(11)
帝国の前皇帝は好色で有名で、在位中、後宮は増設に増設を重ねられた。当初は、諸侯から差し出される女達に手当たり次第に手を出していたようだったが、そのうち様相が変わってきた。初めの頃は、本人はともかく、その家としては積極的に後宮に入れたがっている、という事情のものだけにとどまっていたのが、差し出される女達には目もくれなくなり、代わりに諸侯の妻や平民、踊り子などから後宮入りするものが増えた。
問題だったのは、その者達の出自より、ほとんどの者がそれを望んでいなかったことだ。妻を取り上げられた夫は、皇帝からの見返りを期待して、もしくは懲罰を恐れて声を上げない者、抗議して処罰される者、場合によっては挙兵するものも現れた。
しかし、帝国軍は強大で、皇帝の権限は絶大だった。私兵団を擁する貴族が複数でかかっても、皇帝はびくともしなかった。
カルロとバルトロメオが最も恐れたのは、シルヴィアを召し上げられることだった。最後の頃には、皇帝は女達を最早「収集」しているといった様相で、髪の色や目の色が、後宮にない者を召し上げるようになっていた。その点で、シルヴィアは最も狙われやすいと言ってよかった。ロッシ家の証である赤い瞳を持つ女性は現状シルヴィアだけであったし、母親譲りの銀髪も、金髪や茶髪の多い帝国内では珍しい部類だった。一度でも皇帝の目に触れさせては危ない。そうでなくとも、どこからか赤い目の少女の噂が皇帝の耳に入らないとも限らない。父親であるヴァレリオが進んでシルヴィアを差し出すとは思えないが、皇帝のお召しがあって拒絶できるほどの権力は、ロッシ家になかった。
どうあってもシルヴィアを守りたかった二人は、皇帝を上回る権力を求めて軍部での地位を駆け上がってきたのだ。
「シルヴィアが?」
帰還して真っ先にカルロへの報告に上がったバルトロメオが、妹のことを知らされて表情を変える。
海賊に追いつく前に共和国側の海域に入ったため、その討伐のために向かった軍はその海域手前で待機中という追加情報も共有される。
難しい顔をして考えこんだ様子のバルトロメオが、すっと顔を上げてカルロを見る。
「カルロ様。場合によっては見捨てる選択も」
「は?」
ディナーのメインディッシュを選ぶ程度の深刻さしかまとっていない表情と、紡がれた内容がそぐわない。一瞬、カルロが間の抜けた声を出すが、次の瞬間には怒りに満ちた声に変わる。
「俺にルヴィを見殺しにしろというのか!」
「そういう手もある、と申し上げているのです」
カルロから発せられる怒気には全く揺らがず、バルトロメオの表情は変わらない。
「お前、それでもルヴィの兄か!!」
胸倉を掴みあげる勢いで、カルロが食って掛かる。自分よりも少し身長の低いカルロに睨め上げられて、バルトロメオは微動だにしない。
「兄だからです。貴方が、それを選択肢に入れてくださっていれば、わざわざ口に出しませんよ」
バルトロメオの言うとおり、カルロの中にその選択肢は端からない。どういう無理を押し通すか、という種類の選択しかなかった。だから、この微妙な時期に、共和国海域の手前に軍を待機させたままという危うい状況になっているのだ。そもそも、バルトロメオの帰還予定の直前だったからこそここまで耐えたのであって、そうでなければシルヴィアを連れ戻せる確度の高い強行策を採ったに違いない。
海賊船に乗っていたのがシルヴィアでなければ、共和国の海域に入ったことが確認できた時点で、少なくとも軍は呼び戻している。
「そもそも、陛下と口論して飛び出すなんて、あの娘が悪い。躾けのなっていない娘で、陛下には大変申し訳なく思っております。このような事態になっていなければ、一度こちらにお戻しいただいて、実家で躾けなおすご許可をいただけるようお願いするところです」
表情を変えないまま流れるように告げられた謝罪に、カルロは落ち着いて見える盟友がことの次第にそれなりに怒っているということを察して、彼を睨め上げていた姿勢から一歩下がって、ばつの悪そうな表情になる。
「……すまない。ルヴィとの喧嘩も、俺が悪かったんだ」
シルヴィアが一人で船に乗るようなことがなければ、そもそも起き得なかった事の発端を、カルロはバルトロメオが戻るまでの間に既に何十回と後悔している。
今にも殴りかかる勢いだったカルロが悄然と俯く様を見て、バルトロメオはふっと息を吐く。他に目がある時にはしない、弟をみるような表情になる。
「冷静に、シルヴィアを取り戻す算段をつけましょう。私だって、可愛い妹を連れ戻したい」
「なぜ、シルヴィアと喧嘩を?」
当面の共和国への出方を一通り話し終えて、部下に指示を出した後、執務室のソファーに完全に背を預け、ぐったりと天井を仰ぐようにしているカルロに、正面に座ったバルトロメオが声をかける。
「スフォルツァ公爵の娘のことで……いや、違う。結婚してから窮屈な生活をさせていることと……なぜ、結婚したのかと聞かれた」
視線を天井に向けたまま、シルヴィアとの最後の会話を思い出す。
「――どうして私と結婚したの?」
微妙な立場なまま、今までより窮屈になった王宮での生活への不満をカルロにぶつけたあと、シルヴィアは視線を少し横にずらして、目を合わせないまま問うた。
本当なら、カルロが執務を終えて私室に戻ってから聞くはずだった。けれど、結婚してからというもの、カルロはその時間の多くを、執務室を初めとする公の場で過ごしてほとんど私的な空間へ戻ってこなかった。
シルヴィアとの寝室にさえ来ないカルロとは、結婚前よりもさらに顔を合わせる回数が減っていた。焦れたシルヴィアが、執務前のカルロのところに突撃した形だ。
「好きだからに決まってるだろ」
その答えが、「妹として」と注釈つきで聞こえるだろうことを、カルロは認識していた。 シルヴィアが自分に、「兄」以上の気持ちを抱いていないことは分かっていたが、逆に「兄」としてであれば実の兄であるバルトロメオを除いて他の男性は及ばないほどの好意を寄せられていることもわかっていた。そこに付け込んで結婚まで持ち込んではみたものの、そのことに対する罪悪感も、ゼロではない。
呼べば膝の上にも乗り、腕に抱きつくように寄り添って甘えてくるシルヴィアが、自分を意識しているとは思えなかった。安心しきったその様子と、自分が要求したまま続いていた「兄様」という呼びかけも、それを表していたと思う。それでも、シルヴィアが自分以外の誰かのものになることなど、想像ですら許せなくて、色々言い訳をして妻にした。
母を奪っていったアウグストから、そしてカルロやバルトロメオとの結びつきを狙う貴族から、シルヴィアを守りたかった。皇后にさえなってしまえば、余計な横槍は入らない、入れさせない。そこでもし、シルヴィアが本当に想う人ができたなら。アウグストがしていたように、「下賜」という形も取れる。白い結婚であることは、後からでも証明されるだろう。
誰にも渡したくないと思うのに、もしそうなったら、という誰のためにかわからない逃げ道を作ったが、それがカルロ自身を追い詰めた。いざ、いつでも触れ合える距離にシルヴィアがいることになって、カルロのほうが今までどおりではいられなかった。シルヴィアの方は、きっとなんの躊躇いもなくベッドでもカルロの隣にもぐりこんでくるだろう。それが分かるだけに、カルロはシルヴィアを避けてしまっていた。
カルロの返答に顔を上げたシルヴィアの表情は、彼女がその回答に納得していないだろうことを物語っている。
「では、ビアンカ様のことは?」
「ビアンカ?」
とぼけたつもりはなかった。本当に一瞬誰のことかわからなかったのだ。
「スフォルツァ公爵家のご令嬢です。ずっと、天使と仰ってたじゃないですか」
話し始めよりも丁寧になった言葉遣いに、シルヴィアがカルロに感じる距離が現れる。
シルヴィアの説明に、ようやくカルロがビアンカを思い出す。
そういえば、そんな話をしていた時期があった。確かに、一時期初恋かも、と思っていたことも思い出すが、その記憶に付随してくるのは、天使<ビアンカ>のことではなく、シルヴィアのことだ。
シルヴィアに惹かれている自分を自覚していたカルロは、全く自分に対してそんな様子を見せないシルヴィアの反応を見たかったのだ。実際初恋だったのかもしれないけれど、シルヴィアの前でその話をしたときには、もうそういう類の感情ではなかった。からかえばちょっと拗ねてみせるシルヴィアの反応は悪くないけれど、やはりそれは男女を意識したものではなくて。何も意識していない様子のシルヴィアとのスキンシップは、カルロの余裕をじわじわと奪っていた。
ビアンカをわざわざ「天使」などと形容したのも、シルヴィアを意識していて、その反応を見たかったからだ。諦めきれずに、ちょいちょいビアンカ嬢の話題を出してみたけれど、期待したような反応は得られなかった。そのうち、母が後宮に召し上げられ、シルヴィアにさえ会う時間がとれなくなったカルロは、彼女のことを忘れていた。
「そんなこともあったか。なんにしろ、昔の話だ」
「でも、ビアンカ様は、まだカルロのことを好きだって」
「ビアンカ嬢が?まさか。皇帝を、の間違いだろう。公爵家は今、俺に取り入りたくて必死なんだ」
「でも、カルロは」
「しつこいぞ」
「カルロには、ちゃんと好きな人と結婚して欲しい。私がそうできるようにしてくれているんだから、カルロだって―ー」
「……っ」
自分から申し出た条件だったはずなのに、実際にシルヴィアからそれを言われると「好きな人ができたら別れて」と念押しされたようで苦々しい。
「ビアンカ様にも言われたの。バルトロ兄様がいるのだから、私よりも公爵家から皇后を迎えたほうが政治的にも安定すると。私も、そう思――」
「守られてるのがわからないのか」
全てシルヴィアのため――。それが押し付けだということも、カルロは良くわかっていた。シルヴィアのためとは決して口に出すまい、シルヴィアを守りたい自分自身のためだ、彼女に恩を売るように思わせてはいけない。
ずっとそう戒めてきたことが、彼女の言葉で一瞬、はじけたように思った。
カルロから見たらなんの躊躇いもない様子で、自分と分かれて他の女と結婚する方がメリットがある、と力説されて、つい、言うつもりのなかった言葉が口をついてしまった。
「守ってなんて言ってない」
カルロが発言を撤回するより早く、シルヴィアが言い募る。
「家を、相手を、窮地に陥らせてまで守って欲しいなんて思わない。そんなの、皆そうだよ。カルロのお母様だって、レオナルド様のことを好きだったから――」
「黙れ」
急に低くなったカルロの声と常の喧嘩の時とは違う表情で、失言に気がついたシルヴィアが言葉を止めるが、もう遅い。
カルロの母親のことにまで言及するつもりはなかったのに。今は確認しようもないその気持ちについて推測して引き合いに出すなんて、してはいけなかった。
「カルロ、ごめんなさい。お母様のことは……」
一瞬で頭の冷えたシルヴィアが謝るが、金髪を掻き分けるように、片手を額にやって俯いたカルロは動かない。
感情のままにシルヴィアに怒りをぶつけないよう、興奮を鎮めようと深く息を吐く。それでも、口調は落ち着いているものの、口をついて出たのはそれなりに強い言葉だった。