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3.春の宵


 それからどうやって放課後まで過ごしたのか、まったく覚えていない。


 気がついたら帰宅していて、そこに流星がいた。台所の床下から勝手に梅干を出してきて摘まんでは「すっぱ」と呟いている。


 ――いや「すっぱ」じゃないよ。


 すばるは我に返った。

「どういうつもりだよ!」

「おまえも喰う? お湯割りがいいんだっけ?」

「そうじゃなくて」

 すばるは気色ばむが、流星は台所に取って返すと、これまた勝手に湯飲みを出してきて、梅干を入れた。ポットからお湯をじゃーっと注ぎ、「ん」とちゃぶ台の上に置く。

「あ、ありがと!?」

 すばるは反射でそう言った。もう情緒がちゃぐちゃだ。

 語気とはちぐはぐな言葉が流星もおかしかったらしく、ふっと笑みを漏らす。細めた眼差しは意外なほどやさしかった。なんだか、小動物でも眺めているような目つきだ。

「ああ言っとけば、もう言い寄って来る奴いないだろ。親族にバース持ちがいる者同士、助け合ってもバチあたんねーかなと思って。まあ、人助け?」


 すばるは眉根を寄せた。

「……暇つぶしって言われた方がまだ信用できる」


「ばれたか」

 嫌味のつもりで言ったのに、流星はさほど悪びれる様子もなく肩を竦める。

「この辺ろくに遊ぶところもなくてさー。謝礼はこの梅干食い放題でいいから」

「そっちが勝手に始めたことに?」

 言ってることが無茶苦茶だ。思わず語気を強めると、流星はすっと真顔になって告げた。

「十万」

「……! 明日には、払う!」

 今日も呆然としている間に帰宅してしまったから、ATMに立ち寄る暇がなかった。


 正直、十万は大金だ。少しでも上京資金を貯めておきたいすばるにとっては、大変な痛手。

 けど、こいつと縁を切れるなら。

 断腸の思いで決意したというのに、流星は宣う。


「あれさあ、やっぱ臭いとれないんだよ」

「じゃあ、同じの買って返す」

「もう品切れ。限定商品だし、再販はないかなー」

 退路を潰され、すばるは黙った。

「十万のTシャツが? 品切れ? 買う奴が複数人いるってこと??」と頭を抱えていると、流星は頬杖をついて不敵な笑みを浮かべた。


「――付き合えよ、暇つぶし。これで告ったり触ったりしてくる奴がいなくなって、体調安定したらおまえも得だろ。あ、勉強も教えてもらうかな」

「そっちのメリットがなさすぎる。なにを企んでるんだ」


 見た目こそちゃらっとした陽キャだが、自分と同じクラスということは、流星の成績は悪くないはずだった。わざわざ教えを請う理由はない。

「損得でしか物事考えられないって、淋しい奴だなー。そんなことより腹減った。なんか食わして」

「……冷蔵庫の中のもの、お好きにどうぞ」

 やけくそで告げると、流星は「サービス悪」とぶつぶつ言いながらも、台所に向かった。冷蔵庫を開けた途端、間抜けな声が聞こえてくる。

「なんだこれ」

「豆腐。見たことないのか?」

 しれっと言ってやると、流星は顔をしかめた。なんとなく一矢報いたようで気分がいい。

「豆腐と卵豆腐と茶碗蒸しって……病人かよ」

「すぐ食べられていいんだよ」


 祖母が施設に入ってからは、だいたいこうだ。羊羹同様、準備する手間も、後片付けもいらない。空いた時間を勉強に充てられる。

「脂っこいものばかり食べるよりは健康にいいはずだし、足りない栄養素はサプリ飲んでる。ごま豆腐だってある」

「セサミン」と言い足すと、流星は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。

「豆腐から離れろよ! ったく、そんなだからおまえはひょろっと」


 流星が腕を伸ばしてくる。すばるは反射的に腕を引いて逃げた。

「――」


 好意や性的な意味がなかったとしても、触れられるのは抵抗がある。

どうしても、今まで味わったつらい記憶がよみがえってしまうのだ。昨日吐いたばかりだから、なおさらだった。


 ストレイシープ症候群について知っている流星なら、その意味に気がついただろう。怯えてしまった。彼に〈そういう意図〉があったらどうしようと、体が反応してしまったということ。失礼だ。

 これは完全にこっちが悪い。

「あ、の」

 口を開いたものの、なんと言ったらいいのかわからない。

 気まずい雰囲気を吹き飛ばすように、流星がすくっと立ち上がった。

「ちょっと待ってろ。――戻ってくるから、閉め出すなよ」

 そう言いおいて出て行く。よっぽど鍵を閉めてしまおうと思ったが、玄関先で暴れられるのも面倒だと思い、逡巡していると、流星はバイクのエンジン音と共に戻って来た。載せてきた段ボールを担ぎ込む。

「ちょうどいいから、うちに送られてきてた食材いろいろ持ってきた。調味料は借りるぞ」

「料理、できるのか」

 こんな、ちゃらっと金髪なのに?

 失礼ながら、そんなことを考えてしまった。

「母親がしないからな。ガキの頃からねーちゃんに鍛えられた」

 母親が。

 今ではそういう家庭も珍しくはないだろうが、プライベートな情報をさらっと開示されてしまい、すばるは怯んだ。


 誰とも親しくなれない以上、あまり突っ込んだことは聞きたくない。ストレイシープになって以来、すばるはずっとそういう距離感で生きてきた。

 だからこういうとき過敏になってしまう。これは聞いていいことなのか。聞かなかったことにするのが正解なのか。こんなとき志村ならさっとすべてを読み取るのかも知れないが、当然今ここにいない。


 なにか事情がある家庭なのだろうか。一方で、ねーちゃんという親し気な呼び方からは、家族としてごく普通の交流があるようにも思えるし、十万円のTシャツは、何不自由ない暮らしの証左じゃないか。

なのに、どうしてわざわざこんな地方で一人暮らしを?

 すばるはふるふると頭を振った。別に、こいつのことなんかどうでもいい。


 段ボールを開けていた流星が「ねーちゃんめ」と呟いた。

 苦り切った表情で取り出す箱は、鳥の形を模した東京名物のものだ。

「ずいぶん可愛らしい好物で」

「ヤンキーのくせに、って心の副音声やめろ。あと俺のこれはおしゃれ金髪だから! ――苦手なの知ってんのに入れてくるんだよ」

「甘いものが苦手なのか」

 東京で暮らしていた人間にわざわざ東京土産を入れてくるのだから、てっきり好物だと思ったのに。

 なるほど、それで祖母の梅干に執着しているのか。

 

 訊ねたわけではなく、独り言だったのに、流星はなぜか不自然に黙った。やがて、ぼそっと呟く。


「……顔がついてるやつ、可哀相だろ」


 すばるは目を瞬かせた。

 人間、意外なところに弱点があるものだ。


 ちなみにすばるは顔がついていようが平気なほうだ。

 見せつけてやるかと手を伸ばすと、箱ごとさっと取り上げられた。

「飯の前だろ」

 いや、おかんか。

 こいつに常識的なことで諭されるのは、なんか納得がいかない。

す ばるが釈然としない面持ちでいる間に、流星はさっさと台所に立つ。箱の中から取り出した小ぶりのかぼちゃをまな板の上に乗せた。

 おしゃれ金髪とかぼちゃ。なんとも不似合いだが「煮物作れるようになったらモテるよ」という姉の適当なメモと共に荷物に入っていたらしい。


「包丁借りるぞ」

 流星はそう言ってシンク下の扉を開け、包丁を取り出した。

 まったく躊躇がない所作に「おれよりよっぽどこの台所に詳しそうだ」と思いながら佇んでいると、流星が「やべ」と声を上げた。怪我でもしたのだろうか。

 流星が怪我をすること自体はどうでもいいが、他人が自分の家の包丁で流血というのはちょっと嫌な気がする、と身もふたもないことを考えながら覗き込むと、包丁はかぼちゃに刺さったまま、びくともしなくなっていた。

 流星が情けない声を出す。

「……エクスカリバーな感じに……」

「アーサー王が最初に岩から引き抜いたやつなら、エクスカリバーじゃないけどね」

「は? うそ」

「たしかエクスカリバーは湖の妖精からもらったやつで、最初のはカリバーンていう……そんなことより、どうすんのこれ」

「……お客様の中にアーサー王様が」

「いません。チンしたら柔らかくなるかな……」

 流星の悪ふざけを一刀両断し、すばるがかぼちゃを電子レンジに入れようとすると、流星が慌ててそれを押しとどめた。

「いや金属はだめだろ! 常識的に考えて!」

「いきなり人の家に上がり込んで気ままに振舞ってる奴に言われたくない言葉ナンバーワンだよ」

 思い切りあてこすってやるが、流星はまったく耳を貸す様子もなく、スマホを操作している。そうして探し出した方法は〈かぼちゃをレジ袋に入れて、固いところにぶつける〉というものだった。

「原始的……」

 とはいえ、これをなんとかしないことには流星は帰ってくれないだろう。

 やむなく祖母が綺麗に畳んでストックしてあったレジ袋を探し出して手渡すと、流星は包丁が刺さったままのカボチャをそれに入れ、玄関先に出て行った。門から玄関までの間に敷かれた飛び石にぶつけようということらしい。

 ああでも、包丁が危ないんじゃないかな。

 一応、包丁はこの家のものだし、祖母がいない今この家の主というか、管理責任は自分にある気がする。


 「やるならおれが」と口にしかけたとき「いくぞ」と口にした流星は、片腕を広げてすばるを下がらせた。

 あ。

 かばわれた。

 ごく自然に。

 ほんの一瞬、何気ない仕草だった。けれど、こちらを見もせずに、そういう動きが出来るということに、ちょっとどうかと思うくらいすばるは胸を突かれてしまった。


 だってちょっと――大事にされてる、みたいだ。人として。


 ストレイシープになってから、祖母以外の他人は、みんなをすばるを傷つける存在だった。

 父も母も、クラスメイトたちも、悪気はないとはいえ、春が来る度告白してくる彼女たちも。

 だけど、こいつは、ちょっと違う。

 出会いは最悪だったし、十万円で脅してくるし、無遠慮にすばるの生活の中にずけずけと踏み込んでくるけれど、悪い奴ではないのかもしれない。


 東京で遊びまくってやばくなって、こっちに来たって噂、やっぱり噂でしかないんじゃないか?


 すばるが立ち尽くしている間に、流星は両手で改めてかぼちゃ入りレジ袋を捧げ持つと、勢いよく振り下ろした。



 かぼちゃはいい感じに割れて、無事煮物になった。流星も作るのは初めてだったらしいが、スマホでレシピを調べたようだ。

 あとはやはり荷物に入っていたレトルトご飯とカレーを温め、冷蔵庫の豆腐を切って冷ややっこにした。取り留めもない組み合わせだが、豆腐だけに比べたら、ずいぶん人間らしい食卓になったと思う。

 食後のひよこを、流星は目をつぶって食べていた。


 とにもかくにも、これでようやく帰ってもらえる。

 そう思ったのに、流星はだらしなく畳に寝転がって宣った。

「もう帰るのめんどくせえな。泊ってもいい?」

 泊る。

 他人が。

 そんなの小学校以来だ。

 瞬時に様々な感情が交差したのを悟られないよう「いくない」とだけ口にすると、流星は「つきあってるのに」と不満げだ。

「振りをするだけだろ!」

 思わず叫んでしまってから、己の失策に気がついた。

 案の定、流星はにやりと意地の悪い顔をしている。

 くっそ……!

 歯噛みするをよそに、流星はふっと柔らかい笑みを結び直すと、

「またな」

 と残して去って行った。



「……やっと帰った」

 他人とこんなに密に接したのは久し振りで、すばるはどっと脱力した。

 疲れる。

 一晩で桜の花を全部吹き飛ばす、春の嵐みたいなやつだ。


 人がいると、古いこの家もずいぶん熱を持つ。すばるはのそのそと立ち上がり、縁側の窓を開け放つ。肌に沁みる、夜の空気が心地よかった。

 流星が『またな』と告げたときの顔が、ふっと脳裏をよぎった。

「――また、があるのか?」


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