(2)
シルヴィアが帰ってこない。
売り言葉に買い言葉で、朝喧嘩をしてしまったが、長い付き合いの中、あのくらいの言い合いはよくあることだった。それなのに、まさか真に受けて邸を出て行くなんて。
カルロは執務室内を、まるで動物園の動物のように同じ経路をうろうろと繰り返し歩いている。見ものを強く惹きつける美貌と、周囲の者を従えるカリスマ。神に愛された、帝国の若き皇帝は、戦場での彼を知る者が見たら驚くほど、いつもの余裕を失っていた。輝く金髪も幾分くすんで見えるようだ。
落ち着きのないその動きを、ノックの音が止める。入室を許可して平静を装い、入ってきた将校に報告を促す。
「昼間にご報告した海賊による襲撃事件ですが、その船に、平民とは思えない少女が一人で乗船したと言う情報が」
相手の言葉が終わる前に、カルロがひったくるようにして乗船者名簿を見る。
「――っ!」
アンジェリーナ・ディ・アズーロ
シルヴィアがお忍びで出かけるときに、良く使っていた偽名だ。初めにそれを聞いたとき――アンジェリーナが本人の家名からなのは明白だった――アズーロはどこからきたのか、と問うたカルロに、少しまぶしそうに自分を見上げながら「だって、カルロの瞳の色だから」と嬉しそうに笑った少女に感じた想いを、今でも昨日のことのように覚えている。
カルロは、娼婦の母から生まれ、初めは貧民街で育った。没落しかかった貴族だった父親は、カルロを産んだ母親の懇願を無視して初めはカルロを認知もせず、貧民街に放置していた。しかし、妻との間に子が出来ないままその妻が死亡。それから間をおかず、病で生殖能力を失い、これ以上跡取りが望めない状況に陥ったことで、手のひらを返してカルロを認知、実質後妻としてカルロの母を屋敷に入れたのだった。
そのような経緯だったから、カルロは初めから父レオナルドに反発しがちだった。そして、父との断絶は母親が当時の皇帝アウグストの目に留まり、差し出すよう言われたときに、レオナルドがあっさりと妻を差し出したことで決定的となった。逆らいようのない命令であることはカルロにも理解できてはいたが、少しの抵抗も見せずに唯々諾々と妻を差し出し、その見返りに伯爵位と領地を賜ったことが、彼には許しがたかった。後宮に入ったカルロの母は、その後亡くなるまでカルロと再会することは叶わなかった。
一方シルヴィアは、子爵ヴァレリオ・ロッシの妾であった母を亡くし、幼少期にロッシ家に引き取られた。ヴァレリオの正妻ジェンナが、シルヴィアの母とヴァレリオの関係が始まる前に亡くなっていたこともあり、本邸に引き取られた妾の子、で想像するような酷い扱いは受けなかった。ロッシを名乗ることは許されず、母の家名であるデアンジェリスを名乗ってはいたが、ロッシ家の跡取りであるバルトロメオからは実の妹の様に可愛がられ、父ヴァレリオもそれなりの愛情を持ってシルヴィアに接していた。
貴族になる前から、バルトロメオを兄、友人として慕ってきたカルロは、貴族となって帝都で過ごすようになってからはより一層バルトロメオと行動を共にするようになり、本当の兄弟のように過ごしていた。必然、ロッシ家に引き取られたシルヴィアとも早い段階で顔を合わせることになる。
急に貴族社会に放り込まれた妹を気遣い、慣れない環境に戸惑っていたシルヴィアを、そうなった元凶の父親よりもよほど親身にサポートしていたバルトロメオは、シルヴィアから「バルトロ兄様」と呼ばれて懐かれていた。
バルトロメオからシルヴィアを妹として紹介されたときに、シルヴィアは不安そうに兄の服の裾を引っ張って「バルトロ兄様」などと言ってバルトロメオを見上げていた。バルトロメオの弟を自認するカルロはそれが面白くなくて、「僕はバルトロメオの弟だから、僕はお前の兄さんだぞ!」と高らかに宣言した。はっと視線をカルロに向けてしっかり見つめ返したシルヴィアが、「はい、カルロ兄様」と素直に呼ぶものだから、面白くないと思っていたのも吹っ飛ぶし、顔は赤くなるしで初めから完全敗北だった。見つめあったシルヴィアの瞳は、バルトロメオと同じ色のはずなのに、宝石の様にキラキラと輝いて見えた。
海賊の根城は共和国と帝国が争う海域の近くだ。海賊船による襲撃の報告を受けて、当該海域には既に軍を向かわせている。遅かれ早かれ海賊は殲滅できるだろうが、捕らわれた民間人を全員無傷で救助できるかというと難しい。
現時点で既に損なわれている可能性もあるし、時間が経てば経つほど「無傷で」というのは難しくなる。海賊が彼らを人質として使う頭があればまだマシだが、既に売り払っている可能性もある。帝国も共和国も、人身売買および奴隷を禁止しているが、何事にも裏はあるものだ。
今すぐ、自ら出撃したい気持ちを抑えるように、手にした乗客名簿をきつく握りしめ、カルロはドカっと椅子に腰を下ろした。シルヴィアを守るために上り詰めたはずなのに、そのせいで助けに行けないという矛盾。反乱分子の残党狩りのためにバルトロメオが留守にしている今、カルロまでもが帝都をあけるわけにはいかないし、海賊狩りごときに皇帝が出張っていては障りがある。
カルロと、シルヴィアの兄であるバルトロメオは、カルロがまだ貴族ではなかったころに出会った。領地の視察をする父、ヴァレリオについてきていたバルトロメオが、裏路地で喧嘩をしているカルロを助けたのが始まりだ。喧嘩といっても、その目立つ容姿と賢さを行かした立ち回りのよさをやっかんだ仲間内でのリンチで、気の強いカルロが応戦したことで騒ぎになっていたのを、一対複数のうえ、その「一人」側が子供だったことでバルトロメオが見過ごせなかったのだ。
突然の貴族子息の介入を、加害者側はおろか助けられた側のカルロさえ快く思わず、怪我の手当てのため乗せられた馬車内で散々悪態を吐いていた。バルトロメオはそれを軽くかわしつつ、会話の中からカルロの賢さを見て取って、彼の好みそうな話題と知識を提供することで、警戒心剥き出しだったカルロの態度を軟化させ、その後も時折会うような関係を続けていた。カルロからすれば、教育を受けられる機会でもあったし、バルトロメオについていけばかなりまともな食事も摂れる。その上、隙があれば金目のものでも盗んでやろう、という下心もあった。バルトロメオのほうも、貴族の気まぐれの施しのつもりはなかった。領地内も最も治安の悪い場所で生活する子供への同情心はあったにせよ、目端の効くカルロが後ほど自分の役に立つ――それが忠誠心からでも打算からでも――であろうことを計算していたからこそ、あえて交流を続けていたところもある。
お互いの子供らしからぬ打算で育まれた友情は、あっという間に本物になった。年が近く、お互い同世代とは話が合わないレベルの頭脳を持ち、そして野心もある。身分を気にしないバルトロメオの性格も相まって、共通点の多い二人は何度も会ううちにすっかり意気投合して、互いを兄弟のように思うようになった。バルトロメオがお忍びで下町におりるときには決まってカルロが同行するようになり、二人で考えカルロが実行する施策によって、 あっと言う間にカルロの生活圏内の権力構造が変わった。もちろん、その頂点はカルロだ。
二人の友情は、娼婦であったカルロの母がレオナルドの後妻となり、カルロ自身も貴族に名を連ねたときも変わらなかった。後に身分が逆転したときも、バルトロメオは何の戸惑いもなくカルロを上位貴族として扱った。
カルロが「面白くないと思ってるだろ」と詰め寄っても、「そんなことない。生活環境が改善されてよかったと思ってるよ。貴族生活で困ったことがあれば力になる」とさえ言って、突然の環境の変化に荒れがちなカルロを親身になって支えた。
言葉どおり、公の場でバルトロメオはカルロに対して、常に自分より上位の相手として敬意を表していたし、私的な空間ではカルロの要望どおり昔どおりの兄と弟のような距離感で接していた。
最愛の人の無事の報と、最も信頼する友の帰還を、カルロは執務室でひとり待った。