微笑の救済者
――水音が、静かに響いていた。
ぽたり、ぽたりと。天井のどこかから雫が落ちてくる音が、ぼんやりと耳に届いている。
熱も、痛みも、喉の渇きも、すべてが遠い。
意識の底に沈んでいた俺は、ゆっくりとまぶたを開いた。
目の前にはかすかに揺れる青白い光―――魔石灯の明かり。
人工的なそれは、淡い橙色を放ち、洞窟の一角を仄かに照らしていた。
「……気がついたのね」
声がした。
銀の鈴のように透き通った、どこか懐かしい響き。
俺は、ぼんやりとその顔を見つめた。
そこには、静かに膝をつく一人の女性がいた。
清らかな肌。気品を感じさせる目元。美しく白く整った顔立ちに、銀の髪をたなびかせ、蒼の瞳が静かにこちらを見つめていた。
俺は思わず身を起こそうとして――全身を貫く鋭い痛みに呻いた。
「無理しないで。あなた、魔獣とぶつかって全身ボロボロだったのよ。本当に……よく、生きてたわ」
「ここ……は……?」
「遺跡の奥よ。あの戦いのあと、あなたを引きずってここまで運んだの。魔獣もあまり近づかない場所だから、安全だと思って」
「なんで、そんなことを……」
俺の問いに彼女はゆっくりと微笑んだ。
「あなたが……私を守ってくれたから」
その言葉が俺の胸に深く刺さった。
あのときの俺は魔獣だった。記憶も意識も朧げで、ただ本能のままに動いていた。
それでも、彼女は――俺に感謝しているのだ。
「でも、俺は……あのとき、もう人間じゃなかった。魔獣に……魔獣核を埋め込まれて……」
そう呟くと彼女は優しく微笑み、手をそっと俺の胸元に伸びてきた。
「私は、あなたが“人間じゃない”なんて、思ってないわ」
「……え?」
「あなたは、痛みを感じて、苦しんで、誰かを助けた。そんな存在が、人間じゃないなんて……私は、信じない」
その言葉は、何よりも救いだった。
俺自身が恐れていた“変わってしまった自分”を、彼女は否定しなかった。
「名前、聞いてもいいか?」
「……リュシア・アルフェリア。神殿に仕える巫女だった。でも、今は……追われる身よ」
「追われる? 神殿に?」
リュシアはほんの少し視線を落とし、微かに息をついた。
「……話すと長いの。でも、簡単に言えば、私は“祈り”ではなく“真実”を選んだ。神殿はそれを許さなかった。それだけ」
その瞳には、何か決意のようなものが込められていた。
そのときだった。
――ドゴォンッ!
遺跡の奥から、重く鈍い爆音が響いた。
ただの崩落ではない。“何か”が動いている、そんな感じ。それも、巨大な何かが。
「この気配……赤き番人か?」
「違う……これは、“もっと深いところ”にいたはずの存在」
リュシアの表情が一変する。
「動き始めたのね、あの“深層の異形”が」
俺はゆっくりと立ち上がった。
膝が震える。体は重い。だが、心だけは不思議と冷静だった。
「リュシア……ここは危険だ。逃げよう」
「でも、今のあなたじゃ――」
「……もう、逃げたくない」
俺は拳を握る。
胸の奥に、まだ残るあたたかさ。彼女の言葉。救われた気持ち。
――あのとき、自分は“守りたい”と思った。ならば今度は、自分の意志で立ち向かおう。
「俺は、魔獣になった。でも……まだ俺は、俺だ。この力があるなら……誰かを守るために使いたい」
リュシアは、数秒だけ目を見開いて、――やわらかく、微笑んだ。
「……なら、私も行くわ。あなた一人に任せるわけにはいかないもの」
「え?」
「今の私は、ただの巫女じゃない。祈りだけじゃなくて、戦う術も持ってる」
彼女の掌から淡い銀の光が灯る。
小さな光球がふわりと浮かび、周囲を優しく照らした。
「私と一緒に、進みましょう。朝陽」
「……ああ」
静かに、二人は地上へと足を向ける。だが、暗闇の奥で、何かが、目を覚まそうとしていた。