第3話
「いやあ、シーズン中にヒロとこうして飲めるなんて思わんかったよ!今日は来て良かったわ。」
気の置けない友人たちは、そう言って笑顔で乾杯をした。
対する内山浩則もややぎこちない笑顔をつくりながら、ビールジョッキを彼らと軽く合わせた。
(そう言えば、こんな時期に酒飲んだことなんて、なかったよなぁ。ビアガーデンなんて、テレビでしか見たことなかった。)
黄金色の生ビールを喉の奥に流し込みながら、浩則は思った。
8月と言えば、プロ野球のペナントレースは佳境へとさしかかる、重要な時期だ。
当たり前の話だが、去年まで現役バリバリのアスリートだった浩則が、そのような時期に飲酒するはずもない。
妻の裕美が管理してくれたとおりの食事をとり、最大限のパフォーマンスを発揮できるよう努めてきたからだ。
高校時代の友人たちと出会うのはシーズンオフ、それも年末年始の限られた時間でしかなかった。
シーズン中の同窓会に参加するなど、入団後初めての経験だった。
「なあ、ヒロ。ラビットは今年どうなん?クライマックスシリーズは行けそうか?」
「星野はメジャーリーグ行くって噂やで。そこのところ、どうなってん?」
早くも酔っているのか、そんなことを聞く奴もいる。
「おい、やめろや。そんなん、言えるわけないやろ。」
そう言って、酔っ払いどもを向こうに追いやり、高木敦史がヒロの横に座った。
敦史はかつて浩則らが所属していた京都府立桂山高校野球部のキャプテンだった男であり、誰からも一目置かれる存在だった。
社会人になっても当時の関係性はそう簡単に変わらないらしく、元部員たちは敦史に一喝されると、口をつぐんで席を移ってしまった。
「バッピはどうや。慣れたか?」
バッピとはバッティングピッチャーの略称だ。
あんまり聞き慣れない言葉のはずだが、大手野球用品メーカーの営業をしている敦史は業界人みたいにその言葉を使う。
実は、戦力外になった直後、妻の裕美の次に連絡したのが、この敦史だ。
彼が勤める「エンペラー」社製の野球用品を浩則が使っていた縁もあるが、何より元相棒には妻以外の誰よりも早く報告しなければならない気がしていた。
敦史は、浩則が高校時代にバッテリーを組んだ仲だ。
2年生時から数多くの試合をともに戦い抜き、3年生時のセンバツでは甲子園出場も果たした。
当時の野球部の仲間たちとは深いつながりを感じているが、とりわけ敦史とは特別に強い信頼関係を浩則は感じていた。
「ボチボチ、かな。バカスカ打たれるのも、最近はもう慣れたし。」
「コントロールは昔から超一流やったからな。そっちの方が長く活躍できるかもな。」
敦史はジョッキを傾けながら、クスッと笑った。
営業の仕事のたまものか、敦史は昔よりよく笑うようになった気がする。
「・・・すまなかった。」
「何が?」
「いや・・・俺の分までプロで頑張れって応援してくれてただろ?結局、あんまり活躍できなかった。」
「何だ、そんなことか。」
敦史はビールジョッキを置くと、フッと小さく息を吐いた。
真顔に戻り、鋭く自分の右手を見つめている。
「俺としては、3年前の活躍は胸がスカッとしたよ。出会う人みんなに、「ほら、これが俺が高校時代にリードしてたピッチャーなんやぞ。すごいやろ?」って自慢したいくらいやった。」
「結局あの年だけだ。通算5勝。今はラビットで常時10人くらいいるバッティングピッチャーのひとりでしかない。」
酒が入っているのも関係しているのかもしれないが、敦史には素直に思っていることが言えた。
本当はもっと現役を続けて、敦史がもっと自慢できるピッチャーになりたかった。
後輩の星野亮太とエースの座を競う存在になりたかった。
妻の裕美と生まれたばかりの娘に、もっとカッコイイ姿を見せたかった。
「何か、俺がプレッシャーかけてしもたみたいで悪いな。でも、俺はお前が1軍で活躍してくれて嬉しかった。あの場所に行くのがどれだけしんどいか、俺はよくわかってるつもりや。そこでお前は精一杯輝いた。1年も。すごいことやん!」
敦史の目の奥には、偽りの色は全然見えなかった。
「それにさ・・・ほら、俺らって「打たれてナンボ」やろ!?」
そう言ってのけた敦史の笑顔は、あの日のそれと全然変わっていなかった。
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「お前、甲子園行きたくないか?」
浩則が記憶する限り、敦史と最初に交わした会話はそれだった。
高校1年生の5月。
1年生はまだボールにもろくに触らせてもらえない頃。
そんな時期に、敦史はいきなりそんなことを浩則に言ってきた。
「そりゃ、行きたいけど・・・」
いきなりのことで戸惑い、浩則の答えは語尾がかすれ、グラウンドに吹くそよ風と一緒にどこかへ飛んでいった。
敦史が冗談を言っているのではないことは、対面する浩則にはすぐわかった。
こんな真顔で冗談を言う奴はいないだろう。
「じゃあ、決まりやな。来年は一緒に甲子園に行こう!」
(コイツ、何言ってんの?)
一瞬、浩則には敦史が何を言っているのかわからなかった。
その辺に買い物でも行くような感じで行けるところじゃないだろう。
目の前の同級生が、かなり危ない奴に見えた。
「そんな顔すんなよ。俺な、今日お前とキャッチボールして、これは行けるって思ったんや。」
「どういうこと?」
「色んな距離で投げ合ったけど、俺はほとんどグローブを動かさんでもキャッチできた。これって、なかなかできん。コントロールがいいのは当たり前やけど、条件に合わせて細かい修正もできるってことなんや。お前をエースにできたら甲子園も夢やない、そう思ったんや。」
「そんなものかなぁ・・・。」
敦史はやや興奮気味に浩則の能力について語ってくれるが、当の浩則にはピンとこなかった。
野球好きだった父親の影響を受けて、浩則は小学校低学年から野球を始めた。
父の仕事の都合で中学校から関西に移ってきたが、たまたま野球部があったので続けたという感じだった。
それほど強いチームでもなかったし、浩則もピッチャーをやらせてもらうことがあったが、特別注目されるような存在ではなかった。
銀行員の父も浩則に野球の特別な才能がないと見たひとりだったようで、進学校への進学を勧めて来た。
浩則は中学2年生までで部活を辞めて受験勉強に集中し、公立では上位とされる桂山高校に進学したのだった。
桂山高校はどちらかと言えば進学校としてのイメージが強く、スポーツは盛んだったが、野球部は府大会ベスト8が最高で、例年ならば1つか2つ勝つのがやっとだった。
そんな中堅校が初めての甲子園を目指す、しかも浩則がエースなら行ける、などと言われても、にわかに信じられるはずがなかった。
「投げ方や変化球の習得は後からでもできる。でも、これだけのコントロールと修正力はなかなか身につかん。1年間みっちり俺と特訓して、来年はバッテリーを組もう!」
(どうやら、本気らしい。)
敦史の顔は真剣で、声色は確信に満ちていた。
本人ですらただの野球好きとしか思っていなかった内山浩則という男に、彼は確かな手ごたえを感じたのだろう。
確かに、できるなら甲子園には行きたい。
やれるだけ、やってみるか。
浩則は敦史に比べると随分と軽い気持ちで、その申し出を受け入れた。
「よっしゃ、そうと決まったら、今日から自主練するぞ。」
「今日から!?」
「1年でエースと正キャッチャーになろうって言うんや。時間は無駄にできんやろ。」
(やっぱ、変な奴に捕まっちゃったなぁ。)
浩則は改めてそう感じたが、後悔の念は湧いてこなかった。
「あ、そうそう。最初に言うとくわ。」
「何?」
「自主練には兄貴にも付き合ってもらう。知ってるやろ?3年の高木悟史。」
知ってるも何も、この野球部のキャプテンの名前だ。
エースピッチャーでもあったが、去年の冬に肩を壊し、現在はスコアラー兼マネージャーとしてチームに残っている。
選手としては退いたが、監督のかわりに練習メニューをつくり、事実上コーチのような存在になっていた。
敦史が彼の弟であることは知っていたが、キャプテンまで自主練に駆り出すとは。
改めて敦史の本気度が伝わってくる。
「兄貴にもじっくり見てもらって、細かいとこまできっちり修正してもらう。最初は全然うまくいかんことの方が多いやろ。ま、安心せえ。」
敦史は一気にまくし立てると、ニカッと歯を見せて笑った。
「最初は「打たれてナンボ」や。けど、そのうち面白いように打たれんようになる。」