22話
探偵。それは中間職なのかもしれない。町の人たちと、警察の中間を司る。警察は罪を犯した者を捕らえることで、人々に罪を犯させないことで人々を守る。格好良い仕事である。
けれど、人々を苦しめるのは罪だけではない。そのために探偵がいるのかもしれない。それに、罪も、表に出なければ警察は手だしが出来ない。そのために探偵はいる。
警察や刑事では取りこぼしてしまう人の涙や怒りのために探偵がいる。人々の苦しみを警察に伝えるために探偵がいる。
だから探偵は最終的に事件の最後を見届けることは出来ない。
浮気調査ならば弁護士に事件を明け渡すことになるし、犯人は警察に明け渡す。
そこに一抹の寂しさを感じることはある。探偵は主人公になることはできても、大舞台に立つことはできないのだ。
「家村さん。この報告書を本当にファイルしとけと?」
家村探偵事務所は随分と賑やかになってしまった。
家村さん、漆原さん、烏丸さんが来ることは予想出来ていたが、そこに蕾、若奈ちゃん、三村さんまでやってきて、材料に不安を感じ、仕方なく勝雄さんと、生瀬さんに、食材を買い足したいと電話をすれば
「なら、それ直接持っていくから私達にも食わせろ」とこの打ち上げに参戦。
さらに家村さんが誘ったことで、犬養さんもやってきて、本当は来るはずじゃなかったのに、滞在したせいで帰りが遅く、心配したらしく迎えにきた漆原さんの部下の左近司さん。そして姉の佑子さんも酔いつぶれた漆原さんを連れ戻すことを諦めて、ご相伴に預かる形になってしまった。
計13人。この事務所にはたむろしていることになる。キッチンには俺と森崎さんがホスト側としてキッチンから料理を運んでいる。
先日まで猫の写真まみれだった広い事務所は、今や酔っ払いたちの巣窟と化している。
そして皆が食べている間に、報告書を作り終えた家村さんが「僕だと酔った勢いで無くしそうだから、君が持っていて、一応チェックしてね」と報告書を渡してきて、それを読み終えたところで、俺は大きく溜息が出た。
「なんて書かれているんですか?」
一通り調理を終えて、キッチンで騒ぐみんなを見ながらまったりしていた森崎さんが俺の持つ報告書を覗き込む。
俺はその報告書の内容に思わず眉を潜める。
家村さんはようやく己の仕事を終えたと歓喜の雄叫びを上げた後、三村さんと烏丸さんの間に入って自分用に買っておいたウィスキーをボトルのままガバガバと飲み始めた。
その様子に酔っ払いたちはゲラゲラと笑っている。
家村さんは今日あのウィスキーが酒一杯目である。すなわちこの報告書は酔った勢いで書いたものではない。
「だったらなおのこと質の悪い」
内容は、漆原家とスコティッシュファミリーの抗争についてだった。
ヤクザとマフィアの抗争についての報告書。あらすじだけ見れば任侠映画のようなハラハラドキドキを期待したいものなのだが、あまりに荒唐無稽過ぎて溜息が出る。
株式会社ペットファーム近くで漆原家が喧嘩を売る形で始まったこの両家の抗争。それと同時に警察組織による会社の家宅捜査。犬養さんの協力もあって、スムーズに会社内の調査は進んだ。
スコティッシュファミリーは漆原家との抗争に対しての身の安全の確保と、警察たちから逃れるための証拠隠ぺいを同時に行わなければならなくなり、それは至難を極め、悪事が露呈され、ファミリー自体も漆原家に敗北した。と言う内容だけならば想定道理なのだが……。
「なんですか? この天狗仮面って」
森崎さんが覗き込んだ文面に書かれている奇怪な単語を指さした。
「……そうだねぇ」
そう、家村さんの報告に書かれている天狗のお面を被った謎の人物牛若仮面。両家の抗争に突如現れ、まさに天狗の如き身のこなしで弾丸を躱し、ナイフを躱し、スコティッシュファミリーの者たちを翻弄し続けた。さらに何かにキレ散らかした漆原弁慶が天狗仮面を捕らえようとするもそれすらも華麗に躱し続け、戦場を荒らし回ったと言う。いったい何者なのだろうか。とか家村さんはわざとらしく書かれているが、これは明らかに――。
「まぁ、気にしないほうがいいんじゃないかなぁ?」
この会場に来た段階から酒をガバガバ注がれてでろんでろんになって運ばれてきた漆原さんの様子から、なんとなく察しが付く。
家村さんが面白がって漆原さんを行動不能にさせたのだろう。それでいいのか大人よ。
そして警察の家宅捜索の方でも、会社の上層部の一部署で薬物製造が行われていた証拠を見つける。発見者は蕾とその部下たちのようだが、問題はここからでその薬物を応酬している最中に、会社内に大量に野良猫が侵入。目当てはその薬物から放たれるまたたびの匂い。元々会社内で飼われていた猫たちも暴走して、警察たちはその対処に追われ、社員たちも飼い猫たちを落ち着かせるために必死に奔走し、中には犬養さんのように攻撃されまくって傷だらけになってしまったものもいるとか。
かたや天狗の仮面に、かたや大量の猫に、事件のシリアスさを思いっきり壊され、マスコミなどに聞かれるにはあまりにお粗末なニュースにペットファーム側も警察側もマスコミでの露出は禁句とし、全員が納得したそうだ。
もちろん。ペットファームを根城にしていたスコティッシュファミリーは全て警察により取り押さえられた。形式上の協力関係であってはならない漆原さんたちは警察たちが逮捕に乗り出すことには撤退していた。天狗仮面も風のように姿を消していた。
犬養さんの証言。そして会社を捜査した結果、会社全体がファミリーを把握していたわけではないことも発覚し、一般社員たちは順番に事情聴取として話を聞くだけで、罪に問うつもりもなければ会社の経営もなるべく続けさせたいと考えているみたいだった。
「なお、次期社長には犬養誠也を予定している……。犬養さん社長になるんですか!?」
俺は思わずリビングで生瀬さんに首ったけになってしまっている犬養さんに向かって叫ぶ。
「ははは、崖っぷちになる会社の名前だけの社長ですがね……」
「それでもすっごいですよぉ。さぁ、出世祝いに飲みましょう」
必死に情報規制を行ってはいるが、取引相手や漏れてしまった情報などから信頼を失ってしまうことはあるだろう。
なんせ幹部の大半がいなくなってしまったのだ。潜伏していた社員も含めると一気に社員数は減ってしまう。作業コストなども考えると、今犬養さんにのしかかる重責は想像するだけで胃が痛くなる。
「うん。犬養さんなら大丈夫だと思うな」
お腹を押さえている俺の横で森崎さんが嬉しそうに微笑んでいる。
「どうしてだい?」
「私、小さい頃にあの人に会っているんだけど、本当に動物のことが好きな人だったもん。むしろ動物ばっかり好きな人。最初あったとき私に思い出さなかったし」
無邪気に笑う森崎さんに俺も思わず笑い返す。
「ちょっと! 若ちゃん! ビール追加―!」
リビングから蕾の横暴な叫びが聞こえる。蕾は佑子、若奈ちゃんと三人で会話しながら飲んでいる様子であった。
「はいはい。持っていきますよー」
俺は冷蔵庫から缶ビールを二つ。りんご酎ハイを一つ持っていく。酎ハイは若菜ちゃんのものである。
「あぁ、私持っていきますよ」
申し訳なさそうに森崎さんが俺からビールを奪おうとするも、俺はこれを躱す。
「いいって。森崎さんも、ここに鍋の残りとか分けてあるから食べときな。あっち行くと酔っ払いに絡まれちゃうから」
「はぁ」
そういって俺は蕾たちにビールを持っていくが、ビールを置いた瞬間に、蕾が腕を肩に回してきてがっしりと俺を捕まえる。
「おらおら、お前ものめ! 若ちゃん!」
「俺は酒を飲まないって言っているだろうが!」
「健康男児やねぇ。若林君は」
「あぁ、でも同級生でも多いですよ。そういう子。大学の飲み会とかでも飲まない人」
俺と蕾の喧嘩を見ながら佑子さんと若菜ちゃんが会話を弾ませている。
「あら、そうなの?」
「はい! 無理して酒とかたばこは吸わないーって子多いです」
「へぇ。うちの子らなんか中坊で煙草吸ったりとかで大人ぶりたがりみたいなもんばっかりやから、文化の違いを感じるわぁ」
「あっ! 今刑事として聞きづてならない言葉が聞こえましたね! 佑子さんとこの舎弟の皆さん全員取り締まりましょーか!」
「怖いこと言わんといてな刑事の嬢ちゃん。ここでうちらと飲んでる刑事さんも大概悪いっちゅうの理解しいや」
「ぐぬぬぬぬ」
「まぁ、お酒が美味しいからいいじゃあないですか!」
二人の睨み合いに割って入るように若菜ちゃんが二人のビールをバンッ! と床に叩きつける。
「そうね!」
二人して置かれたビールを受け取ってそれを勢いよく開ける。
すると若菜ちゃんが勢いよく置いたものだから、泡が振り出し、床にこぼれていくし、俺を肩に抱いたまま蕾がビールを開けたので勢いよく飛んだ泡が俺の顏にかかる。
一気に気分が下がった時だった。キッチンに犬養さんが向かっていくのが見えた。森崎さんと何か話があるのかもしれない。
無理もない。片方は社長を失った会社員。片方は親を失った少女なのだ。積もる話もあるだろう。
「若林君。ちょっとこっちきなよ」
勝雄さんが呼んでいる。俺は蕾のヘッドロックを解いて、彼の元へ向かう。
彼の手もとには彼が持ってきた刺身が置かれ、漆原さんの部下左近司さんがもくもくとそれを肴に芋焼酎を味わっていた。
「これ、僕が漬けて持ってきたマグロなんだけど、食べてよ」
「ありがとう」
一つ直接手でつかんでひょいっと口に放り込む。しっかりと味が染みていてとても美味しい。これをご飯の上に乗せて、卵黄としょうがなんか添えたら最高だろう。
「そうだ。猫ちゃんたち。少しずつ町に出てくるようになったね。うちの親父が喜んでいたよー」
「しかめっ面で餌用意しているんだろう?」
「そうそう! 悪態付きながら」
勝雄さんと、彼の親父さんとの会話で盛り上がりながら、俺もみんなが食べ残している鍋やらなんやらを少しずつ摘まんでいく。
飲み会は、こういうみんな酒を飲み、語らう方が主になってしまい、食べ物が残る場合が多い。こういうのはあまり好まないので、積極的に食べていくようにする。自分で用意した料理ならばなおのことである。
「うう……」
「漆原さんぐっすり寝ているね」
この場がうるさいのか、唸っている漆原さんを見て俺と、勝雄さんは思わず失笑してしまう。
「真面目な方なんでね。こういう場には居たがりません。それを無理やり家村さんが連れ込んだんで、こうなっちゃいまして……」
「うちの上司がすみません」
「いえいえ」
左近司さんは丁寧に話しながらもよほど勝雄さんの刺身を気に入ったのか、黙々と食べている。
「良かったら、隣の部屋で寝かせましょうか?」
「あぁ、じゃあ。お言葉に甘えて、運ばせていただきます」
左近司さんはそういって立ち上がると、寝転がっている漆原さんを回収して、隣の家村さんが普段寝ている部屋へと運んでいった。
「僕の布団で吐かせないでよー!」
運んでいる左近司さんに向かって家村さんはゲラゲラ笑いながら言っている。吐かれてしまえばいいのに。
そんなことを思いながら勝雄さんの持ってきた刺身を味わっていると三村さんが俺を呼んでいた。俺は溜息を吐きながらそちらに向かう。
「いってらっしゃーい」
陽気な声をあげて勝雄さんは俺を見送り、自分の周りに人がいないことに気付き、同じく一人のみを楽しんでいた生瀬さんと合流していった。
「よぉ、若林! 鍋美味かったぜ!」
三村さんも酒を飲んでいるようで、大声で俺の料理を賞賛してくれる。
「あぁ、本当にうまかったよ。店でも始めたらいいのに」
「店と家で作るのじゃあ全然違いますよ」
烏丸さんの賞賛を軽く流しつつ俺は彼ら三人がたむろしている場所に腰を落ち着かせた。
「若林くん。君の出来ることはやったのかい?」
ウィスキーでほろ酔いになっている家村さんがとろけた瞳でこちらを見つめている。
「まぁ……出来たんじゃあないでしょうか」
「それならよかったよ。そうだ。報告書読んでくれた?」
「読みましたよ。なんだあのふざけた文書は」
「悪いな若林。あれ、本当のことなんだよ……」
俺が悪態をついているとなぜか烏丸さんが謝罪をしてくれる。よく見ると、烏丸さんのスーツはいまだに少しだけ猫の毛がついている。
「いえいえ、本当のことならいいんですが」
「若も来たらよかったのによ」
三村さんもゲラゲラと笑っている。
三村さんは烏丸さんと家村さんが仕事終わりに三村屋に寄って、この報告書の話と、俺が鍋を作って待ってると言うのを話して合流したそうだ。
「そうだね。あの現場に若林くんがいればもっと楽しかっただろうね。ハハハ」
家村さんはそうやって笑いながらウィスキーをコーラで割ってチビチビと飲んでいる。
「どういうことですか? それ?」
「猫にあたふたしている君が見たかったと言っているのさ」
「そうですか。そりゃ残念でしたね。でももしそうだったらこの鍋食えませんよ」
「それは困る」
そう言いながら家村さんは箸を持ってまだわずかに残っている鍋をつつき始めた。
烏丸さんが空いたコップに俺のためにコーラを注いでくれる。
「酒は飲まないんだったか?」
「飲めないわけではないんですけど、あとでこれ片付けるの、俺なんで」
俺は烏丸さんからコーラを受け取ってゆっくりと飲む。しばらく置かれているから炭酸が少し抜けていた。
「今回は大事になってしまって済まなかったな」
「いえいえ、これも仕事なので」
「おっ! 若も言うようになったじゃねぇか!」
烏丸さんとの会話に、豪快な笑い声を上げながら三村さんが俺の肩をバンバンと叩きながら入ってくる。
「家村の奴、ちゃんとやっているかい?」
三村さんが肩を叩くのをやめて、そっと俺の肩に手を置いて顔を近づけてくる。
「ちゃんとはやってないと思いますけど……探偵としての仕事はこなしていると思いますよ」
「おっ、褒めるねぇ」
その言葉を聞いて烏丸さんが驚いたように微笑む。
「あの人、普段はちゃらんぽらんだけど、やっぱり俺がここで仕事しようって決めるに値する人ではあったんだなぁと今回の事件で思い知りましたね」
「若林くん。ここ来て、どれくらいだっけ?」
「ちょうど1年くらいですかね?」
「1年間家村を見てそう言えるんだったら、あいつもしっかりやってんだな」
三村さんは納得したように俺の肩を離して日本酒を自分のカップに注いで飲んでゆく。
「俺と三村さんはあいつがまだ青臭いガキの頃から見ているからさ。ちょいと毎日一緒にいる奴からの意見ってのを聞いて見たかったのよ」
「そうなんですか? 学生時代の家村さんってどんな感じだったんすか」
「まぁ……今と変わらないよ。ほとんど」
「あぁ、そこがあいつがこの町に愛される理由だよ」
二人が穏やかな顔で酒を口に含む。
きっと若い頃の家村さんのことを思い出しているのだろう。
「でも、若い頃からああなら、結構なクソ野郎ですね」
俺がぼそっとそういうとしんみりしていた二人は勢いよく失笑した。
「そうなんだよ! あいつと漆原には何度注意をしたことか!」
「んで、俺の店であんたの悪口言っていたぜ烏丸さん! 主に家村の奴が!」
「いーえーむーらぁ!」
「えっ! なんですか! 烏丸さん。俺今鍋の残りを食べて――」
「ちょっとこっちこい! 久々に説教してやる!」
「なんで! なんで! そうだ! 漆原くんも一緒にお説教しましょう。昔はいつもそうだったじゃないですか」
「あいつは今熟睡中だよ。黙って叱られな」
烏丸さんのスイッチが入って、がみがみと家村さんに日ごろの鬱憤を晴らしている。きっとその鬱憤の大半は過去に家村に言いくるめられて奪われた大事な日本酒コレクションへの恨みであろう。言葉が止まらない烏丸さんを見て俺は、あの人だけは敵にしちゃあいけないなぁと感じた。
「さて!」
一通り順繰りに回った俺は空になった皿などを回収して回ってキッチンに戻る。
キッチンに戻ると、もう犬養さんもリビングに戻っており、森崎さんが一人しゃがみこみながらご飯をもぐもぐと食べていた。
「あっ、若林さんおかえりなさい」
「おかえりなさいってのも、変な気するけれど……。犬養さんと何を話していたの?」
「あっ、見ていたんですね」
「まぁ、犬養さんが入っていくのが見えたから」
「…………」
彼女はどうやら話しづらい話題のようであった。きっとこれからの彼女の人生について、犬養さんなりに考えがあって、それを彼女に伝えたのだろう。
「まぁ、君の好きにしたらいいと思うよ」
「私の……好きに」
俺は冷蔵庫からアイスクリームを取り出して森崎さんの隣にちょこんと座る。
「あっ、森崎さんも食べる?」
「いえ、私まだこれがありますので」
森崎さんは手に持った鍋の残りの入った器をちょいと持ち上げる。
俺はアイスの蓋を開けて食べる。甘くて冷たくて美味しい。
みんなが騒いでいる端で、静かに並び合う俺と森崎さんと言うのは変な空気感を抱かざるを得なかった。
「若林さん!」
「ん? 何」
彼女はぐいっと身を乗り出してくる。ブロンズ色の髪と青い瞳を思わず見つめ返してしまう。
「さっき、若林さんに出来ることならなんでもするって言いましたよね!」
「えっ、い、言ったけど」
「なんでもって言いましたよね!」
「えっ、何怖い」
「私、実は昨日の夜。家村さんに言われたことがあるんです」
彼女は再び僕から顔を離して座り直す。緊張しているのか、鍋の残りから韮を一本だけ取って口に入れる。
「悩んだ時は面白い方を選ぶといいよって」
「あぁ、あの人なら言いそうだ」
きっと彼は俺が何をしようと彼女が孤独になることはわかっていたからこその助言であろう。用意周到なんだか、ただの阿呆なんだか。
「…………」
森崎さんは再び黙り込んでしまう。
彼女の脳内では何か大きな選択肢があって、それのどれを選べばいいか考えているのだろう。
「家村さんの言葉通りだと思うよ。こんな状況だからこそ、笑い話になるくらいの選択を取った方がいい。大手企業に入って小金持ちにもなれたのにこんな小さな町の探偵事務所やっている僕が言うんだ。保障する。面白い方選んだほうが、人生は楽しいよ。しんどいことも多いけど……」
俺の言葉を聞いて森崎さんはしばらくぽかんとした後、ぷふっと失笑した。
「そうですね! 若林さん。同期の方とかに笑われたんじゃないですか?」
「笑われた笑われた。給料も全然違うんだもん。せっかくいい大学入ったのに学歴なんて不要なところに入っちゃうんだもん。教授とかも「本当にいいのか? 本当に?」なんて慌てて、その様子がまた滑稽で――」
俺の話に森崎さんはケラケラと笑っている。
その笑顔を見ていると、彼女が今両親を失った哀れな少女であることを忘れられる気がして、俺はさらに学生時代の情けない話を疲労する。
「はぁ。やっぱり若林さんは良い人です。うん。決めました!」
「ん? 答えは出たのかい?」
「はい。となると犬養さんに伝えに行かないと――」
森崎さんはよっと立ち上がり、自分が持っていた器を流しに置いてキッチンから出ていく。その際、振り返って俺の方を見る。
「なんでもするって言葉、撤回しないでくださいね!」
彼女はそういってニカっと笑った。
俺は何かとても嫌な予感がしてしまった。
その言葉の意味を深く考える間もなく、酔っぱらった蕾や勝雄さんがキッチンにやってきて絡まれてしまったので、彼女をあしらいながら、皿を洗ってゆく。
そして夜も更けて、アルコールに負けた大人たちはぐっすりと眠りこけてしまう。
猫失踪事件の打ち上げはこれにて閉幕となった――。
一人アルコールを取らずに睡魔に襲われていない俺はみんなが汚した者を片付けてゆく。
そこにもう一人、アルコールに敗北していない一人の少女。
「本当、お疲れさまです」
「森崎さんも、そろそろ寝なよ」
「そうなんですが、二人きりになるのをまっていたんです」
二人きりといっても、俺の脚に絡みついて爆睡している蕾と勝雄さんもそこにいるし、リビングには他の人たちがぐうーぐうーと眠っている。
「若林さん」
彼女は勝雄さんを踏まないように俺の隣に移動してくる。俺はまだ残っている皿を洗っている。
「私と結婚してください」
俺は水を流しっぱなしにしていたからハッキリは聞こえず、しかし、言葉の意味は理解して、洗うために持っていたお皿を持ったまま彼女の方を見て、硬直してしまう。
森崎さんは手を伸ばして水の蛇口を止めてこの部屋にある音は酔っ払いたちの静かな寝息だけになる。
「若林さん。なんでもするって言いましたよね? だから、私の結婚してください」
彼女の綺麗な瞳はこちらをじっと睨んでくる。まるで獲物を捕らえようとしている猫のようだ。目をそらすことが出来ない。何も言い返すことが出来ず、数秒の沈黙が続く。
「じゃ、詳しい話はまた明日にでも。お休みなさい」
森崎さんは早口でそういうとそそくさと自分の部屋へと移動していった。
俺はいまだに状況把握が出来ず、洗っていたお皿を置いて、泡まみれの手を水で洗い流して頬に触れる。とても熱かった。
「……どうしよう。これは眠れない」
俺はそれでも寝なければならないと思い、家村さんが抱き枕にしているウィスキー瓶を強奪し、キッチンでそのウィスキーをストレートで煽る。酒の力を借りなければ睡魔を呼び寄せることすらできない。それほどまでに俺の鼓動が上がっていた。眠たくなるまで酒を煽り、その瓶がなくなった辺りで俺もようやく睡魔を迎え入れることが出来た。




