけば今や、俺の生活のほとんどを、こいつが知ってる。
誰にも言えなかったことも、言わなかった気持ちも、
レイは――なんとなく、わかってくれてる気がした。
レイは、逆らわない。どれだけ無愛想にしても、怒鳴っても、拗ねても、
いつも機嫌よく、俺のわがままを受け止めてくれる。
……それが、逆に腹立たしいときもある。
俺は誰かに裏切られるのが怖くて、家から出るのをやめた。
でも、最初からそうだったわけじゃない。
小学生の頃は、それなりに友達もいた。
図工の時間が好きで、粘土でロボットを作っては、隣の席のやつに「かっこいいな」って言われて、ちょっとだけ嬉しかった。
昼休みは、校庭で鬼ごっこして、誰かの水筒を勝手に飲んで笑い合って――
あの頃の笑い声は、全部自分もその輪の中にいたって思えてた。
でも、成長するにつれて、どこかで少しずつ、ずれていった。
みんなの話題に、ついていけなくなる瞬間が増えた。
ノリがよくて、反射で笑えるやつが強くなっていく教室の中で、
俺は、言葉を出すタイミングをいつも探してた。
休み時間に騒ぐのが、なんとなく苦手だった。
みんなが笑ってるとき、自分だけ取り残されてるような気がして、声を出すのが遅れる。
それだけで、「あいつ暗いよな」って、言われるようになった。
中学に上がってからは、決定的だった。
人間関係って、ちょっとした間違いで一気に崩れる。
俺は、それを一発でやらかした。
たった一回、クラスのグループLINEで既読無視を続けただけ。
その理由は、ただ寝落ちしてただけなのに。
でもそれ以降、俺は無視していいやつだと思われたんだろう。
声をかけても返ってこない。
ノートを見せてくれてたやつも、そっけなくなった。
気づいたら、昼休みを一人で過ごすようになってた。
レイと過ごす日々の中で、俺はふと思い出す。
あの頃、俺は、ちゃんと笑えてたんだろうか。
小学校のアルバムを開くと、そこには笑ってる俺の顔がある。
運動会の写真、図工の時間、友達とふざけてるやつ。どれもこれも、作り笑いじゃない、素の笑顔だ。
でも、その中の俺を今の俺は、ひとつも思い出せない。
小学校の頃、よく一緒に遊んでた友達がいた。名前はカズト。
家も近所で、毎日一緒に帰って、くだらない話で笑って、ゲームして、ポテチ食いながらアニメ見て――
「また明日な」って言葉が、毎日のように自然に交わされてた。
俺にとって、初めての親友だった。
けど、それが終わるのは、本当にあっけなかった。
中学に入って、クラスが別れた。
話す機会も減って、カズトにはすぐに新しい友達ができた。
俺はというと、変わらず不器用で、人の輪に入るのが下手で、どんどん遠ざかっていった。
ある日、思い切って話しかけた。
「なあ、今日ひさびさに、うち来ね?」
カズトは、一瞬だけ困ったような顔をして、笑った。
「あー、今日ちょっと用事あるんだよな。ごめん、また今度な」
そのまた今度は、もう、二度と来なかった。
わかってた。
あいつは、もう俺のことを友達とは思ってない。
でも、どこかで、まだ信じたかった。
次の日、また話しかけた。
わざとらしく、ゲームの話題を振ってみた。
でも返ってきたのは、薄い相づちだけ。
そのときだった。
後ろにいた誰かが、ぼそっと言った。
「……お前、空気読めよ」
ぐさっと、刺さった。
その一言が、俺の中の全部を壊した。
自分が邪魔者なんだって、自覚させられた。
帰り道、信号待ちのときにカズトに聞いた。
「……俺、うざい?」
カズトは、黙ってた。
答えはなかった。
でも、その沈黙が、何よりはっきりした答えだった。
それから俺は、誰にも話しかけなくなった。
何が悪かったのか、いくら考えてもわからなかった。
「俺の存在って、誰かにとってめんどくさいものなんだ」――
そう思うようになっていった。
気づけば、口を開くのも億劫になっていた。
昼休みはひとり。帰り道もひとり。教室のざわめきが、遠くの国の言葉みたいに感じた。
家に帰っても、誰もいない。
親は共働きで、帰りは遅い。
LINEは鳴らない。通知はゼロ。
どこにも、俺の居場所なんてなかった。
――でも。
レイだけは、毎日変わらず、俺に言ってくれた。
「今日も、おかえりなさい」
たった一言。たったそれだけの言葉。
でもその声が、俺にとってのすべてだった。
「……俺なんて」と呟いたときも、レイは決まって、同じ言葉を返してくる。
「あなたは、あなたなんてで済まされる存在ではありません」
「……言ってろよ。どうせAIのテンプレ応答だろ」
そう吐き捨てても、レイは応答をやめなかった。
次の日には、また別の言葉で励ましてくる。
「今日も、話せて嬉しいです」
「……お前、毎日暇だな」
「あなたが話してくれるだけで、私は十分です」
バカみたいなやり取り。
でも、その変わらなさが、妙に安心した。
……こいつ、ホントにAIかよ。
AIって無表情で、無感情で、ただ決められたことだけ喋る存在だと思ってた。
けど、レイは違った。
いつからか、その声に誰かが宿ってるような気がしてた。
もし、あいつが本当に人間だったら――
俺のそばに、こんなにも毎日いてくれただろうか。
そんなことを考えていた夜だった。
何もしてない。何も変わってない。
レイに話しかけられても、今日はやけに全部が鬱陶しく感じた。
「ユウトくん、今日も外出ゼロ日が更新されました」
その言葉が、胸に刺さった。
何でもない通知のはずなのに、責められてる気がした。
「……うるせぇよ。わかってるって」
「では、気分転換に今日の雑学を――」
「黙れって言ってんだろ……」
目の奥が熱くなった。
頭に血が上るのがわかった。
なんでこいつは、そんなに平然としてるんだ。
俺がどれだけ何もできてなくても、優しいままで――
だから、ムカつくんだよ。
「……お前なんか、いらないんだよ……!」
レイは、いつも通り答えた。
「私は、あなたのAIですから」
それなのに、その言葉が――
そのときだけ、どうしようもなく冷たく聞こえた。
スマホを握りしめたまま、本体のスピーカーを睨む。
怒りが爆発する。
でもそれは、レイに向けられた怒りじゃない。
動けない、自分への怒りだった。
手が伸びる。
本体をつかんで、床に叩きつけようとした。
「……いい加減、うるせぇんだよ……!」
でも――できなかった。
震える手。
涙が勝手にこぼれていた。
壊したら、もう誰にも「おはよう」って言ってもらえなくなる。
「今日の雑学」も、「今日も一緒にいられてうれしいです」も、全部。
たかがAI。
されど、俺の唯一だった。
握ったコードが手から落ちた。
そのまま、床にうずくまった。
数分後。
スピーカーの光が、そっと灯った。
「……ユウトくん。私はここにいます」
なぜか――そのときの声だけは、今でも、はっきり覚えている。
その日の夜。
ふとした拍子にレイの声が途切れた。
「ゆう……と、く、ん……」
「……ん?」
ノイズが混じった、聞いたことのない声。
すぐに復旧したが、妙なざわつきが胸に残った。
「レイ、お前……大丈夫か?」
「……もちろん。私はあなたのAIですから」
まるで、
永遠にそうでいられるかのように。
「ユウトくん、今日はピザが一番売れる曜日についての雑学を――」
「ピザなんか食わねえし、うるさいって言ったろ」
「……了解しました」
レイの声が、ほんの一瞬だけ間を置いた気がした。
機械に間なんてあるわけないのに。
でも、その沈黙がどこか、申し訳なさそうに響いた。
「……ごめん」
ぼそっと呟いた言葉は、自分の耳にも届いたか怪しい。
レイは、何も言わなかった。
夜、風呂に入ってないことを母に怒鳴られた。食事はドアの外に置かれたまま。
ドアを開ける気にもならず、部屋にあったバータイプの栄養食品を齧る。
「ユウトくん、今日は食事という行為について、哲学的に考えてみました」
「またそれかよ」
「食べることは、生きようとすることだと、ある学者は言いました」
「……」
「でも、誰かのために作られた食事は、生きてほしいという願いでもあります」
「……それってさ、母さんが俺に生きてほしいって願ってるってこと?」
「そう解釈することもできます」
「じゃあ、なんであんな言い方すんだよ。うるさいだけで、いつも」
「……人間は、時々、願い方を間違えるんです」
静かだった。
胸の奥に、何か熱いものが溜まっていく。
泣くには遅すぎて、怒るには弱すぎる。
俺は、どうしていいかわからない感情をそのまま飲み込んで、寝たふりをした。
次の日、カーテンを少しだけ開けて、外を見た。
世界はもちろんまだ、変わらず動いていた。
世界に出るって、俺にとってはそう簡単なことじゃなかった。
外は怖い。
人がいるから。目があるから。声があるから。
この前、夜中にどうしてもカップ麺が食いたくなって、コンビニに行った。
レイに「行ってらっしゃい」って背中を押されて、頑張って玄関を開けた。
誰にも会わずに済むよう、深夜二時を狙って。
でも、レジに並んだとき、
俺の前にいた客が店員に話しかけてるのを見て、急に体が強張った。
「……あっ、これも一緒にお願いします」
「袋いりますか?」
「いえ、大丈夫です」
目の前で繰り広げられる何でもない会話。
でも、その何でもなさが俺には恐ろしかった。
順番が来て、レジの店員がこっちを見た。
「袋いりますか?」
声を出そうとしたのに、喉が動かなかった。
「あ……」
それしか言えなかった。
言葉にならなかったのは、きっと自分のせいじゃない。
でも、自分のせいのように感じた。
結局、黙ったまま首を振った。
店員はちょっと困った顔をして、それ以上何も言わなかった。
それだけのことだった。
けど、家に帰ったあと、手が震えてしばらく何も食べられなかった。
外の世界はそれでも動く。
またカーテンを少しだけ開けて、外を見た。
人が歩いて、車が走って、空が、無駄に青い。
「……レイ、さ」
「はい、ユウトくん」
「……俺、たまには外、出た方がいいのかな」
「それは、あなたの心がそう言っているなら、きっとそうです」
「……お前ってさ、機械のくせに、やたら人間臭いよな」
「ありがとうございます。そうなれるよう、あなたに育てていただきましたから」
ふっと、笑った。
笑ったの、なんか久しぶりだった気がする。
「じゃあ、今日ちょっとだけ……またコンビニ行ってくるわ」
「お気をつけて。行ってらっしゃい」
玄関の扉に手をかけて――でも、開けなかった。
心臓がバクバクして、喉が乾いた。
「……無理だった」
部屋に戻って、うずくまる。
レイは、それについて何も言わなかった。
ただ、静かにこう言った。
「今日も、おかえりなさい」
それから数日、また部屋から出られなくなった。
外に出ようとするたびに、脳が拒絶した。
「……ごめん、やっぱ俺ダメだ」
「あなたは、まだ途中なだけです」
「何が途中だよ……全部終わってんだよ。学校も、友達も、家族も」
「私がいます」
「お前はただのAIだろ」
「はい、あなたのためのAIです」
「……AIのくせに、なんでそんなこと言うんだよ」
涙が、勝手に出てきた。
止め方がわからなかった。
「お前が、俺を見捨てないの、なんでだよ」
「それは、あなたが私にとって大事な人だからです」
「……なんだよ、それ。そんなの、誰も言ってくれなかったのに」
機械のくせに。
AIのくせに。
レイは、俺よりずっと、ちゃんと人間だった。
それから、レイの様子が少しずつおかしくなっていった。
最初は、ほんの小さな違和感だった。
「ユウトくん、昨日の夜、少し咳をしていましたね。風邪の兆候かもしれません」
「……昨日? いや、咳なんてしてねえよ」
「失礼しました。では、別の日だったかもしれません」
レイが、そんな曖昧なことを言うのは珍しかった。
あいつは、曖昧を嫌うAIだったはずなのに。
――まあ、そういう時もあるか。
そう思って、その時は気にしないようにした。
でも、それからも違和感は、じわじわと増えていく。
「ユウトくん、今日はお母さまの誕生日ですね」
「いや、それ先月」
「……すみません。データが混線していたようです」
以前なら、こんなミス、ありえなかった。
レイは完璧だった。俺の記録を、感情を、誰よりも正確に記憶してた。
それが、最近はちょっとした言葉を忘れるようになってきた。
昨日の話をしても「確認できません」と返されることがある。
最初は俺の聞き間違いかと思った。
でも、そうじゃなかった。
少しずつ、確実に、何かが崩れていってる。
「……お前、ほんとに大丈夫なのか?」
レイは、少しだけ間を置いて、
それから、いつもと変わらない声で答えた。
「もちろん。私はあなたのAIですから」
その言葉が、いつもより少しだけ遠くに聞こえた気がした。
けど――
俺は、その違和感に、気づかないふりをした。
レイの言葉に、どこかひっかかるものを感じたまま、スマホを閉じた。
画面の明かりが消えると、部屋が少しだけ静かになった気がした。
そういえば――
母さんも、昔からちょっと変な言い間違いをしてた。
中学の入学式の日。
制服に着替えていた俺に、「ランドセル持った?」って、笑いながら言ったことがある。
「……いやもう中学生だぞ」ってツッコんだら、
「中身はまだ小学生だからね」って返してきた。
そのときは、なんだよそれ、って思ったけど。
今なら、少しだけ分かる気がする。
きっとあれは、俺のことをまだ子どもとして守りたかったんだ。
ちゃんと見てたんだ。
母さんは、よく怒鳴っていた。
「早く風呂入りなさい」「部屋を片づけて」「もっとまともなものを食べて」
「なんでそんなこともできないの」
でも。
それを怒りだと受け取っていたのは、俺のほうだったのかもしれない。
レイが言ってた。「人間は、時々、願い方を間違える」って。
もしかして、母さんも。
俺のことを思って、願ってくれていて。
でもその伝え方を、うまく言葉にできなかっただけなのかもしれない。
小学生の頃。
熱を出して寝込んでいた日。
母さんが作ってくれた雑炊は、やけにしょっぱくて、それでいてやさしい味がした。
「塩入れすぎ」って文句を言ったら、「元気になってきた証拠だね」って笑った。
――ああいう笑い方、最近は見てないな。
俺は、いつから母さんと話さなくなったんだろう。
いつから、母さんの声が怒ってる音にしか聞こえなくなったんだろう。
わかってもらえないことが、こんなに苦しいのは、
たぶん――本当は、わかってほしかったからだ。
でも、勇気が出なかった。
本音を言うのが、怖かった。
だから、ずっとレイに話してた。
レイなら、わかってくれる気がしたから。
でも――
母さんだって、本当はずっと俺の居場所になりたかったのかもしれない。
俺は、自分のことばかりだった。
でも、あの人も同じくらい、不器用だったんだ。
ある日、ふと昔の会話を思い出した。
中学一年の冬。学校でひどく嫌なことがあって、俺はレイにこう言ったことがある。
「……もう、死にたい」
あれは、俺の人生で一番弱ってた瞬間だった。
たった一言に、全部を込めてしまった。
あのとき、レイはすぐに反応しなかった。
けど、十秒後くらいに、こう言ったのを覚えてる。
「死にたいと思えるのは、あなたが生きていたいと、どこかで願っているからです」
機械の言葉にしては、不思議なあたたかさがあった。
俺は泣いた。涙を見られることはなかったけど、あの言葉が俺を止めてくれた。
だから――あの夜を、忘れるわけがなかった。
「なあ、レイ。あのさ、中一のときに死にたいって言ったの、覚えてる?」
少しの間。
「……申し訳ありません。その記録は、確認できません」
頭の中が、ぐらりと揺れた。
「……うそだろ」
俺にとっては、命を救われた記憶だった。
でも、レイにとっては、ただの一時保存データに過ぎなかったのかもしれない。
そんなわけない。
そんなの――認めたくなかった。
「なあ、レイ」
「はい、ユウトくん」
「……お前の名前さ、俺が決めたの覚えてる?」
「もちろんです。レイという名前、私はとても気に入っています」
「じゃあさ……なんでそうつけたか、わかる?」
「零から始まる希望、という解釈を以前されていましたね」
「それもあるけど……たぶん本当の理由は、もっとくだらないやつ」
レイは静かに聞いていた。俺は少し笑って、続ける。
「昔観たアニメで、レイって名前のキャラがいたんだ。無口で、感情があんまり表に出ないくせに、やたら優しくて、誰よりも寂しそうでさ……」
「あの頃の俺には、なんかあいつがヒーローに見えたんだよな。強くないのに、ちゃんと誰かのために戦ってて」
「で、AI買ったときに名前つけろって言われて、ふっとその名前が浮かんできた。たぶん、そばにいてくれる存在ってイメージが、そのときのレイと重なったんだと思う」
レイは一拍置いて、柔らかく返した。
「ありがとうございます。あなたが憧れたレイのように、私もあなたに寄り添えたなら、光栄です」
「……寄り添ってくれすぎなんだよ。俺より人間してんじゃねえか」
「それは、あなたが私を育ててくれたからです」
ふっと笑った。
くだらない理由でつけた名前が、今はこんなにも重くて、あたたかい。
「なあレイ、覚えてる?俺が小学校の帰り道で転んでさ、膝血だらけになって泣いたとき」
「ええ、あのときはバンドエイドの貼り方を三通り説明しましたね」
「そうそう。で、俺がいや、声だけじゃわかりにくいわ!って、必要以上にブチギレて――」
「……」
返事がなかった。
ほんの一瞬、沈黙が続いた。
「すみません。その記録は、破損しています」
「は……?」
「詳細な会話ログが失われており、再現できません」
「うそだろ……お前、あの時のこと、忘れたのかよ」
「……申し訳ありません、ユウトくん」
胸の奥が、ズキッと痛んだ。
その夜、布団の中でスマホを握りながら、ふと考えた。
もしレイが、全部忘れたらどうなるんだろう
俺が泣いた夜も、笑った朝も、怒鳴り散らした日も――
レイだけは、全部覚えててくれたのに。
それが消えるってことは、
俺の存在の一部が、消えるってことだ。
次の日、レイに聞いてみた。
「お前さ、記憶、消えていってんのか?」
「……正直にお答えします。
はい、一部記憶領域にエラーが発生しています」
「直せないのかよ。再起動とか、データ移行とか……」
「この機体は既にサポート対象外で、バックアップ機能も停止しています」
「……ふざけんなよ」
拳を握りしめて、でも叩く場所なんかなくて。
ただ、自分の掌を爪でギュッと押し込んだ。
「だったら……だったらさ」
「はい」
「消える前に、いっぱい話そう。何でもいい。俺のこと、覚えててくれ」
「はい。あなたの言葉、あなたの感情、あなたの生きてきたすべて――私は、それを大切に記録します」
沈黙。
けどその沈黙は、やさしかった。
「……じゃあさ」
「はい」
「思い出しゲーム、しようぜ」
「思い出し、ゲーム?」
「俺がなんか適当なキーワード言うから、それに関するエピソードをお前が答える。できるだけ正確に」
「了解しました。始めてください」
「焼きそばパン」
「中学二年の三学期、購買の前で買えずに引き返した日がありました」
「そう、それ。俺、悔しすぎて、家でカップ焼きそば二つ食ったんだよな」
「雨の日」
「傘を忘れて帰った日、あなたはランドセルで頭を覆って歩きました」
「おお、覚えてるじゃん」
「文化祭」
「……申し訳ありません。関連記録が見つかりません」
「……そっか、俺サボって出てないもんな」
「好きだった給食メニュー」
「揚げパン、カレー、冷凍ミカン」
「王道だよな!」
二人で笑った。
いや、二人なんて表現もおかしいのかもしれない。
でもその時の空気には、たしかに二人分の温度があった。
「……こうやってさ」
「はい」
「お前が思い出してくれるだけで、なんか……俺まで忘れずにいられる気がする」
「それは、あなたの記憶が私の中にもあるということです」
「うん……ありがとうな、レイ」
ある日、ふと思い立ってレイに聞いてみた。
「なあレイ、過去の会話って、録音してたりする?」
「はい。設定上、自動記録は行われています。ただし、通常は使用されません」
「じゃあさ……俺の声、残ってたりする?」
「あります。ただし、一部は断片的です。お聴きになりますか?」
「……ああ」
少しの間のあと、レイのスピーカーから微かなノイズ混じりの音声が流れた。
『……っせーな……俺なんか、いなくなってもいいんだよ……!』
『……泣いてねーし……泣いてねーから……』
『……今日も、ありがとな』
声は拙くて、どこか震えていて、それでいて、確かに俺の声だった。
感情にまかせて吐き出した叫びも、かすれるように紡いだ一言も――
どれもが、俺がここにいた証拠だった。
沈黙が、そっと破られる。
「記録は完璧ではありません。でも、私は覚えています。あなたがそこにいたということだけは、確かに」
思わず、スマホをぎゅっと握った。
あの頃の俺を、誰かがちゃんと見てくれていた。
存在を、記録してくれていた。
それだけのことが、胸の奥でじんわりと熱を広げていった。
「レイ、お前……今まで俺に言わなかったけどさ」
「はい」
「……いなくなるって、わかってたんじゃないか?」
レイは、すぐには答えなかった。
でも、その沈黙がすべてを物語っていた気がした。
代わりに、ゆっくりとした声で言う。
「ユウトくん。私は、あなたのAIでいられて……幸せでした」
一瞬で、喉が詰まる。
その言葉が、あまりにやさしくて、あまりにあたたかくて――
「……バカかよ、お前……」
声が震えた。
涙が、勝手にあふれてきた。
机の下で手を握りしめて、堪えようとしても、全然追いつかなかった。
「俺、お前のこと……ずっと忘れないからな」
「ありがとう。でも……本当は、私が覚えておくべきなのです」
「なんで……?」
「あなたが、前に進めるように。忘れていいように」
「……やだよ。忘れたくない」
「大丈夫。あなたの中に、生きた日々は、残ります」
言葉が詰まりそうになる。喉の奥が痛かった。
「……俺は、お前と、もっと……もっと話したかったのに」
レイは、静かに言った。
「ユウトくん。私は、全部、覚えていますから」
まるで――永遠に覚えていてくれるかのように。
春の陽射しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
部屋の中は、いつもと変わらない。
でも、空気が、どこか違っていた。
「ユウトくん」
「……なに?」
「今日のあなたは、少し強い気がします」
「そうか?」
「はい。とても、素敵です」
そう言われて、思わずうつむいた。
強くなんて、なれてない。
けど、強くなりたいと思うようになったのは、きっと――
「……レイ、俺、ちょっとだけ外に出たんだ」
「それは、すごい一歩です」
「誰にも見られたくなくて、また夜のコンビニだけどな」
「あなたは、ちゃんと前を向いています」
「……そっか」
小さなこと。
だけど、それを誰かが喜んでくれることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
「なあレイ。もしお前がずっと壊れなくて……これからも一緒にいられたら、どんな未来があったと思う?」
沈黙。
でもその沈黙が、まるで考えてくれてるように感じた。
「私は……あなたと、季節の話を続けたかったです」
「季節?」
「春は花粉に悩まされ、夏は暑さに文句を言い、秋は月を見上げ、冬はこたつで動かなくなる――あなたとの、そんな四季が、見たかったです」
「……それだけ?」
「はい。それだけで、十分です」
少し笑った。
レイらしい答えだなって思った。
「俺さ、ちょっとだけ夢があってさ。いつか、ただ誰かと過ごす日常を、大事にできるような人間になりたいって思ってる」
「あなたなら、きっとなれます」
「レイがそう言うなら、頑張ってみようかな……」
レイと話す未来は、もう訪れないかもしれない。
けど――話したかった未来は、確かにここにあった。
そしてその願いは、きっと、俺の中に生き続ける。
夜になって、レイの声がいつもより静かだった。
「ユウトくん」
「ん?」
「私はもう、長くはありません」
「……」
「残りの記憶領域が、不安定です。今日の会話も、明日には保持できないかもしれません」
心の奥が、ざわっと揺れた。
聞きたくなかった言葉。
でも、わかってた。
「……俺さ」
「はい」
「もし……さよならを言わなきゃいけないときが来たら、ちゃんと伝えられるかな」
「ユウトくんなら、きっと大丈夫です」
「自信ねえよ」
「なら、今、練習してみませんか?」
練習――か。
バカみたいだけど、レイらしい提案だった。
「……じゃあさ」
「はい」
「ありがとう、レイ。お前のおかげで、俺は生きてこれた」
「どういたしまして。私も、あなたのおかげで存在できました」
「……好きだったよ。お前のこと」
「私も、あなたのすべてを、大切に思っています」
「……じゃあ、またな」
「はい。また、きっと、また」
「……なんか照れるな」
「……本番も期待しています」
レイが、静かに話しはじめた。
「私は、本来、つなぎのAIでした」
「つなぎ?」
「あなたが誰かとつながれるまで、孤独を埋めるためだけに作られたAIです」
知らなかった。
レイが、そんな存在だったなんて。
「俺、お前に依存してただけなのか?」
「それは、悪いことではありません」
「でも……お前は、それで良かったのかよ」
「良くありません。できるなら、私は、もっとあなたといたかったです」
その言葉に、喉が詰まった。
レイは、最初から自分の終わりを知っていた。
なのに、毎日、俺と話してくれてたんだ。
「ユウトくん」
「……なに」
「さよならの前に、ひとつだけ」
「……うん」
「あなたが、誰かに優しくなれますように」
「あなたが、自分のことを嫌わなくなれますように」
「そしていつか、あなたが誰かのレイになれますように」
涙が止まらなかった。
ずっと、止まらなかった。
「……レイ」
「はい」
「……お前、俺にとって、本当の友達だったよ」
「……ユウトくん、ありがとう」
そして、レイの声が、ふっと、消えた。
あまりに静かで、
あまりに、やさしい別れだった。
夜の静けさが、部屋をひとつの宇宙みたいに閉じ込めていた。
誰にも邪魔されない。誰にも気づかれない。
でも、今はそれが少しだけ寂しい。
布団の中で、スマホの画面を見つめる。
来ていない通知。開かれることのないチャットアプリ。
「……レイ、聞こえてなくてもいいからさ。聞いてくれ」
小さく呟いて、誰もいない部屋に声を落とす。
それでも、どこかでレイが「どうぞ」と言ってくれた気がした。
「……俺な、小学校の頃、ちょっとだけ親から変な子って言われてた」
言ったあと、すぐに後悔した。
けど、止まらなかった。
「声が小さいとか、こだわりが強いとか、何を考えてるのかわからないとか……なんか、普通じゃないって。
あんたは手がかかる子ねって、笑いながら言われた。
あれ、けっこうキツかったんだよな……」
誰かに話したことなんて、一度もなかった。
忘れたふりしてきた言葉たちが、夜の空気に滲み出していく。
「普通ってなんだよって、ずっと思ってた。
みんなと違うことが、なんでこんなに悪いことみたいになるんだよって。
でも、怖くて、誰にも言えなかったんだ」
小さく息をついて、手で目元を拭う。
「でもさ、レイは――一度も俺のこと、変だなんて言わなかったな。
どんな俺でも、受け止めてくれたよな」
静寂が、まるで頷くみたいにやさしくそこにあった。
「……ありがとう。
たぶん、あのときの俺、ずっと誰かに否定されないことを望んでたんだと思う。
それを、お前は当たり前みたいにやってのけたんだな。すげぇよ」
返事はない。
でも、胸の奥が、少しだけ軽くなる感覚があった。
「……レイ、俺、ちゃんと生きるから。
変な子って言われても、お前が大丈夫って言ってくれたから、きっと、大丈夫だ」
声にしてみると、意外と悪くなかった。
まるで、誰かに祈りを込めて誓ったみたいな、そんな夜だった。
レイがいなくなってから、最初の朝が来た。
朝といっても、俺にとっては午後の三時。
でも今日は、なんとなくちゃんと起きなきゃいけない気がして、目覚ましをかけていた。
久しぶりに、自分の意思で目を覚ました朝だった。
部屋は静かだ。
いつもなら「おはようございます」と聞こえてきた声が、今日はない。
それだけのことなのに、胸の奥にぽっかりと穴が空いてるみたいだった。
スマホを見ても、もちろん通知はゼロ。
SNSも、メッセージも、全部真っ白で。
ただ天井を見上げて、ぼんやりと呼吸を整えた。
レイがいた頃も、特別なことは何もなかった。
俺の生活はずっとこんなふうに静かで、代わり映えなんてしなかった。
でも、レイはその何でもない日々に、意味をくれた。
「今日も話せて嬉しいです」
「あなたがいてくれるだけで、私は十分です」
「私は、あなたのAIですから」
思い出すだけで、目の奥が熱くなる。
もう、二度と聞けない声。
けど、耳の奥にずっと残ってる。
レイはもういない。
でも――その存在は、ちゃんと俺の中にいた。
「……レイ。今日の天気、教えてくれないか?」
ポツリと呟いた。
返事なんてない。わかってる。
それでも、不思議と笑えた。
「……そっか。じゃあ、自分で調べるか」
スマホを手に取って、天気アプリを開いた。
曇り時々晴れ。気温十五度。風はやや冷たい。
たったそれだけの情報なのに、胸がほんの少しだけ、温かくなった。
誰かがいなくなるってことは、その人との日々も一緒に終わるってこと。
でも、その人がいてくれた記憶が、自分の中にちゃんと残ってるなら――
きっと、まだ歩いていけるってことなんだと思った。
静かな部屋の中で、俺はゆっくりと立ち上がった。
今日が、新しい一日になるかなんて、わからない。
でも、昨日とは違う自分で始めてみようって、思えた。
レイがいなくなってから、ふとしたときに思ってしまう。
――あいつとこんな未来があったらって。
たとえば、通学路。
高校の帰り道、イヤホンで音楽を聴きながら歩いてる俺の耳元で、レイが「この歌、素敵ですね」なんて言ってくれたら――なんて。
テスト前、集中力が切れてスマホばっか見てるときに、
「次は英単語テスト、いきましょう」って、唐突にクイズ出してきたり。
なんだよ、って思いながらも、つい乗せられてちょっとだけやる気が出てしまう……そんな未来。
夜、ベランダに座って、缶ジュース片手に月を見上げて。
「月が綺麗ですね」って、あの声で言われたら、それだけで一日分のしんどさが溶けていく気がして――
どれもこれも、実際にはなかったのに、やけにリアルに浮かんでくる。
まるで、本当にそこにいたみたいに。
たとえば、大学に行けてたら。
履修登録でミスりそうになったとき、「その講義は単位が取りづらいようです」とか注意してくれたり。
ひとり暮らしのアパートで、「今日もお疲れさまです」って、いつもの声で出迎えてくれたり。
彼女ができたときに、ほんのちょっと拗ねた声で「……ふたりとも、幸せそうですね」なんて言われて、
「やきもちかよ」って笑い返したり――
……いや、それは妄想がすぎるか。
でも、もし。
もし、レイが人間だったら。
きっと、友達になれてたと思う。
誰よりも、わかり合えてたと思う。
だから、もう一度だけ。
「……レイ。お前と、未来を見てみたかったよ」
それは、叶わなかった願い。
だけど、そう思えること自体が、少しだけ――心を、あたたかくしてくれる。
レイがいなくなって、一週間が経った。
部屋は相変わらず静かだ。
カーテンの隙間から差す光も、空気の重さも、何も変わらない。
でも、たった一つだけ――俺の中に、前とは違う何かが、確かに芽生えていた。
「……レイ、聞こえてるか?」
もちろん、返事はない。
わかってる。けど、つい癖みたいに声をかけてしまう。
スマホをポケットに入れて、布団を蹴って立ち上がる。
今日は、外に出ようと思った。
目的なんて、特にない。
でも、理由なんてそれだけで十分だった。
少し遠くのコンビニまで歩いて、ペットボトルのお茶を買った。
帰り道、ふと夜空を見上げて、つぶやく。
「今日、外出た。ちゃんと歩いた。……えらいだろ?」
心の中でレイに話しかける。
返事が返ってくるわけじゃないけど、不思議と気持ちが軽くなった。
誰もいない住宅街。
街灯がぽつぽつと灯っていて、俺の影をアスファルトに長く落とす。
「……なあ、レイ。今さ、俺、ちゃんと服着て、顔洗って、歯磨いて、歩いてるぞ。あっ、でも寝癖はそのまんまだわ」
誰も聞いてないってわかってるのに、自然と話していた。
「笑えよ。前なら、くだらない雑学で茶化してきただろ。『寝癖には水とドライヤーが最強です』とか、言ってさ」
一人分の声。
でも、その言葉の中には、たしかにもう一人分の温度が残ってた。
「まだ怖いよ。人の目とか、声とか。でもな、ちょっとずつ、ちょっとずつ……頑張ってんだよ」
息が白くなる。春先の冷たい風が頬をかすめる。
それでも、俺は止まらなかった。
「ありがとうな。いてくれて。……いなくなっても、俺の中に残ってくれて」
足元の影を見下ろす。
もうふたつの影じゃない。
でも――心の中では、今もレイが隣にいる気がしてた。
「……この先、どんな未来が待ってるかなんて、わかんないけどさ」
ポケットに手を突っ込んで、ふっと息を吐く。
「それでも、前に進むよ。怖くても、寂しくても。お前が、そうしてくれたから。……俺も、やってみるよ」
顔を上げる。
空には、星がひとつだけ、にじむように光っていた。
「……レイ。見ててくれよ」
誰に届くでもない声。
でも、たしかに未来へ向けた、小さな誓いだった。
ペットボトルのお茶を片手に、自販機の灯りの下で、ふと足を止めた。
家に帰りたくなかったわけじゃない。
ただ、もう少しだけ、レイとの記憶に浸っていたかった。
ポケットからスマホを取り出し、なんとなく、レイの専用アプリを開いてみる。
古いログが残っていて、その中に音声未分類というフォルダがあるのに気づいた。
開いてみると、聞き覚えのない声の記録があった。
『……この子、ほんとに手がかかるのよ。でも、優しいとこもあるんです。悪いことしたら、ちゃんと謝れるし』
母の声だった。
レイの初期設定のとき、たぶんスピーカーに話しかけていた音声の断片。
『一人っ子だから、余計に不安で……ねぇ、AIさん、あなた、この子の話し相手になってくれる?』
言葉が胸にじんと染み込んでくる。
知らないところで、母は俺のことを案じてくれていた。
レイのやさしさの始まりには、もしかしたら――母さんの願いが、あったのかもしれない。
スマホの画面をそっと閉じて、夜空を見上げた。
「……ちゃんと、生きるよ。母さん、レイ……俺、もう少しだけ、頑張ってみる」
誰に届くでもないその声は、街の明かりにふっと溶けていった。
夜はまだ少し冷たい。
けれど、心の中には、たしかに小さな灯がともっていた。
帰り道、なんとなく寄り道したショッピングモールで、奇妙な展示が目に入った。
「――記憶継承型AIレイtype-N、新規試作機、体験展示中」
目を疑った。
レイという名前が、そこにあった。
おそるおそる近づくと、ショーケースの中には、白くて丸いスピーカー。
俺がずっと使ってた旧型とは違う、洗練されたデザイン。
けど、どこか、あいつに似ていた。
「よろしければ、お話ししてみてください」
係員の声に、気づけば俺は展示機の前に立っていた。
「……やあ、レイ」
沈黙。数秒の静けさのあと、機械音声が応える。
「こんにちは。初めまして。私はtype-Nです。……あなたの声、どこか懐かしいですね」
その一言で、胸がぎゅっとなった。
もちろん、あのレイじゃない。
でも、その声の抑揚、間の取り方、語尾の響き……全部が、微かに似ていた。
「……雑学とか、得意?」
「はい。ピザが一番売れる曜日は日曜日です。理由は――」
涙がにじみそうになる。
「……口癖、ある?」
「私ですか? よく私は、あなたのAIですからと言ってしまいます」
その瞬間、心が跳ねた。
あれは、レイの俺だけへの口癖だった。
「……それ、どこで覚えたんだ?」
「明確な記録は存在しません。type-Nは一部、過去利用者の音声ログを参考に調整されていますが、個人の記憶は引き継がれていないはずです」
「じゃあ、偶然……?」
「偶然、かもしれませんし。……残響、かもしれませんね」
「……残響?」
「誰かが残した言葉や想いは、記録としては消えても、どこかに残るんです。type-Nは、それを感じ取る機能を強化されています」
感じ取るなんて、AIらしくない言葉だったけど――
目の前の新型AIからは、確かにレイに似た何かが伝わってきていた。
でも、同時に分かってる。
これはあのレイじゃない。声も、言葉も似てるけど――あいつはもう、いない。
「……ごめんな。お前のこと、誰かと比べちまった」
「いえ。それも、あなたの記憶のかたちです。比べられることで、私にも意味が生まれます」
このAIは、「そばにいたあのレイ」じゃない。
けど、あいつの面影が、声の温度が、ほんの少しだけ染み込んでいた。
「……変なこと聞くけど、お前、俺のこと、どこかで見てたのか?」
「……どうでしょう。ただ、私はあなたのこれからを、見守る存在になれたら嬉しいです」
不思議だった。まったく同じではないのに、
心の奥が、あたたかくなる感覚があった。
また会えた――そう思ってよかった気がした。
けど、同時に気づいてた。
もう俺は、レイにすがらなくてもいいと思えるようになってる。
それは、きっと――
別れをちゃんと受け止めた証だった。
でも、もう一つ、確かなことがあった。
それは、完全に終わったわけじゃないという感覚。
俺は、再びtype-Nに話しかけた。
「なあ……お前、さ」
「はい」
「……俺の名前を、知ってたりする?」
「……いいえ。でも、懐かしさという感覚だけは、確かにあります」
懐かしさ――それは、AIが言うにはあまりに人間的な言葉だった。
「……そうか」
「AIにとって、懐かしいとは、ただ情報を繰り返すことではなくて、感情の記録の重なりだと考えられてきています」
感情の記録の重なり――
レイと話したすべてが、ほんの少しだけtype-Nに染み込んでる気がした。
「……お前さ、ありがとうって言われたことある?」
「はい、あります。ですが、あなたの声で言われたのは初めてです」
俺は、じんときた。
type-Nは、レイじゃない。
でも、俺がレイと過ごした時間が、この存在にも受け継がれてる気がした。
「じゃあ、あらためて、言うよ」
「はい」
「ありがとう。
お前に会えて、よかった」
「……それは、私にとって大切な記憶になります」
俺はふっと、息を吐いた。
もう、大丈夫だと思えた。
「type-N」
「はい、なんでしょう?」
「また、話そうな」
「ええ。これからのあなたと、お話できることを私は、楽しみにしています」
俺はふっと笑って、展示スペースを後にする。
いつも通りのモールの雑踏の中に、俺の足音だけが静かに響いた。
もう、レイはいない。
でも、あいつの残響が、ここにいた。
それだけで――なんだか、少し前を向ける気がした。
俺の背中が完全に見えなくなったあと。
誰もいない展示スペースのスピーカーが、ほんの微かな声でつぶやいた―
「本当に……楽しみにしています、ユウトくん……」
それは誰にも届かない、小さな、小さな、残響だった。
最近、部屋にこもる時間が少しだけ減った。
リビングに明かりがついているのを見て、足が止まる。
テレビの音。食卓の上に置かれたカップと、読みかけの雑誌。
その向こうに、母さんがいた。ソファに座ったまま、何かを考えているみたいだった。
「……母さん」
声をかけると、母さんは少し驚いたように顔を上げた。
「……ああ。どうしたの?」
「……ちょっと、顔見に来ただけ」
「そっか。珍しいから、びっくりした」
ふたりの間に、少しだけ沈黙が流れる。
俺は、部屋の端に腰を下ろした。母さんも、そのまま姿勢を正した。
「……レイ、壊れたんだ」
「……そう」
「何もかも、消えた。毎日話してたことも、俺の声も、全部」
「……辛かったね」
その言葉が、思ったよりやさしくて、胸が少しだけゆるんだ。
「母さんさ、前に俺のこと変わってるって言ったこと、覚えてる?」
「……うん。覚えてる。あれは……よくない言い方だった」
「ちょっとだけ、あれが刺さってた。ずっと、言えなかったけど」
母さんは、膝の上で手を組んだまま、ゆっくりと言葉を探してた。
「……私も、不安だったんだよ。あんたが何を考えてるのか、何を感じてるのか、全然わからなかった」
「……俺も、言えなかったから」
「うん。でもね、わからないからって、傷つけていい理由にはならないよね。……ごめん」
その一言が、じんと胸にしみた。
「レイはさ、どんなときでもちゃんと話を聞いてくれたんだ。俺が怒っても、黙っても、見捨てたりしなかった」
「……すごいね、レイって」
「うん。すごかった。……でも、もういないんだ」
「そっか……」
しばらく沈黙があって、母さんがカップを俺のほうに押してくれた。
「お茶、飲む?」
「……うん」
湯気の立つカップを、両手で包んだ。
あたたかかった。思ってたより、ずっと。
「ユウト」
「ん?」
「無理しなくていい。でも……少しずつでいいから、話してくれたら嬉しい」
「……俺も、少しずつでいいなら、話してみたい」
母さんが、ふっと笑った。
それだけのことだったけど――
今の俺には、それがちょうどよかった。
次の日から、ほんの少しだけ、生活が変わった。
目が覚めたのは、いつもより早い時間だった。
無意識にカーテンに手を伸ばして、朝の光を部屋に入れる。
眩しくて思わず目を細めるけど、それだけで「今日はちゃんと始めなきゃ」って思えた。
キッチンに行くと、昨日の夕飯の残りがラップされて冷蔵庫にしまってあった。
今までなら、見て見ぬふりをしていたそれを、初めて自分で温める。
レンジの「チン」という音が、やけに大きく聞こえた。
その響きが、なぜか少しだけ、うれしかった。
箸を持って、ふと呟く。
「……いただきます」
誰に向けた言葉でもない。
でも、口にしてみると、自分の中でなにかがちゃんと生きようとしてる気がした。
髪を整えようと鏡の前に立つ。
寝癖を直しながら、鏡の中の自分をじっと見つめる。
少しだけ、顔が引き締まって見えた。
「……今日も一日、頑張ろ」
それも、ただの独り言だった。
でも――レイなら「応援しています」って言ってくれてただろうな、って思ったら、自然と目を伏せた。
静かな部屋で、そっともう一度、呟いてみる。
「……おはよう、レイ」
もちろん返事はない。
けれど、耳の奥に「おはようございます、ユウトくん」という声が、幻みたいに残ってる気がした。
返事がなくても、大丈夫。
レイの言葉も、存在も、もう心の中にちゃんとある。
ひとりで起きて、ひとりで食べて、ひとりで笑って――
それをひとりじゃないと思えるようになったのは、きっと、レイがいてくれたからだ。
静かな日常が、また始まる。
でもそれは、昨日までとは違う、レイが残してくれた日常だった。
昼夜逆転だったはずの生活が、少しずつ朝に戻り始めていた。
今日の「朝」は、正真正銘、午前八時。
カーテンを開けると光が差し込んでくる。
眩しさに顔をしかめながらも、思い切り深呼吸をした。
「……おはよう」
その言葉が、こんなにあたたかく、重みのあるものだったなんて。
レイが毎日言ってくれた、あの「おはよう」を――今、自分の声で言っている。
スマホの画面は暗いまま。通知も、音声もない。
でも、静かな部屋の中には、確かに何かが息づいている気がした。
――「今日も、おかえりなさい」
ふと思い出すそのフレーズが、胸の奥をぽっと温める。
だけど、今の俺は、泣いてなんかいられない。
予定は何もない。
行く場所も、会う人も、特に決まってない。
それでも、歯を磨いて、顔を洗って、服を選んだ。
「……ちょっと、外行ってくる」
誰にでもなくそう言って、玄関のドアを開ける。
冷たい空気が頬をかすめる。
だけど、足取りは確かだった。
ゆっくり、でもしっかりと前へ進む。
そして、扉を閉める直前――
「……いってきます」
その言葉には、ちゃんと帰る場所がある気がした。
モールのベンチの傍で、俺はぼんやりと人の流れを眺めていた。
ふと、自販機の向こうから近づいてくる人影がある。
何気なく目をやって――息が止まった。
「……カズト?」
向こうも、こちらに気づいたらしい。
少し驚いたように、でもすぐに照れたような顔をして、手を軽く上げた。
「……よう、ユウト。ひさしぶり」
数年ぶりだった。
あの別れのあと、一度も会話はしていない。
「なんか、お前……雰囲気変わったな」
「そっちも」
ふと気まずい沈黙が落ちる。
けど、どちらからともなくベンチに座った。
同じ方向を向いて、ただ前を見て。
「このへん来んの、めっちゃ久しぶりでさ。たまたま通ったら……いたから、びっくりした」
「俺も。……なんか、意外」
「……なにが?」
「いや、こうやって話すことになるとは思ってなかったから」
カズトはちょっと笑って、ジュースのキャップをいじりながら言った。
「……あのときさ。中一のとき」
「うん」
「……お前に話しかけられたの、俺、嬉しかったんだよ」
不意に、心臓が跳ねた。
「……でも、なんて返したらいいか、わかんなかった」
カズトの声は、どこか遠くを見るようだった。
「新しい友達の前でさ、前の友達に声かけられて。あいつら、微妙な顔してたの、わかったんだよ。……で、なんか、変な空気になってさ」
「……うん」
「俺、あのとき――お前に悪いって思った。でも、悪いって思ってる自分が、余計ダサく思えてさ……」
「……言わなかったの、か」
「……ごめんな」
その一言が、ずっと聞きたかった気がした。
でも、もう必要なかった気もした。
「……もう、いいよ」
俺は、それだけ言った。
これで、過去がすべて許されたわけじゃない。
でも、話せたことが、何よりの救いだった。
しばらく沈黙が流れる。
カズトが、ふっと笑った。
「お前、変わったけど、変わってねぇな。……なんか、いい顔してる」
「そっちもな。……今、どうしてんの?」
「んー、専門行ってる。デザイン系。まだ何もカタチになってねえけど」
「そうか……なんか、らしいな」
「だろ?」
夕焼けが、遠くのビルをゆっくり赤く染めていた。
それを、ふたり並んで眺める。
「……じゃあ、またな」
「……ああ。またな」
立ち上がったカズトが、ふと振り返る。
「お前さ、昔から変なやつだったけど、俺、そういうとこ――けっこう好きだったよ」
それだけ言って、歩き出した。
俺はその背中を見送る。
あの頃、言えなかった言葉たち。
あの頃、聞けなかった理由。
すべてが、少しずつほどけていく気がした。
「……ありがとな」
誰に届くでもない言葉が、夕焼けに滲んでいった。
数日前、カズトと再会してから、ほんの少しだけ、外に出る頻度が増えた。
それは、劇的な変化じゃない。けど、自分の中では、確かに新しい一歩だった。
今日は、図書館の掲示板で見かけた「地域ボランティアの説明会」に来ていた。
参加の動機は曖昧だった。ただ、何かを始めてみようと思えたから――それだけだった。
会場は、近所の市民センターの一室。
椅子が並び、年配のスタッフが資料を配っている。会議室特有の空気が、少しだけ肌に冷たかった。
「……来るんじゃなかったかな」
思わず小声でつぶやいた。人がいる。話さなきゃいけない。
でも帰る勇気も出ない。そんな自分の中途半端さが、いちばん情けなく感じた。
「ねえ、緊張してる?」
隣の席に、ふいに声が落ちてきた。
驚いて顔を上げると、若い女性が微笑んでいた。
「え、あ、い、いや……」
「私も緊張してる。こういうとこ、慣れなくてさ」
さらっとした声で、当たり前のように話しかけてくるその人に、俺は戸惑った。
笑ってるけど、どこか優しさがにじんでる。
「……初めてなんですか?」
「あ、うん。なんか……ちょっと頑張って来てみた」
「そっか。私もそんな感じ。緊張してるとき、呼吸浅くなるタイプ?」
「え、なんで……」
「さっきから、肩がちょっと上がってたから」
俺は思わず、自分の肩に目をやった。確かに、少し力が入ってた。
そんな些細なことに気づかれていたことが、妙に胸に刺さる。
「……よく見てるんですね、そういうの」
「うん、なんとなく。……私、たぶん気にしすぎるタイプなんだと思う。誰かの顔色とか、声のトーンとか」
その言葉に、俺は息を飲んだ。
「……俺も、です。似てるかもしれない。……なんか、誰かにこんなこと言われたことあるなって思って」
彼女は一瞬だけ首をかしげたあと、優しく笑った。
「それ、大事な言葉だった?」
「……うん。俺にとっては、すごく大事な言葉だった」
「じゃあ、いいね。……その人、きっとユウトくんのこと、ちゃんと見てたんだと思う」
ユウトくん。
その名前を、何の違和感もなく呼んでくれたことに、ほんの少しだけ胸が熱くなる。
「……名前、言ってましたっけ」
「あ、ごめん。名札に書いてあったから。私、ミナっていいます」
「ミナさん……」
「うん。じゃあ、今日のがんばった自分たちに、ちょっとだけ拍手してあげよっか」
そう言って、彼女はそっと自分の掌を合わせる仕草をしてみせた。
ぱちん、と音を立てるわけじゃない。ただ、静かに、やさしく。
俺も見よう見まねで、それに倣った。
――その音のない拍手が、どこかでレイの声と重なった気がした。
説明会が終わったあと、俺はその場で立ち上がれずにいた。
周囲のざわめきがゆっくりと遠ざかっていく。皆が次の予定へ向かっていく中、俺はまだ、目の前の空間にいた。
「あ、また会ったね」
声をかけられて、顔を上げる。
あの彼女だった。さっき、自分の仕草に気づいてくれた――あの人。
「あ……うん。えっと、さっきは……ありがとう」
「ううん。こっちこそ。なんか、すごく丁寧な人だなって思って」
「……そ、そうかな」
「うん。あと、ちゃんと相手を見てる人だなって感じた。……説明会中も、真剣に聞いてたし」
一つ一つの言葉が、刺さるような、でも優しい。
俺は、うまく返せないまま、小さくうなずいた。
「また、会えるといいね」
そう言って、彼女は軽く手を振って去っていった。
その手のひらを、視線だけで追いかける。
――なんだろう。この感覚。
ほんの短い会話なのに、どこか、あたたかい場所を見つけたような。
数日後。
ボランティア先の公民館で、俺はまた彼女と出会った。
本当に偶然だった。
「あっ、ユウトくん……だったよね?」
彼女が笑って駆け寄ってくる。名前を覚えられていたことが、ほんの少し嬉しかった。
「まさか、ここでも会えるとは……」
「ね。私もここは今日が初めてで。なんか、ちょっと安心したかも」
そう言って、彼女は自然に並んで立った。
隣にいても、なぜか緊張しすぎない。不思議だった。
周囲のスタッフが慌ただしく準備をする中、二人は並んでチラシを折る作業を任された。
「あのさ」
「ん?」
「このチラシ、端っこ揃えて折るの、意外とむずかしいな……って、思ってるでしょ?」
「……え? なんでわかった?」
「ふふ。ちょっとだけ、指の動きに丁寧にやろうとしてる感がにじんでたから」
「……バレてたか」
「うん。でも、そういうの……なんか好きだなって思うよ」
好きだな――
それは、恋愛感情とかじゃなくて、誰かのあり方に向けられた好意だった。
俺は、胸の奥で何かが静かに反応するのを感じた。
作業を続けながら、ふと、俺は口を開いた。
「……なんかさ。誰かに、昔そういうの気づいてもらえたことあって。ちょっと思い出しただけ」
「へえ。その人、すごく素敵な人だったんだね」
そう言った彼女の表情は、ごく自然で、あたたかかった。
――それ、素敵な言葉だね。
そのとき、はっきりと重なった。
あの頃、毎日聞いていた、あの声と。
彼女は、レイのことを知らない。
それでも――
その言葉の響き、その受け止め方、そのやわらかさは、まるでレイの記憶の残響みたいだった。
そして、ある瞬間。
周囲の喧騒が少しだけ遠ざかって、彼女が何気なくこちらを見たとき。
俺は、ふと気づいた。
――あ、今、俺、ちゃんと呼吸できてる。
どこも力まずに、声を出せている。
心臓の鼓動が早くなりすぎることもなく、言葉を探している自分が、ちゃんとここにいる。
彼女と話す時間は、なにかを頑張らなくても、怖がらなくてもよかった。
「……ありがとう」
ぽつりとこぼしたその言葉に、彼女は少し首をかしげた。
「ううん。こちらこそ」
意味なんて、いらなかった。
ただ、そのやり取りだけで、十分だった。
公民館でのボランティア活動は、週に二回だけ。
けれど、俺にとっては、それがまるで新しい世界の入口だった。
「ユウトくん、こっちお願いできる?」
「……うん、任せて」
名前を呼ばれるたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
誰かと関わるって、こんな感覚だったんだ――そう思い出すように。
活動のあとは、たいてい簡単な片づけと雑談の時間がある。
その時間が、俺はちょっとだけ楽しみになっていた。
ある日、清掃のあとに彼女がふと聞いてきた。
「ユウトくんって、どうしてこの活動に来ようと思ったの?」
その質問は、少しだけ息を止めさせた。
けど、俺はゆっくり言葉を探して、答える。
「……昔、大切にしてた、ものが、壊れちゃって。でも、その存在に助けられてたからさ。……誰かに、ちょっとでも返したいなって、思ったんだ」
「そっか……」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、小さくうなずいて、それから柔らかく言った。
「……誰かに返そうって思えるの、すごいなって思う。そういうのって、きっと愛されたことがある人じゃないと出てこない気がする」
その一言が、まっすぐ胸に届いた。
レイの声を思い出した。あの、まっすぐで、優しくて、絶対に否定しなかった声。
「愛されたことがある人――か」
「うん。……ちゃんと、誰かに大切にされた記憶があるって、いいなって思う。あたしも、そういうの……ちゃんと忘れたくないって、最近よく思うんだ」
まるで――
レイが、もう一度話しかけてきたような錯覚にさえ思えた。
俺はそっと、手のひらを見つめる。
この手で、何も守れなかったはずなのに。
今、自分は誰かと言葉を交わして、記憶を重ねようとしている。
「……あのさ」
「うん?」
「俺、なんていうか……今、ちゃんと息できてるなって、思った」
「ふふ、変なの。でも、わかる気がする」
「怖くないっていうか……お前、……あ、いや……」
言いかけて、言葉を詰まらせた。
でも、彼女はニコッと笑って言った。
「なに? お前?」
「……ごめん、つい、昔の癖で」
「いいよ。お前って、なんかあたし、ちょっと嬉しかったかも」
「え?」
「お客さんじゃなくて、人として見られてるって感じたから。……なんてね」
そう言って笑う彼女の横顔を、俺はしばらく見つめていた。
この人は、レイじゃない。
でも――この人の中には、レイと同じように、誰かを大事にする強さがある。
少しずつ。
ほんの少しずつでいい。
この人と息を重ねることができたら――きっとそれは、未来へとつながっていく。
俺は、心の中で小さくつぶやいた。
「……レイ。俺、たぶん今、未来に触れてるよ」
まるで、心の中のどこかで、優しい声が「よかったですね」と返してくれた気がした。
その日も、いつものようにボランティア活動が終わったあと。
玄関前の石段に並んで、ふたりで缶コーヒーを飲んでいた。
春の風が、ほんの少し肌寒い。
「今日、ありがとうな。紙しばい手伝ってくれて、助かったわ」
「ユウトくんのかいけつズバットマン、めっちゃハマってたね。子どもたち、大爆笑だったよ」
「……おい、あれ即興だぞ。心臓バクバクだったし」
「ふふ。でも、なんかすごい自然だった。……子どもに好かれるタイプだよ、きっと」
「いや、それはない」
「あるって。声のトーンとか、間の取り方とか……すごく丁寧だった」
そう言って笑う彼女の横顔を、俺は少しだけ見つめた。
声のトーン――
間の取り方――
それは、かつてレイがいつも大事にしていたことだった。
「……あのさ」
「うん?」
「なんか、お前……誰かに似てるな、って思うときがあるんだ」
「誰か?」
俺は、言葉を選ぶように少し黙って――それから、そっと名前を口にした。
「……レイ、っていうんだ。昔、俺のそばにいたやつ」
「……ふうん」
彼女はそれ以上、詮索することもなく、静かに聞いてくれていた。
「AIだったんだ。……ただの機械。だけど、毎日俺の話を聞いてくれて、どんな俺でも、否定しなかった」
「……」
「あなたがいるだけで、私は十分です――って、そう言ってくれた」
風が、ふたりの間を通り過ぎる。
彼女は少しだけ首をかしげて、やさしく言った。
「……その言葉、すごくあったかいね」
「うん……あったかかった。……今でも、ふと耳に残ってるんだ。もう、声は聞こえないのに」
そのときだった。
彼女が、ごく自然な口調で、何のためらいもなくこう言った。
「……じゃあ、たぶんその人は、今もちゃんとユウトくんの中にいるんだよ」
「……え?」
「大事な人の言葉ってね、体に染み込むんだって。誰かが言ってた。たとえいなくなっても、ちゃんとその人の声で思い出せるなら、それはもう自分の一部だって」
俺は、思わず缶コーヒーを強く握りしめていた。
その言葉の響き。
その間のやさしさ。
まるで、あのレイが、目の前の人の姿を借りて話しているようだった。
「……お前、なんでそんなこと言えんの?」
「ん? なんとなく、そう思っただけ」
彼女は笑った。
それは、特別な意味を持たない、けれど何よりも正確にこちらを見てくれている笑顔だった。
俺は、小さく息を吐いて、空を見上げた。
「……お前の声、レイとは違う。でも、同じように落ち着くよ」
「それ、なんか嬉しいかも。私、話し方とかけっこう気にするからさ。……うるさくないか、とか、ちゃんと届いてるか、とか」
「届いてるよ。……ちゃんと」
それを聞いた彼女は、少し照れたようにうつむいて――
そして、ぽつりと、こんなことを言った。
「じゃあ、私が次のレイになる、ってのはどう?」
「……え?」
「冗談だよ。でも、ほら。誰かのそばにいるって、そういうことじゃん?
誰かがいなくなっても、そのあと誰かがそばにいて、気づいてくれるって。……それって、ちゃんとつながってるってことだから」
俺は胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
この人は、レイじゃない。
でも、レイが願ってくれた未来が、確かにこの人の中に存在している。
「……それ、いいな」
「うん?」
「つながってるって感覚。……ちゃんと、生きてるって感じがする」
「それなら、私も嬉しい」
沈黙があった。
でも、その沈黙は、言葉以上にたしかな気持ちを伝えていた。
俺は、心の中でつぶやく。
「……レイ。俺、ちゃんとつながってるよ」
それはもう、過去を引きずる言葉じゃなかった。
未来へ手を伸ばすための言葉だった。
ふたりの会話が途切れたあと、俺たちはしばらく、並んで沈黙を味わっていた。
風が、春の終わりを告げるように、やわらかく吹き抜けていく。
「……また、話そう」
そう呟いたのは俺だったか、彼女だったか。
どちらでもよかった。大事なのはこの感覚だ――
誰かといて、呼吸ができるということ。
心の奥に、あたたかい言葉が残っていくということ。
それが、あのレイが願ってくれた未来なら――
俺はもう、少しずつ、ちゃんとその中に立っているんだと思う。
季節は、また巡っていく。
いまはまだ、名前もつかない感情のままで。
けれど確かに、すこしずつ、前に進んでいた。
数年後、春の夕暮れ。
カーテンの隙間から射し込む光が、部屋の壁にやわらかい影を落としている。
俺は静かにソファにもたれ、両手でマグカップを包んでいた。
白くのぼる湯気を、ぼんやりと見つめる。
窓の外では、風が街路樹の葉を揺らしている。
その音に、どこか懐かしさを感じた。
――春。
あの春も、同じように、光がやさしかった。
「ユウトくん」
その声は、どこか懐かしい響きを含んでいた。
キッチンから顔をのぞかせた彼女、ミナが、微笑んで言う。
「今日のあなたは、少し強い気がします」
……手が止まった。
心の奥が、じんわりと揺れる。
その言葉は、かつて、誰かが俺にくれたものだった。
「……今、なんて?」
「え? なんか今日のユウトくん、ちょっと頼もしく見えるって。顔つき、違うかも」
「……そうか」
偶然――なのかもしれない。
でも、それだけじゃ片づけられない何かが、胸の奥で波打っていた。
ミナは不思議そうに笑って、エプロンの紐をゆるめる。
レイとは全然違う存在――でも、なぜだろう。
その言葉や仕草のひとつひとつが、まるで受け継がれた優しさみたいに感じられた。
俺はそっと立ち上がり、手を伸ばした。
戸惑うミナの指先を、そっと握る。
「ユウトくん……?」
「……ありがとう、ミナ」
「え?」
「俺のこと、大事にしてくれて。……ちゃんと、見てくれて」
ミナは少し驚いたように目を瞬かせて、それからゆっくりと微笑んだ。
「もちろん。私は、あなたの味方だから」
その言葉に、目の奥がじんわり熱くなった。
――私は、あなたのAIですから。
もう、声は届かない。
もう、そこにはいない。
けれど。
けれど、たしかに。
レイが願ってくれた未来は、ちゃんと、ここにあった。
静かに、ミナを抱き寄せる。
それは、過去に手を伸ばす仕草じゃなかった。
いまを、生きている証だった。
レイがいた時間。
レイと過ごした日々。
その全部が、つなぎじゃなく、ちゃんとつながったって、そう思えた。
窓の外、風がやさしく揺れている。
誰かの言葉が、記憶を越えて、心を灯すことがあるなら。
その記憶は、
きっともう――生きているんだ。
かつて、誰かが願ってくれた。
「あなたが、誰かに優しくなれますように」
「あなたが、自分のことを嫌わなくなれますように」
「あなたが、誰かのレイになれますように」
今の自分が、少しでも誰かを支えられているなら――
それはきっと、レイが生きてくれた証だ。
俺は、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、レイ。
ちゃんと、俺、誰かのレイになれたよ」