街の灯
地上に出てから、森を抜け、丘を越えた先に、小さな街が見えてきた。
白い石造りの塀に囲まれたその街は、夕暮れの光に照らされて、まるで金色に輝く宝石のように見えた。
「……ようやく、着いたな」
俺が呟くと、リュシアも静かに頷いた。
「こんなにも、“人の暮らし”を懐かしく思えるなんて、思わなかった」
彼女の声は、どこか遠い記憶に手を伸ばすような響きだった。
けれど――俺は足を止めた。
このままの姿では、街に入れない。俺は魔獣の力をその身に宿し、その影響で、人の姿を大きく逸脱していたのだ。
牙、爪、尾、黒く硬質化した皮膚――いずれも、人間の眼に触れれば、ただでは済まないだろう。
「……リュシア。少し待ってくれ」
俺は胸の核に手を当て、ゆっくりと目を閉じた。
「“力よ、一時、眠れ――”」
胸の奥の魔核が、静かに脈動する。すると、全身にまとわりついていた黒い気が、すうっと引いていくように消えていった。
牙が引き、尾が消え、爪と皮膚が人間の姿に戻っていく。
「……戻った、か?」
だが、服は見るも無惨だった。服は裂け、裾は焦げ、袖口はぼろぼろだ。
俺が眉をしかめると、リュシアが苦笑まじりに言った。
「しょうがないわね。ちょっと待って。――《幻衣》」
リュシアが小さく詠唱すると、淡い光が俺の身体を包んだ。
すると、裂けた衣服が光の糸に縫い合わされ、簡易的ではあるが、整った外観に変わっていく。
リュシア自身も、神官服の上に濃紺のマントを羽織っていた。野ざらしのままでは目立ちすぎると、自分の姿にも幻装をかけていたのだ。
「……これで少しは、まともに見えるだろ」
「うん。少なくとも門前払いにはならないわね」
俺たちは互いに頷き、街の門へと歩を進めた。
門の前では、鋭い目をした番兵が二人、槍を構えて立っていた。
「そこのお二人、身分証を確認させていただきます」
無表情で問いかけてきた番兵に、俺は懐から旅券を差し出す。
「……旅の者だ。名はアサヒ。同行者は、リュシア」
それはリュシアの魔法によって作り変えられたものだった。
番兵は眉をひそめ、しばらく文面と顔を見比べたあと、頷いた。
「問題ありません。滞在中は騒動を起こさぬように」
それはリュシアの古い神殿時代のものだったが、今も簡易的な身分証としての効力はあるみだ。
「ああ、心得てる」
俺たちは身を引き締めながらも、心の中でほっとしていた。
街に一歩足を踏み入れた瞬間、濃厚な焼き肉の匂いが鼻をくすぐる。
通りを行き交う人々の笑い声、酒場の軒先で語らう男たちの声、母親に手を引かれた子どもがはしゃぐ声――
ここには、確かに“暮らし”があった。俺たちはその温もりに、思わず立ち尽くす。
そして、一軒の宿の前で足を止めた。
「月影亭」と書かれた木の看板が、夕日を浴びてきらめいていた。
「ここにしよう」
俺がそう言うと、リュシアは軽く頷き、扉を押して中へと入った。
中は、予想以上に暖かかった。木の梁と床が整然と組まれ、清潔な空気が流れている。
カウンターの奥から現れた宿主の女性が、笑顔で言う。
「旅のお客さま? 一泊お一人で銀貨一枚。今夜は焼き魚と野菜の煮込みがつきますよ」
俺とリュシアは目を見合わせ、揃って「お願いします」と答えた。
通された部屋は二階の角部屋。
窓から差し込む街灯の明かりが、部屋の静けさをほんのりと照らしていた。
荷を下ろしたあと、俺たちは一階の食堂へと向かう。
そして出てきた夕食は――期待以上のものだった。
皮がパリッと焼き上げられた白身魚。柔らかく煮込まれた野菜。
塩味は控えめだが、胃にすっと染み渡る。
「優しい味だな……」
思わず呟くと、リュシアは目を閉じて、一口一口を噛みしめていた。
「……泣いてる?」
俺が尋ねると、リュシアはゆっくりと首を振った。
「違うわ。ただ、生きてるって、こういうことなのよね、って」
たった一杯のスープ。けれど、それは命の危機を越えた俺たちにとって、“日常”の重みを思い出させてくれるものだった。
「なあ、リュシア。魔核って、結局、何なんだ?」
食後、俺は静かに尋ねる。
リュシアは手を止め、視線を落として答えた。
「“力”の源……だけじゃないの。魔獣の記憶、感情、欲望。そういったものが凝縮された“魂の塊”よ」
「魂の……」
「特に強い魔獣や、長く存在したものには、深い意志が残っている。あなたの中にあるのも、そう」
俺は、自分の胸に手を当てた。
門番を打ち倒したとき、暴走ではなかった。共存――そう感じていた。
「危険、なんだろうな。やっぱり」
「使い方次第。毒にも、薬にもなる。大事なのは、あなたがどう在りたいか」
リュシアはまっすぐに俺を見た。
俺はしばらく物思いに老けた。
そしてーー
「なぁ、リュシア。これから先も……お前と一緒にいてもいいか?」
少し驚いたように彼女は目を見開き、それから微笑んだ。
「それは、私の台詞よ。……よろしくね、アサヒ」
俺たちは酒を片手に語り合い、夜が更けていく。
「それじゃあ、お休み。私は隣の部屋にいるから、何かあったら呼んでね」
「あぁ……」
俺はへろへろな声でそう返しながら、ベッドへ倒れ込む。
「……なんとか役に立てるように、頑張らないとな」
そんなことを考えながら――俺は、静かに目を閉じた。




