プロローグ
まだ誰も立っていない、まっさらなマウンド。
内山浩則は、いつものように左手でボールを握り、手首を使ってポーン、ポーンと2度3度ボールを軽く投げ上げ、手のひらでキャッチする動作を繰り返す。
ボールの感触や縫い目の状態を確認するような動き。
ピッチャーを始めてから変わることのないルーティーンだった。
それを終えると、浩則は18メートルほど離れた地面に薄っすらと見える、ホームベースを見つめた。
慣れた動作で振りかぶり、直球を投げる。
ストライク。
続けて2球を投げる。
いずれもストライクだ。
彼の代名詞とも言える、立ち上がりの良さは今日も健在だ。
面白いように狙ったところにボールが行く。
「よろしくお願いします!」
大きな声であいさつをして、バッターがボックスに入ってくる。
浩則は軽く会釈をして、すぐに投球動作に移った。
プレイボールの声はかからない。
浩則が投じたボールは狙った通り、ど真ん中に飛んでいく。
カーン。
乾いた音が響き、鋭い打球がレフト方向に飛ぶ。
打たれた浩則はその行方を見ようともしない。
傍らのかごからボールを1つ取り上げると、再び投球動作を開始した。
カーン!!
再び狙い通りのど真ん中に投じられたボールは、さっきよりも派手な音を立てて浩則の視界から消えた。
レフト方向へぐんぐんと伸びた打球は、そのままレフトスタンドへと吸い込まれた。
おお、という喚声が何人かの口からもれ、スタンドに転がるボールを別の何人かが競い合うように追いかける。
ホームランを打たれても、浩則の表情はピクリとも動かない。
次のボールを取りながら、チラッと視線を送っただけだ。
その後何球も浩則が投じるボールは真ん中付近に集められ、バッターはそれらを打ち返していく。
最後の1球だけ、浩則の狙いが外れてボールが低めに行き、バッターはボテボテのピッチャーゴロを打ってしまった。
「悪い。投げミスだわ。」
きっちり抑えたというのに、謝ったのは浩則の方だ。
「いえ。そのまま低めにも何球か放ってくれませんか?お願いします。」
浩則の後輩に当たるバッターは、そう言って浩則に投げるコースを指定した。
頷いた浩則は、立て続けに5,6球を言われたとおり真ん中低めに投げ込んだ。
あらかじめ来るコースがわかっていれば、プロのバッターなら打つことは容易い。
今度はバッターもしっかりとボールをとらえ、鋭い当たりを連発した。
半分くらいは「柵越え」と言われるホームランだった。
「調子、良さそうだな。」
打たれた浩則が、笑顔を見せた。
「ありがとうございます!やっぱ、ヒロさんの球は打ちやすいですよ。言ったとおりのコースに来るし。最後に外角にも何球かお願いします!」
「おう。」
そう言ってヒロは言われたとおりアウトコースに続けて投げ、右方向に飛んでいく打球の行方に満足そうに頷いた。
「ありがとうございました。」
そう言ってバッターがケージの外に出ると、次のバッターが入ってくる。
「お願いします。」
先ほどとは逆の左バッターボックスに入ったバッターに対し、浩則は再びど真ん中に向かってボールを投げ始めた。
「お疲れ様。」
そう言って次のピッチャーがマウンドにやって来た時、浩則は汗だくになっていた。
同じような投球を4人に対して続け、投じた球数は100球をゆうに超えた。
その間、好きなように打たれ、放たれたホームランの数は30本近くに達した。
(もうちょっと柵越えしてくれても良かったのにな。)
そんなことを考えながら浩則はマウンドを後にする。
ベンチに戻ってタオルを拾い上げ、頭と首筋の汗をぬぐうと、休む間もなく道具の整理を始めた。
それらは浩則のものではなく、みな他の選手たちのものである。
「ヒロさん。お疲れ様です。」
浩則が振り向くと、後輩ピッチャーの星野亮太がいつもの人懐っこい笑顔を向けていた。
「あれ?えらく早いな。今日は登板だっけ?」
浩則が意外そうな顔をすると、亮太は白い歯を見せた。
「いえ、明日の予定です。家にいても暇なんで、早く来ちゃいました。キャッチボール、付き合ってくれません?」
「いつもギリギリにしか来なかったお前が、変わるもんだな。」
「なにオヤジっぽいこと言ってんですか。ま、エースの自覚ってやつですよ。」
亮太は浩則らが所属するプロ野球チーム「京都ラビット」の先発の柱とされているピッチャーだ。
背番号18を背負い、ここ1,2年は誰もがエース格と認める成績を残してきた。
ただ、人懐っこく茶目っ気たっぷりの性格は相変わらずで、浩則としては以前と変わらず付き合いやすい後輩だ。
「ここを片づけたら、相手するよ。ちょっとだけ待ってくれ。」
浩則はそう答えて背中を丸め、折れたバットをビニール袋に入れていく。
「手伝いますよ。その方が早いし。」
そう言って腰をかがめようとする亮太に対し、浩則は鋭く制止した。
「バカ。お前は野球に専念すればいいんだよ。これは俺の仕事だ。」
背中越しに言い放つと、浩則は道具を抱えて奥に消え、やがて自分のグローブを手にしてあらわれた。
亮太とともに外野に移動し、キャッチボールを開始する。
最初は数メートルの位置から始め、徐々に亮太が後ろに下がっていって、最後には50メートルほどの距離でボールを投げ合った。
どちらもコントロールの良さが目をひくが、30メートルくらい離れると、亮太の投げるボールは浩則が構えるグローブからわずかばかり上下左右にそれることが多くなった。
一方、浩則の投げるボールはほとんどが亮太の構えるグローブにそのまま吸い込まれていく。
「やっぱ、ヒロさんのコントロールは抜群ですよね。やめるのもったいなくないですか?」
「・・・」
「ほら、外野とかならいけるでしょ!絶対、返球いいし。」
「・・・俺はバッティングが全然なんだよ。」
「ピッチャーだって、リリーフならこのコントロール活きますって。どうです?俺の後のマウンド、ヒロさんに守ってもらうってのは?」
「もういいんだ。俺はプロのピッチャーはできない。野手転向する能力もない。俺はもう・・・バッティングピッチャーとして生きていくんだ!」
そう言って浩則は口を真一文字に結んだ。
これ以上この話題を話したくないという意思表示だったが、そこには夢を断念しなければならなくなった悔しさも、まだ消しがたく残っていた。
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3年前の7月。
浩則の野球人生が「暗転」したのは、そこがターニングポイントだった。
その年、プロ3年目の25歳となっていた浩則は、開幕1軍どころか先発ローテーションの一角を確保し、開幕を迎えた。
それまでの2年間で計5試合の先発登板にとどまっていたことを考えれば、それだけでも十分成功だが、オープン戦からの好調はシーズンに入っても続いた。
10試合に登板し、防御率は2点台半ば。
勝利数こそ4勝だったが、毎試合しっかりとゲームをつくり、ローテーションを守り続けた。
貴重な左腕ということもあり、先発投手のなかでは4番手の位置づけながら指揮官からの信頼を感じ、充実した前半戦だった。
特に7月に入ってからは2勝を挙げ、2ケタ勝利も夢ではなかった。
何と言っても、最大の武器はコントロール。
四死球は毎試合平均1個を切り、敵チームはヒット以外の出塁はほとんど期待できない。
速球はMAX140キロ台半ばにしか達しないが、上下左右のコーナーへの投げ分けはキャッチャーがほとんどミットを動かさなくてもいい、と称されたほど精密だった。
このコントロールを活かし、バッターの内角をつく積極的な投球が浩則のスタイルだった。
右バッターの内角にはフォーシームやスライダー、左バッターの内角にはツーシームや緩いカーブでカウントを稼ぎ、低めに投じたスプリットや大きく曲がるカーブで内野ゴロの山を築いた。
奪三振こそ少なかったが、その分球数も毎試合少なく、内山が投げる試合は中継ぎ陣を休ませられると監督や投手コーチからは高く評価されていた。
その日も浩則は小気味よくアウトを積み重ね、7回を投げ終えたところで球数は80球を少し超えた程度。
ソロホームランの1点に相手打線を抑え、完投勝利も狙える内容だった。
(次は青島か。一発には警戒しないと。)
8回表、敵の「東京パワーズ」の攻撃は主砲の青島将吾からだった。
青島は高校時代からスラッガーとして注目を集め、通算4度出場した甲子園でも豪快なホームランで観客を沸かせた。
高校卒業後は真っ直ぐプロ入りし、プロ3年目には開幕1軍を勝ち取って、そのままチームの顔となった。
今年で7年目を迎えるが、毎年30本以上のホームランを打ち、日本を代表する強打者と目されていた。
同い年の浩則とは対照的なエリートコースを歩んだ選手であり、あるいは球史に残る選手になり得る逸材であった。
だが、同じプロのフィールドに上がって対戦する以上、浩則は負けるつもりはなかった。
(内角。フォーシーム。)
キャッチャーのサインに頷き、浩則は堂々と1球目を投げ込んだ。
そして・・・「悪夢」が起きた。