11話
幼い頃、よく漫画雑誌を貸してくれた兄ちゃんがいた。その兄ちゃんはアニメのカードをくれるし、俺に色んなことを教えてくれた。ゲームの裏技や週刊少年ジャンプを早く売ってくれるお店などを教えてくれる。俺たち少年にとって英雄だった。
けれど、親たちは警戒していた。だから俺たちは彼に関わるなと言われたし、きっと彼もそのように対応したのだろう。
わざわざ親に言われるのを面倒臭くなった僕らは兄ちゃんの住む家に近づくことは減ってしまった。
優しかった兄ちゃんはいつの間にか俺たちの町から、俺たちの周りから姿を消した。
単純に引っ越したのかもしれない。親が何かしらの排斥行動に出たのかもしれない。
あるいは本当に危ない兄ちゃんだったのかもしれない。
けれど、俺たちは、親なんかの言葉も、世間体も気にせず、その兄ちゃんと友だちでい続けるべきだったんだ。と大人になった今感じる。
もし、俺たちにそんな強さがあったならば、それはどれほど大きな輝きを持っているのだろう――。
「ウルにい! 遊ぼう!」
四畳半に突風が吹いた。ように感じた。
そう錯覚するほどに目の前の少女の快活な声が響き、圧倒的な存在感に飲み込まれてゆく。
「おいおい、若林くん。鳩が豆鉄砲喰らった顏して、ちゃんとこっちを見てぇー」
俺の前に家村さんの手の平がひらひらと移る。その手の平が四往復した辺りでやっと意識を取り戻した。
「はぁ、若奈。ここには来んなっつったよな?」
「えぇー、ここ広いから楽しいんだもん」
静寂であった四畳半から一変なんともアットホームな雰囲気への変貌についていけず俺は呆然としている。
「あっ、家村さんも来ていたんですね。こんにちわー」
「やあ若菜ちゃん。相変わらずだね」
「なんですかそれー、もぉー」
そして流れるように牛島若菜と呼ばれた少女は俺達と漆原さんの間に座って残っている雪の宿煎餅を齧っている。
彼女は雪の宿を齧りながら、呆然としている俺をじっと見つめる。
「あっ! 初めまして! 牛島と言います! 二十歳です!」
「えっ、あっ。わ、若林って言います。えーっと…23歳です」
突然挨拶されて、俺は動揺しながら、自分も彼女に倣うように自己紹介をするが、なんともぎこちなく、年齢まで言う必要あったのかと頭を悩ませた。
「ん? 牛島……若菜?」
俺は漆原さんが言った若菜と言う言葉と、彼女が名乗った苗字『牛島』の言葉を合わせて『牛島若菜』という名前に聞き覚えがあった。どこかで見たはずだ。あれは……確かロケ番組で――。
「……あっ! 陸上女子代表候補の若菜ちゃん!」
「あぁー、若林君はー」
思わず驚いて叫んでしまったことに対して家村さんが呆れたように溜息を吐く。
「えっ、あっ。わ、私のことご存じなんですか? いやぁー、お恥ずかしい」
照れながらも「えへへ」とにやけてその短く整えられた髪をポリポリと掻く少女は確かにテレビで見た。
陸上女子の世界大会でも結果を残し、オリンピック選手候補にもなっているプロの陸上選手牛島若菜であり、短距離走だけでなく、あらゆる陸上競技で結果を残し、テレビで話題となっている。
「えっ、いや。だって! すげえ! あ、あの円城さんにインタビューされていましたよね!?」
俺は思わず興奮した。円城さんとは、この地域でお昼前にやっているローカル番組『寄り道デイズ』の人気コーナー『町の天然記念物』でロケをしている芸能人である。俺は彼のロケが大好きなのだ。
「あ、会いましたよ。記念物認定されました」
「そのコーナー見ました! いいなぁ」
「えへへ。見られているとお恥ずかしい」
「ちょっと若林君」
横にいた家村さんに小突かれてしまう。そうだった。今は大事な仕事の話をしていたのだった。突然現れた有名人に思わず舞い上がってしまうとは、まだまだ社会人としての自覚が足りなかった。
「で? 家村さんとウルにいはなんで一緒にいるの?」
家村さんと漆原さんを交互に見てきょとんとする若菜ちゃんに漆原さんはまた大きなため息をつく。
「大事な話だ。若菜は帰れ」
「えぇせっかく来たんだから遊んでよー」
「だから、お前はここにくんなって言ったよなぁ!」
漆原さんが怒鳴る。俺が怒鳴られているのじゃないのに俺が思わずビクついて固まってしまう。
「ぷぷぷっ。ウルにい凄んでやんの」
自分がビクついてしまった漆原さんのドスの効いた叫び声に対してニヤニヤと笑う若菜ちゃんに俺は驚いてしまう。
「だーかーら! てめえは自分の立場を考えろっつっただろ!?」
「こう見えても報道陣を撒くのはうまいよ?」
「そもそも来るなって言ってんだろ!」
「いいじゃーん。別に。ねぇ、家村さん」
駄々をこねる若菜ちゃんに話しかけられた家村さんも少し引きつった顔をした。
「んー、これに関しては僕は両方の意見がわかるからなぁ」
あの家村さんが返事に困っているのが新鮮であった。
「大体家村! てめえも無暗やたらに俺の家にくんなって言ってんだろう」
「だって佑子さんが作ってくれるお茶漬け美味しいし」
「あぁー、私も食べたーい。姉さんの茶漬け」
家村さんと若菜ちゃんのこの遠慮のない様子に俺一人が戸惑っていた。
俺は口喧嘩をし始めた漆原さんと若菜ちゃんの隙を見て、家村さんに耳打ちをする。
「あの、なんで二人はそんなに漆原さんに馴れ馴れしいんですか? か、仮にもヤクザですよね?」
「あぁ、僕と漆原くんはね? 同級生だったんだよ。そして漆原くんと若菜ちゃんは……その、昔若菜ちゃんが漆原くんに喧嘩を売ってからの仲でねぇ」
「け、喧嘩ですか?」
「まぁ、あれだよ。よく絡んできた近所の小さい子って奴だよ」
「あぁー。なるほど」
この二人は年齢差があれど、いわゆる『幼馴染』というものなのだと言う。
「まぁ、若奈ちゃんのイメージとしては昔遊んでくれた親戚とか近所の兄ちゃんって感じなんだろうね。漆原くん的には、立場があるから避けたいんだけど……ご覧の通りさ」
「とにかく今は仕事中だから帰れ!」
「せっかく来たんだから遊ぼうよー」
「お前も同年代の友だちと遊んでろよ!」
「私はウルにいに会いに来てんだけど?」
「はぁ……」
さらに溜息を吐く漆原さん。
すると家村さんはなぜかニヤリと笑みを浮かべる。
「こっから面白いものが見れるよ?」
俺は一人何もわからない様子だった。
「左近司。いるか?」
「はい。ずっとおそばに」
案内してくれたスキンヘッドの男が襖を開けて頭を下げている。
「悪いが、ちっと若菜と遊んでやんないといけないから道場に移動する。ここ片しといてくれ」
「畏まりました」
「家村たちは……聞くまでもねぇか。どうせ見るんだろ。物好きが」
「そりゃもう。いやぁー。今日はラッキーだなぁ」
家村さんは終始ニタニタしながら立ち上がる。俺はまだ何も状況を把握しておらず慌てて立ち上がる。四人で屋敷内にあるという道場へと向かう。
中はとても広くとてもきれいに磨かれていた。
「本当は道着に着替えるべきなんだが……まぁ、いいだろ」
「僕らはこっちで観戦だ」
「か、観戦?」
家村さんに手を引かれて、俺たちは道場の壁沿いに行き、正座で座る。
漆原さんと若菜ちゃんは何度もやっているかのように慣れた様子で一定の距離を保ったのに、二人とも互いを見つめる。
若菜ちゃんは丁寧にストレッチをしている。
「おら、若菜。使え」
漆原さんが懐が若菜ちゃんに向けて何かが投げつけられる。宙を舞っているそれは懐刀であったが、それは地面につくと刃が柄の中へ沈んで、刃が出てきて跳ねる。玩具のナイフである。
若菜ちゃんはそのナイフを懐に入れる。
「俺はこっちを使う」
一方の漆原さんは小さいピストル型の水鉄砲を持っていた。
「ビービー弾のモデルガンでもいいのにぃ」
「当たり所悪くて未来のスター選手の選手生命を潰すほど俺も落ちぶれていねぇよ」
この水鉄砲は良く出来ていて、実際のピストル同様に引き金を引いて空気が入り、発砲すると勢いよく水がかかるのだ。
「まぁ、こんなん使わない方がいいんだけどな」
そういって水鉄砲を懐に戻す。
しかし、それはいつでも懐から出せるようにもしている。
「さア、いつでも来い」
漆原さんが構えずにまったりとした恰好で若菜ちゃんを挑発する。それでも若菜ちゃんはストレッチを続ける。
「あれはね? 若菜ちゃんが漆原くんを殺すゲームなんだよ。若菜ちゃんが漆原くんの心臓をあのおもちゃで一突きできたら若菜ちゃんの勝ち。それを阻止して若菜ちゃんを無力化したら漆原くんの勝ち。ねぇ? 見る分には面白そうでしょう?」
家村さんはそういってニヤニヤして眺めていた。
俺はいまだにこの流れについていけず戸惑っていた。
若菜ちゃんがストレッチを終える。まだナイフは出さない。
「じゃ、はじめ」
そんな軽い様子でいいのかと戸惑ったけれど、家村さんの言葉と同時に二人の目の色が変わったのがわかる。
最初に動いたのは若菜ちゃん。速すぎる。
そこからは本当に一瞬のことであった。
もし俺が神様であるならば、彼女たちの一挙一動を見極めることが出来たのだろうが、生憎俺は記憶力がいいだけの人間である。
一瞬のことである。若菜ちゃんが漆原さんに向かって走った後、見事なステップで漆原さんの後ろに回り込んでいつの間にか出していたナイフで背中から心臓を一突きしようとしていたところまでは見えた。
しかし、その瞬間には既に若菜ちゃんは投げられ、ナイフを持った手は抑えつけられ、額に水鉄砲を突きつけられている。
「こんな小細工覚えている暇あったらもっと脚鍛えろ」
「言われなくても鍛えているし」
若菜ちゃんは頬を膨らませて不機嫌そうにする。漆原さんは抑えつけたままナイフを奪い、回収する。
「はい。またまた漆原くんの勝ちー」
ははは。と笑いながら家村さんが慣れた様子で見る。
「なぁー! 悔しい! 悔しいー!」
「こんなんにムキにならずにもっと世界を見てだなあ」
「ウルにいに勝つまでやるの!」
「はぁ……」
確か、インタビューの時に20歳と答えていた気がする若菜ちゃんがまるで小さな子どものように駄々をこねている様子はなんとも面妖であった。
「よし! じゃあゲームで!」
「はいはい」
その後、漆原さんの部屋に行って格闘ゲームをする二人を見守るも、10戦やって10戦漆原さんが勝利を収めてゆく。
「次はカードゲーム!」
これも結果は同じ。
「テニス!」
これも結果は同じ。
「カラオケ!」
これも結果同じ。
「酒飲み勝負!」
これもまた結果は同じ。
「なんでぇー。勝てないのぉ」
しばらく見つめていた俺たちは酔いつぶれてふらふらの若菜ちゃんに駆け寄る。
「はい。これにて今日の勝負は終わりー。立てるかい?」
家村さんが優しく若菜ちゃんを抱きかかえる。ここまで諦めずに勝負を挑む彼女の熱意はどこから湧きあがっているのだろうかと俺は思わず苦笑いをしてしまった。
漆原さんは溜息を尽きながら勝負に使ったウィスキーを舐めている。
「流石プロの陸上選手なだけあって負けん気が凄いですね」
「だから、その負けん気をこんなところで使わせるのが勿体ないんだよ」
漆原さんはまた溜息を吐く。もう俺の中では漆原さんは溜息ばかりで少し親近感がわいてしまった。
「左近司、とりあえず寝室に運んで姉貴に色々用意させてくれ」
いつの間にか部屋にいた左近司さんがよってフラフラの若菜ちゃんを丁寧に抱きかかえて去っていった。
疲れたのか、漆原さんは煙草を取り出して吸い始める。
「煙草吸うんですね」
「あぁ、仕事じゃないオフの時間にな」
煙草の煙が安堵の吐息を可視化させた。漆原さんから漏れ出る煙そのものが彼の苦悩を現しているように感じられた。
「若林君。あんたも吸うかい?」
「すみません。俺も吸えないんですよ」
「ならいいさ」
もう一度味わうように吸っている。
「オフの時に吸うなら若菜ちゃんが去る前にも吸ったらいいじゃないですか?」
「……国の宝みたいな肉体に毒入れるわけにはいかねえだろ」
俺は目を丸くした。この人、もしかして滅茶苦茶良い人なのではないか。
こんな家村さんと長年の友人を出来る人な上に、若奈ちゃんとの勝負も全てしっかり相手した上で若菜ちゃんの心配をしている。
その人の良さに俺の心は涙が流れた。
「あの、漆原さん」
「なんだ?」
「今度、またここに愚痴とか言いに来てもいいですか?」
「いや、ここにはくんなよ。お前ら頼むから俺が任侠もんであることを理解してくれよ。どっかの飲み屋なら付き合ってやるから」
「うっす。兄貴」
「漆原くんは人たらしだよねぇ」
「てめえに言われたかねぇよ」
煙草を灰皿に抑えつけて火を消す。
「とにかく、変なのにつき合わせちまったな。さっき頼まれたもんはこっちで調べてみる。てめえはてめえで自分の調べなきゃなんねぇもん調べとけ」
「ありがとうねぇー。じゃあ若林くん。そろそろお暇しようか」
「姉貴の茶漬けはいいのか?」
「今日は仕事で来ているからね。それに一人お留守番させている子もいるから」
「へぇー、新人さんかい」
「そう! 若林君が連れ込んだ綺麗な女子高生!」
「へぇー、若林くんも隅に置けないな。今度こっちから挨拶に伺おう」
「流石にここに堅気の女子高生を連れてこれないからね」
「その常識を己自身にも持ってくれ」
漆原さんは家村さんに対して溜息を吐いた。
「じゃ、またここにスト2やりに行くから」
「だからそゆのやめろって言ってんだろ」
「はいはい。じゃあ調査よろしくね」
「あいよ」
そういって俺たちは漆原さんの家から去っていった。屋敷が持つ独特の緊張感に、若奈ちゃんの嵐のような到来に、この日全ての体力を使い尽くしたようにふらついた。
「若林君随分お疲れだね?」
「まぁ、今日はちょっと色々あったので」
「なら帰りは出前でもとろうか」
「あぁ、そうしましょうか」
そんな風に今晩の献立を考えながら二人で歩いてゆく。
日が落ちてゆく。初めての人と出会うことはやはり体力を使う。けれど不思議な高揚感がある。
裏家業の人間漆原弁慶さん。
プロ陸上選手の牛島若菜ちゃん。
彼ら二人とのつながりを俺は離さずにいられるだろうか。
彼らだけじゃない。この町にきて一年経つが、ここで出会った人たちと友人であり続ける力を俺は大人になった今、持ち合わせているだろうか――。
横にいる家村さんはそんな強さを持っているんだろうと感じて少し嫉妬した。
こんな家村さんも、いつの間にか手放してしまった誰かがいたのだろうか。
お気楽そうな顔で歩く家村さんを見つめながら、そんなことを考えた。




