カップ一杯のコーヒー
戦争は何も生まない ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
シリアス ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
無意味な争い ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
暗い話でゴメン ⭐︎⭐︎⭐︎
辺りを覆うのは、瓦礫と化した煉瓦造りの建物……。
目前に迫る戦車の振動で崩れ落ちた破片の乾いた音さえ、絶え間なく響く銃声に掻き消される。
その中で、私は息を殺して身を潜めていた。
── 第17歩兵部隊。
私の所属する部隊は、侵攻してくる敵軍の重戦車部隊により壊滅した。
唯一の生き残りである私は、銃弾が空の自動小銃を握りしめながら死んだフリを続けている。
── 私は……臆病者だ。
仲間たちが自国を守るために散っていく中、私は何もできなかった。私の銃弾は敵兵の命を奪うことなく、ただ虚しく空へと吸い込まれていった。そして今、こうして芋虫のように身体を縮め、うずくまっている。
どれだけの時間が経ったのか……。
暫くして、振動と喧騒は去り、静寂が訪れた。
私は惨めにも生き残り、まるで時間が停止したかのような世界で、ふらりと立ち上がると、喉の渇きを満たすため半壊した民家に足を踏み入れた。
そこで私の目に映ったのは、頭から血を流す幼い子供とその母親の姿だった。そして、その傍らに立ち尽くす男が……。
一目でそれが敵兵だと気づいた私は、銃口をその男に向け叫んだ。
「殺したのはお前かッ!」
弾倉が空だったことを思い出し、「私もここまでか」と覚悟を決めたその時、男はボソリと呟いた。
「撃つがいい」
暫しの静寂を破るように、男は再び口を開いた。
「戦争とは、一体何だろうな……この人たちが、どんな罪を犯したというのだ?」
その言葉で、この母子を殺したのがこの男ではないと悟った私は、「ここで何をしている?」と静かに尋ねた。
「逃げ出したのさ……すべてから。そして悟ったんだ、行き着く先を」
その意味深な言葉に戸惑いながらも、男は虚ろな目を私に向け、苦笑いを浮かべていた。
「もし君が、僕に命の猶予をくれるならば、コーヒーを一杯飲んでもいいかね?」
男は銃口を向けられているにもかかわらず、胸元のポケットを弄り始めた。
恐らく、そこから出てくるのは銃だろう。私が生唾を飲み込む中、意外にも男が取り出したのはインスタントコーヒーの小袋だった。
「君もどうかね? ライフラインは破壊されているから湯は沸かせないが、水筒の水で何とかなるだろう」
そう言って小袋の一つを投げて寄越したが、両手で銃を握り続けていた私の胸に袋が当たり、そのまま力なく床に落ちた。
男は気にする様子もなく、リュックからステンレスのカップを取り出し、小袋の中身を注ぐと、茶色い粒がカラカラと小さな音を奏でる。
続けて水筒の口を開き、カップに水を満たすと、指でかき混ぜ始めた。
「……冷たい水では、やはり混ざり合わないものだな。つまり、温もりがなければ調和は生まれないということだ」
男の独り言は、コーヒーのことだったのだろうか。私はその様子を暫く眺めていると、男はカップに口をつけ、「…やはり、不味い」と眉をひそめた。
「君も……戦場から逃げたんだね?」
突然の男の言葉に私の背筋が緊張し、握りしめた銃がキシッと音を立てた。
「そして、その銃に弾が入っていないことも知っている。もし弾が入っていたならば、僕はもうこの世にはいないだろう」
「それを知っていて、お前は何を企んでいるんだ?」
これでは、相手の口車に乗せられただけだと自嘲しながら、私は銃口を下げた。
男はい一息にコップを煽り、目尻に皺を寄せて呟いた。
「僕は……卑怯で弱い傍観者だった。しかし君の瞳には『生』への執着が宿っている。こんな凄惨な状況を知ってなお……」
言葉の途中で、男は『ゴフッ』と血を吐いた。恐らく、自害目的でコーヒーに毒を入れていたのだろう。
男の表情は苦痛に歪んでいたが、その瞳の中には僅かな光が宿り、「ならば、生き残れ。そして、伝えるのだ……戦争を身を持って知った生の声を」と、力強い言葉を血飛沫と共に吐き出した。
その様子に私は「何を勝手なこと…」と、言葉を詰まらせることしかできなかった。
男は、口元を真っ赤に染め、最後に微笑みながら呟いた。
「君と…温かくて美味いコーヒーを、一緒に飲みたかったものだ……」
床に崩れ落ち、事切れた男を見下ろしながら、私は思った。
世界に調和は訪れないだろうと。文化や思想、人の欲や愛情までもが争いの火種には事欠かない。
平和なんて幻想に過ぎないのだから。
しかし、そうだ…。見ず知らずの人と美味いコーヒーを飲み、笑い合うことは幻想ではなく、実現できる。
私は息絶えた親子と男の顔に布を被せ、静かに祈りを捧げた。そして、民家を後にすると、何処までも続く青い空が広がっていた。
── 私が生き残れたなら、まずは、息絶えた男の国のカフェにでも行こう。
── そして語ろう。苦いコーヒーを飲みながら、平和という甘い幻想を。