21話
キッチンでゆっくりと調理をする。時間は夕方。午後17時。
調理と言っても本当に簡単なものだ。
既に家村さんたちが帰ってきてから食べるための鍋の下処理は済ませてある。
これはそれとは別。僕と、彼女だけの賄いである。
「ただいまぁ」
彼女はもう一月もここに通っているので、この言葉に何の躊躇もなく答える。
部屋に入ってくる彼女はキッチンでエプロンをつけている俺を見つけてとてとてと入ってくる。
「若林さん。なんかいい匂いがしますね」
「あぁ。今日の夜は家村さんの希望で鍋なんだよ。しかもたくさん人が来るかもしれない」
「打ち上げですか!」
「……まぁ、そんなところ」
彼女と話をしながらも調理を続ける。
小さな茶碗に白米を乗せて、鰹節を塗してゆく。
「それは何作っているんですか?」
「ん? いつ家村さんたちが帰ってくるかわからないから、俺と森崎さんだけの賄いさ」
鰹節がひらひらと舞うご飯の上に、醤油やごま油などを混ぜて作った合わせ出汁を上からかける。
森崎さんはその猫まんまの匂いを書いて思わず頬が緩む。
「いいですね。鍋の前の腹ごしらえですね!」
俺は猫まんまを二つ渡すと彼女は意気揚々とそれをリビングへと運んでいった。
俺は二つのコップに冷たい緑茶を注いで森崎さんの元へ向かう。
二人で向かい合って見つめ合う。
森崎さんは目の前のご飯と俺の目をちらりとみる。
流石に俺が食べ始めようとするまで、彼女も食べ始めるのに抵抗があるのだろう。
「あぁ、ごめんね。食べていいよ。いただきます」
「いただきます!」
向かい合って、二人で同じものを食べるのは実は珍しい。
いつもここに家村さんがいるし、三人の時は森崎さんは俺の隣に座ることが多い。
俺も猫まんまを食べる。うん、単純仕事だったけれど美味しい。
この料理を作ったのは、なんとなく。入りが良いだろうと思ったからだ。
この猫が巻き込まれた大きな事件の終着点に俺は立っていると、そう奮い立たせるために、なんとなく。猫に関する物を味わいたくなったのだ。
「森崎さん」
「な、なんですか」
俺は今、どんな顔をしてしまっているのだろう。目の前の森崎さんは、先ほどまでの笑顔は無くなり、警戒心を持ち、顔を強張らせている。
きっと、俺がそんな顔をしてしまっているのだろう。
「あの、どうかしましたか?」
「あぁ、いや。少しね……」
俺は次の言葉に悩む。
本当の探偵ならば、順序立てて理路整然と、今の感情も、状況も、主張も全て語ることが出来るのだろう。
まだまだ俺は探偵には程遠い。
「ねぇ、森崎さん」
「なんですか?」
「シュレディンガーの猫って知っている?」
「えっと……」
森崎さんは口の中に入っている猫まんまを飲み込んだ後、呆然と上を見つめる。
聞いたことはあるけれど、詳細は知らないと言った様子だろう。俺は咳払いをする。
「俺も詳しく知っているわけではないんだけれど、元々は量子力学の思考実験だっけか?」
「猫で実験をしたんですか?」
「いや、あくまで思考実験だよ。なんだったか、忘れたけれど、放射線を感知したら発生する毒ガスと猫を箱に入れて、その猫はガス以外では死なない。ってことにして、なんだったかな。そうそうラジウム。ラジウムから放射線が出てたら猫はガスで死ぬ。出なければ死なない。一時間に猫は死んでいるかどうか? ってやつだったはず」
「なんか、小難しい話ですね」
「俺も自分で話していてよくわかんなくなってきた」
「でも、なんか聞いたことあります。結局なんの話なんですか? そのシュレディンガーの猫って」
「えっとね。よく本とかで使われるのは、この箱を開けない限り、人間は『猫が死んでいるか生きているかはわからない』ってやつで、結局は確認しない限りは、わかりきっていても可能性は分岐してゆくと言うわけさ」
「はぁ……」
森崎さんは戸惑いながら緑茶を啜っている。俺も話の導入のために賢い話題でも出そうかと思ったが、よくわからない議題にしたせいでなんだか会話が覚束ない。
いや、違う。俺は逃げたいんだ。
箱を開けない限りは、中で猫は生きているかもしれない。死体を見るまではその人は行方不明であって、死んだわけじゃない。そう信じたい親族のように、俺も、この話題を切り出したくないのだ。
けれど、家村さんたちが帰ってくるまでに、俺は、俺だけは知っておかなければならない。
俺は緑茶をコップに残っている全てをぐっと口に流し込む。
「森崎さん!」
「はい」
森崎さんも状況を理解してくれたようで、じっと俺の表情を見つめてくれている。
いつもならば家村さんが遊んでいるかテレビを見ている賑やかな部屋も、俺と森崎さんだけだと、一切の音がなく静寂に包まれる。
わずかに下処理を済ませた鍋の匂いだけが俺達を刺激している。
「君に、確認しておかないといけないことがある」
俺はその一言を告げてしまった。この言葉を言い始めてしまっては、もう俺は箱を開けなければならない。
『森崎メアリ』と言う少女の真実を、受け入れなければならない。
「君はこれから、辛い状況になる」
「……というと、どういうことでしょうか」
森崎さんはじっと俺を見つめている。その目はさながらこちらを睨んでくる猫のようであった。これは猫に好かれるわけだ。
「今、家村さんたちは、君を孤独にする闘いをしている。」
森崎さんは目を見開く。俺は確信の部分を言うことが出来ずに、回りくどい言い方ばかりをしてしまう自分に心の中で舌打ちをする。
「私を……孤独にですか?」
「あぁ。俺はどうやら運がいいらしい。灯台下暗し。今回の猫たちの失踪事件。犯人は君なんだろう? 森崎メアリ。いや、真犯人は君の奥にいる。君のご両親だ――」
俺の言葉を聞いて、森崎メアリは悲しそうな表情をして俺のことを見つめていた。
この顔をさせたくなかったから、俺はそうである可能性と、そうじゃない可能性を両立させたかったんだ。俺は下唇を強く噛み締める。
「やっぱりそうなんだね」
「……どうぞ。続けてください。探偵さん」
森崎さんは辛さを隠し切れない微笑みを俺に向けている。俺はゆっくりと深呼吸をする。
「森崎メアリさん。貴方の両親は株式会社ペットファームの社長森崎夫妻で間違いないね」
「えぇ。その通りですよ。ペットファームで長年勤めている犬養さんが私の顔を知っていたのもそれが理由です」
「そして……株式会社ペットファームは隠れ蓑であり、本職は……マフィアだ」
「…………」
森崎さんは辛そうに顔を俯かせた。俺はここで話しを止めようかと思ったが、ぐっと生唾を飲み、彼女が再び顔を上げるのを待つ。
「はい。ブリティッシュファミリーと父は名乗っていました」
「そのことを知っているのは?」
「会社の幹部の7割ほどだけですよ。隠れ蓑なので、基本は善良な会社です。信じてください。犬養さんは無罪です――」
森崎さんはこちらに必死に訴えかけてくる。その目尻には少し涙がにじんでいた。
「落ち着いて。ここには俺と君しかいない。ボイスレコーダーもない。それに俺たちも犬養さんは白であるとわかっているよ」
「…………」
「ペットファームは動物のためにペットフードなどの開発を表でシノギとしつつ、裏では非合法な物を作っていた。それが薬物だ。そしてその薬物こそが、この猫ちゃんたちがいなくなった原因」
「はい……」
「君が家出した理由は……両親の事実に気付いたからかな?」
足が震える。人の内情に足を踏みいれることがこれほどに恐ろしいことだとは思わなかった。怖い。彼女を傷つけてしまうのではないかと震えながら、必死に言葉を探る。
「そうです。私は父と母がそういった立場の人間であると知った時、私怖くて家出をしました。最初は友だちの家を転々としていたんですけれど、そうも行かなくってーってしてたところを若林さんに拾っていただいた形です」
「わざわざ隣町までやってきて」
「そうです。地元だと父の部下たちに見つかるかも知れなかったので」
森崎さんも残った緑茶をゆっくりと飲み切る。
「おかわりいれるよ」
ゆっくりと立ち上がり、自分の分と彼女の分のコップを手に取り、キッチンで緑茶を足して再びリビングに戻る。
「ありがとうございます」
「ごめんね。したくない話をさせちゃって」
「いえ、いつかは話さないといけないと思っていたので……」
緑茶の入っているコップを両手でそっと包みながら、まだ少し残っている猫まんまを見つめている森崎さん。
「若林さんがそれを知っているってことは、最初に言っていたのは?」
「この町にもいるんだよ。所謂裏家業の方が、この町は裏家業含めて薬物はご法度らしくてね。警察も動いている。きっと今頃ペットファームは騒動の中心になっているだろう」
「若林さんは行かなくてよかったんですか?」
「俺は……ここで君と話をしないといけないと思ったから」
「そうですか」
森崎さんはその言葉の後、何も言わずに残った猫まんまを口の中にかき込んだ。
茶碗の上に箸をゆっくりと置いて両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
食べ終えてゆっくりと吐息を吐く。
「ありがとうございます」
「大丈夫かい?」
俺は話した後に彼女がもう少し動揺すると思っていたからこそ、少し戸惑っている。
彼女は俺が用意した猫まんまを食べ終えて、落ち着いた様子で俺を見つめている。
「はい。大丈夫ですよ。猫まんま美味しかったです」
「えっと、君の両親はこのままだと逮捕されてしまうんだよ。君の親族はいなくなってしまう。それでいいのかい?」
「若林さん。私、その両親が嫌で家出してきているんですよ?」
狼狽している俺を見てクスリと笑う森崎さんに俺は急に恥ずかしくなって、俺も残っている猫まんまを口にかき込んだ。
「若林さんはいいご両親に育ててもらったんですね」
森崎さんはそう微笑んで俺を見つめる。
確かに我が両親は、せっかくいい大学に行かせた息子が大手企業の内定を蹴って妙な個人探偵事務所に就職すると言っても笑って許してくれるような楽観的な夫婦ではある。
「会ってみたいです」
「いや、どうしてそうなるんだよ」
「絶対に面白い人じゃないですか。若林さんのご両親」
「いやいや、普通だよ普通」
「普通なことが、いいんですよ」
彼女は切なそうに微笑んだ。
俺はその微笑みを見て、ここに立った意味を再認識する。
「私、ペットファームって会社大好きだったんですよ。動物たちのために色んな努力をしている。とっても素敵なことだなって。そんな会社をやっている父と母を尊敬もしていましたが、実際は……動物たちを利用して色んな人達を苦しめていました。それに父はあの薬物を作るきっかけになったのは……私の体質からヒントを得たそうです。私、匂いがまたたびの成分に近いらしいですよ? なぜかわからないですけれど」
辛そうに笑う森崎さん。俺は身を乗り出して彼女を見つめる。
「そんな親です。娘の体質を心配するでもなく、商品価値を見いだすような親、こっちから願い下げですよ!」
彼女はわざとらしく怒った素振りをする。
「それに、私若林さんに出会ってからの日々、とっても楽しくて気に入っているんです。なので、この町の人たちにも危害が及ぶなら、私は両親を許せません。と言うことで、両親がいなくなっても私は気にしないのです」
彼女は陽気な声でそう言ってほほ笑むが、俺には多少強がっているようにも見えた。
彼女は俺が思っているよりもずっと大人で、この現状を受け止めようとしているのだろうか。彼女はとても強いと感じた。
「森崎さん」
「なんでしょうか?」
「君はこの後、両親がいない孤児になってしまうだろう。どうするつもりだい?」
「そうですねぇ。施設とかに入ることになりますかね?」
「……そうだね。君は16歳の未成年だ。何事も親族の支えが必要だろう。書類とか」
「そうですねぇ。まぁ、考えてみます」
「考えてみるって、何かアテはあるのかい?」
「優しいですねぇ。若林さんは」
思わずケラケラと笑い始める森崎さん。揶揄われているような気がして少し苛立ちを覚え、俺は緑茶を啜って心を落ち着かせる。
けれど、このように笑う彼女を見るために俺は事件の現場ではなく、ここを選んだのだ。
そう思うと、心が満たされたような喜びを感じる。
「森崎さん。俺に出来ることならなんでもするから、遠慮なく言ってね」
俺の言葉を聞いてきょとんとした顏で驚いている森崎さんはその後、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。若林さんがなんでもしてくれるなら、心強いです」
この町には珍しいブロンズ髪の少女の不敵な笑みに俺は思わず見惚れてしまう。夕方の日差しも相まって、やはり彼女は神秘的な魅力があるのだろうと実感する。
「じゃあ、そろそろ準備しませんか? 皆さんの晩御飯の!」
「えっ、あ。あぁ」
「部屋とかもしっかり片付けないといけないですしね。何人きますかねぇ」
森崎さんは立ち上がって、俺の分の茶碗とコップも一緒に持って行って流しに持って行った後、テキパキとこの後の食事会の準備をし始めた。俺はそんな彼女の快活さに圧倒されて戸惑うばかりであった――。
森崎さんはまるで新しいぬいぐるみを買ってもらった少女のように満面の笑みをしていたので、とりあえず、これでよかったのだろうと自分の選択は正しかったと思いこむことにして、俺も鍋の準備に取り掛かった。




