夕日の続きを
シリアス ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
切ない ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
別れ ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
辛くとも ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
「ねえ、あなた。プロポーズしてくれた日のこと、覚えてる?」
病院の1階にある個室。 その清潔なベッドに横たわる妻がか細い声で呟いた。
「忘れもしないさ。あの日、海岸に沈む夕日は、とても美しかった」
僕の言葉に、妻は『ふふっ』と力なく微笑み、病室の窓から朝日が照らすレンガの壁を眺めて言った。
「もう一度、あなたと一緒に、沈む夕日を見たかったわ」
その言葉に、僕は『また一緒に見よう』という言葉を飲み込んだ。
それが叶わぬ願いだと分かっていたから。
妻は結婚してすぐに白血病と診断された。
その時点ですでに遅く、彼女の病状は手の施しようのない状態になっていた。
「本当に至らない妻でごめんなさい。あなたを幸せにすることができなくて……」
妻の言葉に、僕は笑顔で首を横に振った。
「そんなこと言わないでくれ。僕は、君と過ごす日々が、何よりも幸せなんだ」
その言葉に、妻は諦めに似た微笑みを浮かべ、やがて投薬の効果で静かに眠り始めた。
医者が僕に告げた、『奥様は、あと二、三日でしょう』という言葉が脳裏をかすめる。
僕は、妻の最後の願いを叶えるため、自宅に急いで帰り、パソコンを立ち上げた。
再び病院に戻ると、僕は何枚もの紙を手に抱え、妻の病室の裏手に回った。
窓の外から見えるのは、妻の弱々しく眠る姿。
「あの日見た夕日を、もう一度二人で見よう」僕は、そう呟きながら、窓一面に紙を貼り付けていった。
次に妻が目を覚ましたのは、夕方だった。
「やあ、目が覚めたかい?」
僕の声に微笑む妻は美しく、間も無く訪れる別れが嘘であるかのように感じた。
「ええ、あなた。ずっとここにいてくれたの?」
「いいや、君の思い出を探しに、少しここを離れていたんだ」
そう言って僕は視線を窓に向けた。
それに倣って外を見た妻は、手で口を覆い「あなた、あの日の夕日ね……」と、瞳を潤ませた。
「ああ、あの日、二人で見た光景だよ」
窓には何枚もの写真が繋ぎ合わされ、一つの光景を映し出していた。
── 海岸線に沈む夕日。
途端に妻が、「やっぱり死にたくない…あなたと別れたくない……」と、泣き始めた。今まで抑えていた感情が爆発したのだろう。
僕は、彼女と別れるその日まで笑顔でいようと決め、溢れる感情を抑え込みながら、笑顔のまま彼女の手をそっと握り締めた。
『……ああ、ずっと一緒だよ』と。
── 彼女がこの世を去ったのは、それから数日も経たない夕暮れ時だった。
心の中が暗く、寒く沈む中で、僕は妻から最後に渡された手紙を開いた。
『私が死ぬまで読んじゃ駄目よ』と、言っていた妻の声が今にも聞こえてきそうで、僕はまだ現実を受け入れられずにいた。
開いた手紙にはこう書かれていた。
── 最愛のあなたへ。
今まで本当にありがとうございました。
そして、迷惑ばかりかけてごめんなさい。
こんなことになってしまったけど、私はあなたと出逢えて幸せでした。
どうか、いい人を見つけて早く幸せになってください。
その言葉に、視界がどんどんぼやけていく。その後も、今までの思い出や感謝の意が綴られていた。
そして、文末にはこう書かれていた。
── 最後にわがまま言ってもいいですか?
この先、あなたが幸せになることを願っています。でも、できれば私のこと忘れないでください。あなたの心で生きていたいから。
僕は、それ以上読むことができなかった。
もう、いいかな。
もう、いいよな。
もう、いいだろ。
留めていた涙が堰を切ったように溢れ出し、手紙に雨を降らし始めたから。
「僕こそ!君にッ!何もッ……」
止まらぬ嗚咽の中、僕は自分を恥じた。
生前に妻と交わした言葉。
『ずっと、一緒だよ』
それは、愛する妻の後を追おうとしていたからだ。
だけど、手紙には『私を忘れないで』と書かれていた。
僕まで死んでしまえば、君を思い出すことすらできなくなる。
「僕は……馬鹿だ!」
真っ暗な世界に囚われていた僕の心に、妻の残した手紙が優しい小波を立てた。そして次第に大きく、力強く波打っていった。
夕日が沈んだ水平線からは、日が昇ることはない。だから、僕は後ろを振り返り、待つことを決めた。
── 君と生きた思い出を胸に。
あの日見た夕日の続きが朝日となるその日まで。