2 覚醒そして
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硬い床、木の匂い。
意識が覚醒してハジメはゆっくりと目を開ける。そこには見知らぬ天井があり右足の部分にはふくよかな柔らかいものを感じる。
「頭が痛い。気を失ってたのか?」
ゆっくりと右を向くとそこは木造の六畳ほどの小さな一室だった。正面には戸棚が置いてありすぐそばには机と背もたれのない椅子が用意されていた。
「ここは、どこだ?なぜ、ここに寝ているんだ」
記憶が混濁している。覚えているのはコンビニでカップラーメンと弁当を買ったところまでだ。
「確か、ポンプの買い忘れに気づいて……、 ッテ!」
まだ頭が痛い。意識ははっきりとしているが今起きている事実をうまく受け止め切れていない様子だった。そして、ハジメはその硬いベットのようなものからゆっくりと体を起こした。
「あ、あら! あなた! あなた!よかった!すぐに先生を呼んでくるわ!」
その声の主はベットのそばにいた金髪の女性のである。彼女は私を見て安堵の表情を浮かべ駆け足で出口へと向かった。
「—誰だろう?」
そして、考える間も無く白衣を着た老父と先ほどの彼女が部屋へ入ってきた。
「よかった。ジーニストさん。意識が戻って……」
聞きなれない名前に見慣れない部屋、そして知らない人物。
脳が混乱し思っていることをうまく言葉にできない。
「あ、あの、あなたは?」
「私よ、ベイリーよ。あなた一週間も意識が戻らなかったのよ。心配したわ」
そう話す彼女の瞳は淡い青色でそのきめ細かい白い肌に皇后たる金色の髪。
服装は麻のような安価な物を纏っていた。そして何と言っても梨ほどのふくよかな胸。
(そうか、さっきのあの柔らかい物体はこれだったのか)
その間に白衣を着た老父は聴診器をあて心臓の音を聞いている様子だった。
「もう大丈夫だ!他に異常は見当たらない。でもでも、まだ安静にしてないとダメだからね」
老父は身長こそ高くはないが体格はずっしりとしており、腹は大きく前方に斗出して目つきはお世辞にも良いとは言えない顔立ちだった。そしてようやくここが診療所だと気づいた。
「でも、あなた本当によかった。もう意識が戻らないかと……」
こういう展開の時は決まって記憶が出てこない。記憶喪失のお決まり事というわけだ。
(ここで誰か聞くと余計話がややこしくなるよなぁ、でも黙っておくのも良くないしなぁ)
記憶はまだうまく思い出せないが本能的にややこしいことに巻き込まれると警告を発している。
(でも騙すのも悪いか)
「えーと、あなたは誰ですか?」
「私よ、ベイリーよ。覚えてない?あなたの妻よ」
「—はい?」
全く予想していない返答に思わず顔が歪む。彼女の困惑した表情もどこか愛おしく可愛らしいと感じてしまう。
「—僕は誰ですか?」
その言葉にベイリーは驚いた様子で両手で口を覆う。
目には涙を浮かべ淡い青色の瞳はより一層輝きを増している。
「先生!この人は本当に大丈夫なんですか⁉︎」
今にも涙を流しそうな彼女の瞳は目一杯に涙を貯めて老父の方へと視線を向ける。
「んーなんとも言えませんね。なんだって一週間も眠っていたんですから。まだ記憶がはっきりしていないのでしょう」
そういうと老父は私の額にそっと手を伸ばしてきた。
「熱はありませんし他のところに異常は見受けられません。もう少し、様子を見てみましょう」
そういうとスッと姿勢を直し何やらボードにメモを記述している。その間も隣の彼女は目にいっぱいの涙を抱え込んでいた。そんな様子の彼女を見ていると、なぜだか無性に抱きしめたくなる。そして彼女は涙をこらえながら僕に言った。
「あなたは一週間前に城壁から落下したのよ。そして、一週間意識が戻らなかったの」
「—城壁?」
「そうよ。街の南側の城壁高さ十メートルから転落したの」
それはおかしい。そんな高い場所から落ちれば良くて瀕死、死ぬことだって十二分に考えられる。そんな場所から落ちて一週間の意識不明で済むなんて奇跡以外の何物でもない。
「—!」
脳に衝撃が走る。まるで、頭に直接電極を差し込まれ電流を流し込まれたような感覚だ。
情報が一気に流れ込んでくる。見たことのない景色、嗅いだことのない匂い。
(あぁ、思い出した。僕は交通事故で死んでふんどしの変な奴に連れられてふんどしの変な奴に会って……)
「異世界転生だ!」
「はい⁉︎」
「なんだ⁉︎」
突然の大声に老父と彼女は腰が引けたように大口を開けて驚いている。
(しかし、これは困った。まさか転生した先が存在している人物に転生してしまうなんて。おそらく年齢は二十代前半から中盤。建物の様子と彼女の服装からすると中世ヨーロッパってところか)
冷静になり自分の置かれている立場を理解すると益々、不可解な点が多く存在している。そもそも、異世界転生というのは前世の服装や容姿そのままで転生する方法。二つ目は、前世の記憶そのままで赤子から始まる転生。今回はどちらにも当てはまらない。
(これは、あのふんどしガキンチョ神様のおかげなのか?)
「……てる、ねぇ!聞いてる⁉︎」
「あぁ!すみません!」
記憶に意識を集中させてしまうとまるで周りの声が聞こえなくなる。これは、前世からの悪い癖である。
そんな様子を見た老父が彼女に向けて言った。
「まだ意識が戻ってそう時間が経っていません。ここは少しお一人にさせてみてはいかがでしょう?」
(ナイス!爺さん!今ここにいられると少々面倒な部分もあるし……)
その言葉にあまり気が進まない様子だった彼女も、うつむきながら出口に向かう。
「あなた、無理はしないでね」
「す、すみません」
そうして部屋を後にした二人を見送り、もう一度状況を整理する。まず、はじめにここは異世界で日本から不幸な事故でこの世界の兵士に転生した鈴木 一。この世界の僕の名前はジーニスト。隣にいたのはおそらく婚約者であろうベイリーという名の女性。ふくよかな胸に綺麗な青い目。
「んー異世界って感じがするなぁ!」
その時、聞き慣れた通知音が鳴った。音の発信源を確認するとそこにはこの世界に存在するはずのないものが置かれていた。
「ス、スマホ⁉︎」
前世の記憶でいうと、この部屋や彼女の服装からしてこの時代にスマホが存在している可能性は限りなくゼロに近い。
「なんでこんなところにスマホが? ってか電波届いてるんだ」
おもむろに持ち上げたスマホの画面は前世でよく見慣れた液晶だった。その下には、この異世界が舞台のゲームの説明書が置かれていた。
「まさか、ゲームで使用するアイテムでスマホが存在している?」
説明書を手にしておもむろにページをめくる。そこには登場するキャラクターの説明やこの街の解説などよくあるただの説明書だった。
アイテム欄を確認してもスマホらしきアイテムは登録されていない。
「おかしいぞ!ゲームの中にスマホは存在していないということはこの世界のCPUが自ら作り出したっていうのか」
考えつく仮説は全て絞り出した。しかし、どの仮説も必ずどこかで矛盾が生まれる。唯一、最後の可能性はあのふんどしガキンチョ神様が僕にだけ持たせたか。しかし、それは現状の状況の証拠ではなんとも言えない。
「今はこの世界の知識をできるだけ早く取得していち早くこの環境に慣れなければ。ってかさっきの通知音は誰からだ?」
そのスマホにロックはかかっておらず特に細工をされた様子もなかった。そしてそのスマホの中には一通のメールが届いていた。
「ん?赤きたふさぎ?」
手紙には達筆な文字でこう書かれていた。
「ヤッホー、昨日は本当にすまなかったの。今回の件はこちらの不手際じゃ、全面的な非を認めよう。
そこでじゃ、お主に一つ伝え忘れたことがあってのぉ。
お主が帰ってから気づいたのじゃが、“お主の運命指導書が紛失していた。
理由はわからんなぜこんなことをしたのか、誰がこんなことをしたのか、この件は神域たるワシらがこれから調査していく予定じゃ。
そして、お主には言いづらいことなのじゃがなぁ、えーと”お主は地球から存在そのものが消されていた。死んだこともそうじゃがお主の存在していたありとあらゆる全ての事柄が抹消されておった。
これはあくまでワシ個人の見解なんじゃが、お主は神域たる何者かによって運命指導書と入れ替えられ、その存在していた事実そのものを消し去った。
そして、お主をこの世界に転生させた。今わかっておるのはここまでじゃ、だからのぉお前さんもそっちで十分に注意してくれ。奴らはまだ何か仕掛けるやもしれん。ホッホッホ、まぁ当分の間は大丈夫じゃろう。そっちの世界を十分に楽しんどくれ。
では達者でな。あーあと、このアドレスは送信専用じゃ。お主から送ってもワシには届かんぞぉ〜い。ホッホッホ」
「あのぉ!クソガキふんどし疫病神メェ!」
手紙に書かれていたことが事実だとしたらそれは僕にとってとんでもない不幸物語だ。思い当たる節は全くない。そもそもいきなり現れてふんどし一丁のお子様が生命の神と言われてもとても信じられない。
ましてや、神域に存在するものがなぜこんなごく一般的なニートをわざわざ危険を冒してまで殺させた。理由がわからない。
「そもそも神ってなんだよ!いきなり現れて間違えちゃったテヘペロじゃねーよ。そもそも、そんな人の命が懸かっている重要機密文書がなぜ盗まれるんだよ!こんなの「クレジットカードの個人情報が紛失しました」ってくらいのレベルじゃねーぞ!」
ショックはある。悲しい気持ちもある。
しかし、失ったものは帰ってこない。どれだけ足掻いてもどれだけ泣き喚いても失った命は帰ってこない。もし、その犯人を見つけ地球に変えることができるのであればこの世界で生きる為の活力になりかもしれない。
「過去には戻れないか。とりあえずの目標はこの世界の状況を把握して一日も早く生活に馴染めるようにならないとだな」
そんな決意を固めた時、部屋のドアからノックの音がした。
「—あなたは入ってもよろしいかしら」
「あ、あぁ、どうぞお入り下しい」
(やば!噛んじゃった!)
そう言葉を返すと彼女は水のようなものを持って部屋へ入ってきた。
「どこか痛いところはありませんか?」
「—あ、はい」
「どこか余所余所しいですわ、私はあなたの妻ですものこんな時くらい傍に居させてください」
そうして彼女はそっと僕の右腕を取り胸部を右腕に押し付けてくる。
(やばいやばいやばいやばい!十八歳絶賛思春期童貞中の僕にはこの右腕上腕二頭筋と上腕三頭筋をそっと挟み込むようなやらかな感触は即死級魔法の三倍の威力をはっきりしている!これはまずい理性が崩壊する前に。あぁどうしようどうしよう)
「—すまない。ベラシー心配をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」
(見たか!これが日本のトップカルチャーアニメを愛してやまないラブコメにわかオタクなりの切り返し方だよ。ふ、危なかったもう少しで理性というナイアガラの滝が決壊する寸前だった。ふぅ)
まさしく窮地に一生を得たとはこのことだ。という顔をしているがここで思わぬ失言をしたことに未だに気づいていないハジメである。
「—あなたぁ……。ベラシーって誰かしら?」
「—へ」
昔から友達が少なかった為、名前を覚えることが苦手だった僕は「ベイリー」を「ベラシー」と間違えてしまっていたのだ。ラブコメアニメ的にはここは少しじゃれあった後、「あなたが元気になってよかったわ」みたいな展開になるのだがあくまでここは現実世界。ハジメはどんな痛みも堪えることを覚悟した。
「さぁ!思う存分殴ってくれ!」
「—」
「—あなたは誰ですか?」
「—え」
目が覚めてからどれほどの時間が経過したのか。太陽は建物の影から半分顔を出し、辺り一面を燃え盛る業火の如く照らし、部屋に差し込む西日は寂しげな彼女の顔をそっと照らし出した。