(6)
ずっとカルロが好きだった。多分、出会ったときから。
カルロが他の誰かに恋をしていた時でさえ。
この赤い目があまり好きじゃなった。まるで血の色みたい。その上老人みたいな銀髪で、周りにこんな色彩の友達は居なかったから。お母さんは、「お父様の目の色よ」と言って褒めてくれたけど。
お母さんが亡くなった後ロッシ家に引き取られて、初めてバルトロメオ兄様に会った私は、黒髪に赤い目の兄様を見て、少しミステリアスで、強そうで格好良くて、あぁ、この目の色はこの人のためのものだったんだ、と思った。
ロッシを名乗れはしないものの、引き取られてからのシルヴィアは子爵家の娘としてそれなりに大事にされていた。忙しい上に少々息子への遠慮があるヴァレリオは、あまりシルヴィアと触れ合うことはない。その代わりに、バルトロメオが妹を可愛がったし、精神面ではシルヴィアの保護者の様なものだった。
シルヴィアは、幼いながらに母に遠慮していたこともあり、思いっきり甘えることができる兄という存在に夢中になった。元々人懐っこい性格だったシルヴィアは、なれない貴族生活を親身にフォローしてくれる上、甘やかしてくれる兄が大好きで、いつもついて回っていた。シルヴィアにとっては父親と母親の代わりを兼ねるような存在、というところを、バルトロメオ自身も屋敷の者も承知していて、抱きついたり、一緒のベッドで寝るような甘え方も、ある程度許容されている。
母がいないことと、新しい生活に慣れたころ、屋敷にやってきたカルロを紹介された。
応接室の窓辺で太陽の光を受けて立っていたカルロは、シルヴィアには文字通り輝いて見える。帝国民の模範みたいな綺麗な金髪と海色の目で、なんて美しい人なんだろうと。兄様と並ぶと神話のワンシーンを描いた絵画の様だった。
その人が目と髪をまじまじと見るので、少し恥ずかしくなっていると、
「宝石みたいな綺麗な目だな。名前にぴったりだ」
などと言われて、シルヴィアがぽかんとする。
「名前?」
「ルビー。一番美しい紅い宝石だろ。だからルヴィって呼ぶ。バルトロメオを見ていると血の色かと思うが、君を見ていると煌く宝石に見える。髪も月の光を閉じ込めたようだし、さながら月の女神だな」
ルヴィ、なんて呼ばれたあたりからくらくらしていたのに、その後に続く言葉を聞いて、頬が目よりも赤くなった気がした。
そして、「バルトロメオの妹なら僕の妹だ、兄様と呼べ」なんていうから、その時はすごく嬉しかった。
カルロは私を、今なお妹としてしか見ていないけど、私は「カルロ兄様」と呼んでいたこの頃からずっと、バルトロメオ兄様とは「兄様」に込める気持ちは違ってた。それなのに。
いつもの様に、ソファーの上に座るカルロの膝の上でシルヴィアはジュースを飲んでいた。
一応はバルトロメオの客に当たるカルロの、膝の上に乗っておやつを食べているこの家の娘、というこの状態は、ロッシ家のものには見慣れたものだ。
そもそもは、バルトロメオがまだ小さかったシルヴィアを甘やかして、膝の上でお菓子をあげていたことが始まりだ。それを見たカルロが「僕だってシルヴィアの兄様なんだから」と半ば強引にシルヴィアを自分の膝の上に乗せた。バルトロメオがたしなめはしたものの、バルトロメオほどは頻繁に会えないカルロに構われるのが嬉しいシルヴィアと、譲らないカルロに折れた。以来、カルロがロッシ家にやってきてお茶をするときは、カルロが当然のように自分の膝の上をぽんぽん、と叩き、シルヴィアは何の戸惑いもなくその膝の上に収まるのだ。
あっと言う間にカルロに懐き、初めは「カルロ兄様」という呼びかけだったものも、単に「お兄様」になり、カルロの姿を見ると「お兄様!」と呼んで飛び掛るように抱きつくような砕けっぷりのシルヴィアに、「そろそろ本気で叱らなくては」とバルトロメオは、目の前でジュースを飲み干す妹を見て考える。
「ねえ、シルヴィア」と口を開きかけたバルトロメオは、それと重なったカルロの発言に口を開けたまま固まった。
「なあ、バルトロメオ。天使をみつけた」
「は?」
内容の唐突さと意味の分からなさに、バルトロメオはお忍びで街に下りたときのような声で聞き返してしまう。シルヴィアはきょとんとして真上のカルロの顔を見上げている。
「なに?カルロ、もう一回言ってくれ」
「天使を見つけた」
「いや、そうじゃない。天使ってなんだ」
「前にちょっとだけ話しただろ。あの人に引き取られる前、あの辺りで炊き出しをしてた女の子の話」
あの辺り、というのはカルロが住んでいた貧民街のことだ。
バルトロメオは貧民街に居た頃のカルロとの会話を思い出す。美しさよりも金になるかどうか、が判断基準だった当時のカルロは、当然「女の子」に興味を持っていなかった。整った見た目から周囲の女の子に――なんなら年上のお姉さま方にも――人気の会ったカルロは、食事にありつくために上手いことそれを利用することはあっても、恋愛感情としてそれに興味がなかったのだ。
バルトロメオもその認識だったので、特に女性の話を振ることもなかったのだが、ある日珍しく女の子の話をされて意外に思ったことがあった。
そうだ、あの時カルロは「天使に会った」とか言っていて、大袈裟な、と笑ったのだった。
慈善事業はよくある話だが、孤児院の乳幼児相手のものが多い。それが貧民街での炊き出し、となれば貴族令嬢が出てくることはまずない。それが炊き出しで直接貧民に食事を配り、小さい子や老人の手を握り話を聞いたりもしていたらしい。カルロと同い年くらいの少女だったというから、清潔には見えない(し、実際清潔でもない)相手にそこまでできるというのは中々ない。
好意的に女の子の、しかも貴族の話をするカルロに相槌を打ちながら「初恋か」などと内心にやにやしていたのをバルトロメオは思い出す。
場所がロッシ家の領地内だったこともあり、ヴァレリオの許可なく他の貴族が慈善事業などできるはずもない。当然、事前に父に話が通っているはずで、件の「天使」についてはバルトロメオが調べればすぐにわかるはずだった。
しかし、当時バルトロメオはそれをしなかった。どんなに天使に見えたところで、貴族令嬢が平民を――しかも貧民街の――を相手にすることなどありえない。よしんば、その令嬢がその気になったとしても、その家が会うことすら許さないだろう。その少女のことは天使として思い出にしまっておいて、どこの誰なのかなど知る必要はない。バルトロメオはそう思って、その話を終えたのだった。
その、「天使」をカルロが見つけたという。王都でのパーティか、父親についていった先での紹介か。貴族令嬢の姿を見かける機会など限られているが、一応聞く。
「どこで?」
「劇場。二階席にいるのを見かけた。あの時から、どこかの貴族だとは思ってたけど、僕らよりずっと格上だった」
既に、相手の素性まで知っているらしい。
「スフォルツァ公爵家の、ビアンカ嬢」
よりによって、とバルトロメオが内心眉をひそめる。スフォルツァ公爵家は、現皇帝の姉を妻に持ち、歴代でもかなり皇帝に近い家柄で、何度か皇帝の生家ともなっている。ビアンカはそこの一人娘で、バルトロメオからみても高嶺の花どころの騒ぎじゃない。夜会で出会っても、こちらから声をかけることも難しいだろう。
「一度、話す機会を作りたい」
「カルロ、それは」
苦言を呈そうとしたバルトロメオを、シルヴィアの頭を撫でながら、カルロが視線で止める。
「ビアンカ様、が天使?」
「そうだよ。シルヴィアにも会わせてあげたい。すごく綺麗で、優しい人だ。それに」カルロがシルヴィアのくちもとに付いたクッキーの欠片を拭ってやる「シルヴィアみたいにお転婆じゃない」
「兄様酷い!」
ぷうっとシルヴィアが膨れて見せる。その天使にカルロが恋をしているということを、兄二人の前ではついわかっていない振りをしてしまう。「天使」は私のことなのに、とデアンジェリスを名乗るシルヴィアが、心の中で呟いた。
その後も、三人でお茶をしたり、お忍びで街に下りたりと今までと変わらない関係は続いた。カルロにくっつきすぎるシルヴィアに、バルトロメオが小言を言ったり、ちょくちょくビアンカ嬢の話題がでること以外に、大きな変化はなかった。
そんな三人の関係が大きく変わったのは、トゥスクルム家が伯爵位を賜った頃からだ。シルヴィアは、少し難しい顔をしたバルトロメオからそのことを聞かされた。
何か悪いことなのか、と不安そうに兄の顔を見ると、
「これからは『カルロ様』とお呼びしなくてはね?」
と、誤魔化すように笑って頭を撫でられる。
次にカルロがシルヴィアの元を訪れるまでは、大分間が空いた。今まではカルロとバルトロメオが互いの屋敷を行き来するのは同じくらいの回数だったのが、格段にバルトロメオがカルロの屋敷に行くことが多くなったためだ。
バルトロメオはトゥスクルム家を訪問する際にシルヴィアを帯同しないので、カルロがロッシの屋敷に来ないことには会うことはできない。
今までにないほど長い期間が開いて、やっとロッシ家にやってきたカルロは、最後に見たときとはガラリと印象が変わっていた。
それは、成長期のために急に伸びた身長のためだけではなかった。纏う空気が鋭くピリピリとしていて、今まであった少年っぽさがすっかり抜けてしまっている。少し賢しくて生意気な美少年風だったのが、今や厳しく有能な美青年といった風情だ。
見た目の成長はともかく、あまりにも変わったその雰囲気に、つい立ち止まってしまう。それでも、シルヴィアを見ていつもの様に「ルヴィ、久しぶりだな」と表情を崩して呼んでくれたから、シルヴィアは今まで通りにしようと努めた。
「兄様!」
と呼んでその腕に抱きつくと、びくともせずに片手でシルヴィアを受け止める。急な変化に内心戸惑っているシルヴィアは、いつもの調子を取り戻そうと、伯爵位を賜ったことへのお祝いを、いつもどおりの軽い口調で述べた。
途端、カルロの顔から表情が抜け、口元が強張る。変化を察知したものの、何がいけなかったのか分からないシルヴィアが、慌てて言葉を重ねる。
「バルトロ兄様ったら、兄様のこと『カルロ様って呼ばないと』なんていうのよ。そんなの急に難しいよね」
いつものカルロに戻って欲しくて、ことさら明るい口調を意識するが、カルロの醸し出す雰囲気は固くなる一方で、シルヴィアは更に焦る。
「あ、でも、やっぱり、身分が違うから、ちゃんとカルロ様って呼んだほうがいい、かな?ねえ、カルロ様――」
「やめろ」
突然強い口調で制止されて、シルヴィアがびくっと身体を跳ねさせる。完全に思考停止に陥ったシルヴィアはカルロの服の袖を握ったまま動けない。視線を合わせることもできないシルヴィアは、カルロの襟元を見つめたまま息を止める。
思わず潤みそうになったシルヴィアの瞳に、カルロがはっと我に返る。
「ごめん、ルヴィ。カルロ様なんてやめてくれ。他人行儀で悲しくなる。兄様が嫌なら、カルロと」
「いいの?」
ようやくいつもの調子で話し始めたカルロに、シルヴィアが身体の力を抜く。
「もちろん」
「じゃあカルロ」
「外では『カルロ様』だよ、シルヴィア。カルロも」
二人を見守っていたバルトロメオが年長者らしく窘める。
「そうだ、お前は外では俺を『カルロ様』とか呼んで、感じ悪い」
「感じ悪いはないだろ。外では他の貴族の目もある。ちゃんと、他に人がいないところでは今までどおりにしてるじゃないか」
兄二人の掛け合いを見て、シルヴィアはほっと息をついた。