23話
朝、目を覚ますと、みんな帰っていた。家村さんもその場にはおらず、森崎さんの気配もない。この事務所は俺一人となっていた。
スマホから通知が着ているのを確認すると、蕾から「ママが恋しいんでちゅかぁ。ウィスキーはママじゃないよー」とよくわからない文章が送られてきていた。それともう一つ写真も送られており、確認すると、俺がウィスキーに甘えるように抱き付いて眠っている写真だった。よく見ると額やら頬に落書きされている。俺はすぐに洗面所に向かって、その落書きを消すついでにシャワーを浴びる。
昨日のことを思い出す。大きな事件があった。大きすぎて、メディアにも乗せるわけにはいかなかった大きな事件。
その事件は何とも滑稽な最後を迎えたが、俺はその事件の端っこの方にちょこんと座っていた。事件の中心から吹き飛ばされた少女と共に――。
そして事件が隅っこに座っていた俺の元に収束して、どんちゃん騒ぎになって、そこで俺はもみくちゃにされて、そして――。
『私と結婚してください』
思い出して俺はうなだれた。
決して過去モテなかったわけではない。年相応の年齢に恋に恋する乙女に惚れた男として、経験してもいいかななんて軽い気持ちで承諾してもらって彼女を持ったこともある。
大学時代には告白もされていないし、してもいないがいつのまにか流れでお付き合いしていた彼女もいた。女性にはむしろ慣れている方だ。
何を狼狽えているのだ。俺よ。落ち着け。落ち着くのだ。このままでは風呂上りにまたウィスキーに甘えることになってしまう。
項垂れている俺の背中をシャワーの水が流れる。まるで滝業のようだ。
「うっ……」
普段から飲まないのに急に大量に飲むものだから胃がびっくりして吐き気を催す。
俺はそのままシャワーの中で吐いてしまう。
自分の生足にゲロがかかる。臭い。シャワーのお湯がさらにゲロを広げ、排水溝が混ざり合った液体を飲み込んでいる。その光景を見て俺はまた吐いた。俺は自分だけ浴槽に避難して自分のゲロを飲み込んでゆく排水溝をじっと見つめる。これは後で掃除をしなければならない。まったく情けない。
こんな情けない男がなぜ結婚などできようものか。
「なんともまぁ、余計なことを言ったものだ」
探偵、それはいつ何時もクールに、理性的に状況判断をするものを言う。少し剽軽なところのある探偵もいるが、基本的にはみな、落ち着いている紳士ばかりである。
と言うのに、とうの俺は年下の少女に告白されただけでこの慌てようである。
「はぁ……」
大きなため息が漏れる。その後俺は、ゲロが全て流れたのを確認すると、自分の身体を丁寧に洗った。
なぜか、今日はとっても丁寧に洗っておかねばならないと気持ちがそうさせた。
風呂上りに緑茶を啜りながらニュース番組を見る。やはり、ペットファームのニュースは地方ニュースにも乗らない。警察とヤクザの連携プレーの成せる業だろう。
「あっ、若林さん起きたんですね」
ドアがガチャリと鳴って、奥から明るい声がする。首だけを後ろに回して振り向くと、コンビニ袋を持った森崎さんの姿があった。
「家村さんたちは朝起きて二次会だぁーって言って出かけましたよ。三村さんと烏丸さんと」
「あぁ。そう」
「他の方は各自家に帰ったそうです。しっかり私が送り届けましたよ!」
彼女はなぜか誇らしげに胸を張る。
「私もこの事務所の一員ですからね」
「そうかい」
俺は冷静さを取り繕うためにそっけない言葉で返す。しかし、脳裏に浮かぶのは昨日の言葉ばかりである。
森崎さんは俺の隣にすっと座ってコンビニで買ってきたカフェオレをチューチューと飲み始める。
「二人きりですね」
森崎さんが冗談めいた表情をしながらこちらを見つめてくる。
俺は肩をビクつかせてしまう。思わず身じろいでしまう。
「そう怯えないでくださいよ。少し傷つきます」
「あっ、ご、ごめん」
「まぁ、無理もないです。昨日あんなの言われたら私が逆でも戸惑います。まぁ、私は喜びが勝っちゃいますでしょうが――」
またにんまりと笑う彼女に俺はどう対応していいかわからない。本当に蛇に睨まれた蛙である。
「実はですね。若林さん」
「な、何?」
「犬養さんに養子にならないかって言われていたんです」
俺はすぐに思い出す。昨日の打ち上げの時、森崎さんのところに犬養さんが訪ねていた。あの時にそのような話をしていたのだろう。
「今は緊急で自分が社長をやっているが、将来的には君が社長をするべきだぁーって。いくら親が反社会組織でも、彼らが作った会社の所有権は、その娘にあるべきだと。それに、犬養さんも私のことをとっても心配してくれて」
「いいことじゃないか」
「はい。16歳とはいえ、身寄りを失った私は、施設などで過ごすと言う道しかなかった。それは可哀想だと思った犬養さんの心使いだと思う」
彼女は隣で体育座りをしてカフェオレのストローを口で遊ばせる。
「だから本当は犬養さんの娘になって、勉強して、そのまま犬養さんから会社を受けつぐのがいいかなぁなんて思っていたんだけど……私もあの会社は大好きだし」
「それがいい。将来は敏腕女社長だ」
「ハハッ。なにそれ」
「森崎さんならなれるよ」
「うん。それもきっと楽しいと思う。けど」
「けど?」
「私は、この短い期間だったけれど、この町が、この探偵事務所が……。好きになりました。叶うなら、このままここにいたいなって」
「犬養さんの娘になってもここのバイトを続ければいいじゃないか」
「まぁ、それもそうなんですけど」
その後、森崎さんは恥ずかしそうにこちらをチラチラと見つめる。
体育座りで身体を丸めながらこちらを覗いてくる少女と言うのは、なぜこうも蠱惑的なのだろうか。俺もじっと見つめ返してしまう。
「ぷふ。若林さんのその顏見たくって」
「はぁ!?」
「家村さんが悩んだなら面白い方を選びなって言ったので! なんでもしてくれるって言ってくれた若林さんと、父親になってくれるって言ってくれた犬養さん。正しい選択は犬養さんの娘なんだろうけど、面白いのは……若林さんのお嫁さんかなぁって」
「いや、そんな大事なことを面白いで決めちゃあ――」
「犬養さんにはもうお断りの話はしているので、ここで私が振られたら孤独になって施設で住むことになってしまいますよ? この町にいられなくなるかも……」
森崎さんはわざとしくしくと言って泣き真似をする。俺はしどろもどろになってしまう。照れて良いのか困ってよいのやらわからなくて感情がぐちゃぐちゃになってそれこそ吐いてしまいそうだった。
「私が一人立ちできるまででいいんです。もし若林さんに好きな人でもできればその時は愛人OKです。私の年齢次第では離婚しても良いでしょう」
「いや、待ってよ。君が一人立ちすれば、俺はバツイチになるってことじゃ――」
「でも、若林さんなんでもするって言いましたよね?」
「いや、でも流石に未成年とは――」
「法律では結婚OKみたいですよ」
「それでも、その……」
「手出していないんだからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃない! そういうことを軽々しく言わないほうがいい! 君が思っている以上に君がしようとしていることは危険だって俺は――」
俺が彼女に対して怒ろうとしているのに彼女は穏やかに微笑んでしまっている。
「そういうところですよ。若林さん。貴方の奥さんなら、私は安心して自分を預けることが出来ます。実の両親よりも、優しい犬養さんよりも、若林さんに、私を預けたいと思ったんです。この薬物事件の中で、犯人よりも、市民よりも、薬物よりも、私を優先してくれた若林さんに――」
彼女の目は本気だった。どうやら反対しても彼女はあの手この手で俺を説得するだろう。
それに何度も断ると、それこそ俺が彼女を振ったかのようではないか。
彼女は魅力的な女性であることは事実だ。
「安心してください。戸籍上の関係です。若林さんが私のことをどう思っていても構いません。私が社会人になるまで、せめてそこまでは……貴方の名を貸してもらえませんか?」
俺はまだ渋った。ほんとに良いのか? 倫理的にどうみてもまずい。未成年の少女と結婚なんて、けれど彼女の決心は固く、俺の意思が脆い。
俺の渋っている表情を見て、森崎さんは勝利を確信したのか、さらに言葉を続ける。
「それに家村さん言っていました! この事務所……家族手当出ますよ! 2万!」
「に、2万……だと!?」
俺は驚愕した。2万もあれば諸々の電気ガスが賄える。それに仮に森崎さんのこの事務所でのアルバイト代も含まれれば――。
「家族手当が……4万になります! それに、私のバイト代も家計に含めますよ! 新しい調理家具欲しいとか、こないだ言ってませんでしたっけ!」
「んーっ!」
俺は端から見れば気持ち悪いであろうぐらい悶絶した。倫理観と家族手当の両方を天秤にかける。倫理観と家族手当。いったいどちらに価値があるだろう。当然! 家族手当! 収入が増えるのは魅力的。それに家村さんから毎月無駄に四万むしり取れると思えばこれほど爽快なことはない。
「はぁ……俺は、私、若林英知は、結婚しても、森崎メアリさん。貴方には手を出さないことを誓います」
「あっ、下の名前英知って言うんですね。知らなかったです」
「……これから夫婦になるのにね」
「ふふっ。そうですね。では、歪な夫婦になりますが、よろしくお願いします」
森崎さんは握手を求める。俺も気恥ずかしい気持ちになりながらそれに応えて彼女の手をぐっと握り返す。
こうして猫ちゃん消失事件は薬物問題、マフィアの抗争まで発展したが、解決した。
その事件の端っこで、俺は奥さんと、家族手当を手に入れた――。




