001 茜
季節は巡りに廻った、時の間に。
私が、今もなお思うことは……
ああ、人はどの時代も同じだ、ということだ。
愛を知れば、それを形にしたいと願い、未来に映る自分と相手との、そこはまるで楽園のような甘い夢を見るのだ。
そんな儚い幻想を見るのだ。
だが、そこにはほんのひとかけらの不安も疑心も並行して生まれてくる。
そしてその愛は、突如として崩れ去る事がある。
うまく形を作れずに終わった、物語がある。
人は愛に狂い、その甘い夢を自らの手で壊してしまうことがあるのだと。
それでも、形にできる愛があるということを私は知っている。
この地に住まうある一族を見てきて、私はそれを知っている。
彼らも長い年月の中でそれぞれがそれぞれに人生をまっとうした。
そこには語られぬ物語がある。
語られぬが、ちゃんと形をなした彼ら、人の物語がある。
過ぎた鬼はそれを観測する。
私は鬼になったあの時から、いや、鬼の女と呼ばれたあの頃から、誰かを愛することなど望まれなかったのかも知れない。
望んではいけなかったのかも知れない。
あの時、私が望まなければ、彼も私もお互いに、一番残酷な終末を終えずに済んだのかもしれないから。
これは、そんな私がまだ人であったころの話だ――
時は平安、人が行き通う、さびれた下級の通り。
田舎にある小さな商店街だが、それなりに賑やかに栄えている。
そこに、ある少女はひっそりと、身と息を忍ばせながら、その様子をじっと虚ろな目で……とげとげしい形相で、人の流れを見定めている。
彼女の身なりは、ところどころ薄汚れ、布が破れた丈の短い着物を一枚申し訳程度に着たというもの。
そして、彼女の赤みがかった髪は無作為に伸ばされ、見るもみすぼらしいその姿。
そんな様子からその少女が決して裕福ではない、粗野者だということが著しく分かる。
彼女には親がいない。
家がない。
頼れる人間もいない。
そんな、独り身の少女は、今、まるで野良ネコのように隅の方へと身を潜め、ある瞬間を待っていた。
店が出されている、その通り。
そこにひときわ目立つ、裕福そうな風貌の男が通りかかった。
見るからに毎日のようにうまいものを食しているような、大柄で太った男だった。
その男がある小道具を売っている店の前に立った時、彼女は動き出した。
男が懐から金銭袋を出したとき、その一瞬のすきを狙っていた。
彼女は走りだす。
それは俊敏に、きわどく行われる。
決してしくじってはいけない。
彼女は素早く、男の手からその金銭袋を掴み取ると、そのまま駆け出す。
「おい、待て! この盗人!」
男は後を追ってくるがその太った姿態では、追いつけないだろう。
うまくいった、とそう安心しきった時。
角に差し迫ったその瞬間、
「うあ!」
「ん、わあ!」
少女よりも半歩遅れて、相手が言葉を発した。
目の前に現れた自分と同じ年ぐらいの男の子に、思いのほか体当たりとなってしまった。
そして彼女の全力疾走していた体は止まりきれず、両者は共に対となるように、跳ね飛ばされた。
その衝撃に少女の手に持っていた、金が入った袋は彼女の手を離れ、宙を舞う。
それに少女は慌てて、落ちた袋にしがみついた。
一方の男の子は、
「いったたた……君、大丈夫かい?」
そう言って先に立ち上がり、少女に手を差し伸べた。
きれいな着物と羽織を身に着けていた子供が少女を。
少女はその差しだされた手を勢いよく振り払う。
「あっ……」
「私にさわるな!」
彼女は仰々しく睨みかえす。
それはまるで、周りを警戒しているような、やつありつけた獲物を離さないとする獣のようであった。
そしてすぐ、少女は立ち上がろうとした。
しかし、そこで腕を掴まれた。
「この盗人がぁ!」
「うぐぁ!」
殴られた彼女はその場に倒れこんだ。
傍にいた男の子は、え? というように状況が理解できず呆気にとられているようだった。
周りではなにごとかと、こちらを見る者がいた。
「うぅ……」
そう呻きながらも、その手に持った金袋を渡さまいと、自分の身に引き寄せながら、その目をいぶかし気に男へと向ける。
「なんだ、その目は……」
「この、薄汚れたガキがぁ!」
その瞬間、その大柄な男はその少女の腹を蹴った。
「ゔがぁ! あぁ……うぅ……」
彼女はその場でうずくまる。
そのあとすぐ、男は腹を抱える少女の髪を雑に掴み顔を上げさせた。
「ぅあぁ……」
じろりと少女を目回した男は、疑わしそうに言った。
「お前、女か?」
「離せ、離しやがれ!」
茜は男に掴まれながらも、金銭袋だけは片手にぎゅっと握り、決して話そうとはしなかった。
それを見て、男は見下すような目で少女を見た。
「醜い、醜いのう。そこまでして、金がほしいか」
「……」
「何とか言ってみろ、女。これがほしいのか、どうなんだ」
男はそう聞くと、男は少女から金銭袋を取り上げる。
「あぁっ!」
醜悪な顔がそこにはあった。
「これがほしいんだろ。お前の返答によってはあげてもいいと考えているんだがな」
「ああ、ほしい……ほしいんだ。それがほしいんだ」
「ほう、これがほしいのか。これがほしいのか」
手に乗せられただけの金銭袋は男の意思で、ポンポンと空を浮く。
すると、チャリン、チャリンと中で金がこすれあう音が聞こえる。
目の前でそれを見せられた茜は途端、手を伸ばして金銭袋を掴もうとした。
「私は生きるためには、仕方がなかったんだ……どうかそれを返してくれ。返してくれ」
「これは、俺の金だ」
「そんなこと分かってる。だが、私には金が必要なんだ」
「そうか、そんなにほしいか。なら……くれてやろう」
穏やかで不気味な笑いがそこにあった。
瞬間、金銭袋は少女の元へと渡される。
それと同時に、少女の髪は男の手から離れる。
「あ……」
少女の手には再び金銭袋が持たれた。
「ありがたや……ありがたや、ありがたや」
身が自由になり、少女は男にこうべを垂れた。
そして、戸惑いながらも、そっと聞いた。
「なんで、くれたんだ? ……いいのか?」
「ああ、いいさ」
それを聞き少女は救われた気持ちになった。
もう、三日も彼女は食べる物にありつけていなかった。
明日自分が生きているか不確かな日常に、彼女は不安を覚えていた。
だから、今金が手に入ったことで、明日への命をつなげたことになるのだ。
だが、次の男の言葉で彼女の安堵した顔は驚愕に変わる。
「なんせもうお前は俺のモノだしな」
「え……」
「何を間抜けな顔をしている。ただでやると誰が言った。お前は俺のモノ。つまりこれからお前は売られ、どっかの男どもの所へいくんだ」
「そんな、なら。こんなもんいらねぇよ。だから、もう許してくれ」
「いや、許さない。お前は俺の金を取りやがった。その報いは受けてもらうぜ。ガハハハ――」
がさつな笑い。
少女は騙された気持ちになった。
期待を持たせておいて、最初からそうするつもりだったに違いない。
「このやろう。この下郎。人でなし!」
少女はもう終わりだと思い、男を睨み返す。
そうすることしかできなかった。
「なんだと! 下郎はお前だろう。ああ、汚らしい、汚らしい」
その場で逃げることもできるが、しかしすぐにつかまってしまうだろう。
辺りではすでに人だかりができており、彼らは少女を憐れむ表情、または面白いものを見る目で見ていた。
「くそ!」
少女は絶望的な気持ちになり、打開策のない状況に言葉を吐き出した。
もう終わりなのだと、諦めるしかなかった。
「さあ、俺と一緒に来い。おとなしくしろよ」
男はそういうと、少女の細い腕を取り、無理やり連れて行こうとする。
いやだ……いやだ!
とそこへ、
「何の騒ぎかな?」
ある髭面の男が人だかりの後ろに佇んでいた。
見た目、三十歳、四十歳ほどだろう。
「ああ、どうやら子供があの男の金を取ったらしく、捕まってしまったらしい。それで親もいなさそうだし、あの男に売られるとか、そういう話になっているらしいぞ。いや、かわいそうになぁ」
人だかりの中の一人が答え、少女の身を他人事のように心配する。
その髭の男は、人だかりの間を割って入っていく。
そして、今も少女を掴み取る太った男に、彼は言った。
「おい、やめんか。こんな道の真ん中で何してやがる」
男の腕を掴みあげ、少女の腕を握る手は離される。
「いたたたた! なにって! このガキは盗人だ。俺の金を取りやがったんだ」
「ほう、それで身寄りのないガキだからと、売りに出そうってわけか。勝手な話だな」
「別にいいだろう。どうせこのガキは親がいねぇんだ。このまま盗みをさせていても周りの迷惑だろうよ。ちゃんと飯を食わせてもらえるところに行けばこいつも俺もみんなも得するってもんだ」
「なるほど。そういう考えもあるのか……」
「そうだ。お前さん物分かりがよさそうだな」
「それなら、俺がそのガキをもらおうじゃないか」
「え、お前さんがかい?」
「ああ。いくらだ、いくらはらえばいい?」
「ああ……それなら……」
思わぬ、金の舞い込みに顔が醜くニヤつく男。
どうやら、どれくらいの金の量で売りつけるか検討中のようで、品定めするかのように男は少女を見ていた。
そして、決める。
「金五両だ。それでいいな」
「金五両か……まあいいだろう」
髭面の男は、渋りながらも微笑を浮かべて、少女の方を見渡した。
「一見、汚らしいまるで野良猫のようなガキだが……」
次に少女の顔をクイッと、あごを掴み持ち上げる。
「顔はいい。品がある顔立ちをしている。ちゃんと手入れをすればそこらの貴族の娘にも負けんだろうよ。そして、珍しい赤みがかった髪だ。これなら金五両は惜しくないな。ハハハ」
軽快に髭男は笑う。
まるでよい商品を見つけたという歓喜した様子だった。
「そ、そうなのか?」
「ああ。そういうことでこいつはこれでもらい受けた」
髭面の男はそう言って、金五両を男に渡す。
「確かにいただいたぞ」
「ああ、こっちも確かに買い取らせていただいたぞ」
その後、太った男は満足気にその場を去っていった。
騒ぎが止み、人だかりはみるみる散っていく。
そして、少女へと駆け寄る足音があった。
「あの……大丈夫?」
聞いてきたのは、男の子であった。
「……」
少女は睨んだ。
男の子はそれをそっと受け流しながら、こう聞いた。
「なんで、あんなことしたの……?」
「何であんなかとしたの? だと。生きるためには仕方がなかったからに決まっているだろう!」
少女は男の子に向かって、そう言葉を吐いた。
何も分かっていないような無邪気な顔が少女をイラつかせる。
こいつのせいで私は……
男の子は、動揺の顔を見せるが、彼女は構わず続ける。
「お前のような、どっかの金持ちのやろうが私のような貧しい者のことなんて分かるはずないと思うがな、どうだ、分かるか私の惨めな気持ちが分かるか?」
自分の中の怒りを、その裕福に育ったのであろう男の子にぶつける。
彼女はただただイラついた。
不快さが込み上げてくる。
「もう、消えろ。お前みたいのを見ているとひどく気分が悪い」
そう言った。
すると、その時、
「坊ちゃま、こんなところにいらしましたのでございますか!」
「桑野!」
少女の後ろ、大通りの道から五人の人が見えていた。
その中に一人、桑野と呼ばれた男は続ける。
「もう、勝手に家を抜け出してきてはいけないでございましょうが、あとでじっくりお話を聞かせていただきますからね」
「え~」
どうやら、男の子は尾忍で家を抜け出してきたようであった。
この様子だと普段からあまり外には出られないのかもしれない。
また、外に出られても常に付き人付きで、でかけることになるのだろう。
「さあ、お家に帰りますぞ」
男の子は五人の付き人に両手の手を握られ、背中を押され、どんどん遠くへと連れられて行く。
「まだ、あの娘と……」
「だめでございます。あんな素性の知れぬ者と関わりを持つなど言語道断でございます」
「しかし……」
「さあ、いきますぞ」
男の子は少女の方に顔を向けながらも、付き人に連れられ、やがて姿を消したのであった。
それを見送ってから少女は髭の男の方を見る。
「……」
私を助けた髭面の男。
でも、いいやつとは限らない。
このまま立ち去るべきか?
一応、金を出してもらったわけだから、お礼を言って、上手く分かってもらって自由にさせてもらうか?
少女は自分が買われたという状況にこれから自分の身はどうなるのか不安を覚えていた。
そのため、あからさまに緊張を露にしていた。
すると髭の男は、めんどくさそうに少女に聞いた。
「おい、名前はなんて言う」
「え……」
「だから、お前の名を聞いてるんだ」
「えっと……」
「まさか、ないとか言わねぇだろうな。お前が親からもらった名前だよ。なんて呼ばれてたんだ」
親はもういない。
でも、こう呼ばれていた……
「あ、かね……」
少女は、ぼそりと呟いた。
その声を聞き取れなかった髭男は、
「ああ? なんだって? もっと大きな声でいいな!」
怒鳴るように聞き返した。
そして少女は声を張り上げるようにして答えた。
「茜! 私の名前は茜だ!」
「そうか。茜、これからお前は俺の物とはなった。しかし、俺の元においておくわけにもいかねぇ」
「それじゃあ。私は拾われるわけではないのか?」
「お前は誰かに拾われたいか? それとも今までのように野良猫当然の暮らしをするつもりか?」
そう問われ、茜は一瞬考え込んだ。
「分からない……どちらも私には生きづらい気がしてならない。人は私に、ただの他人に優しくはない。何かをあたえてくれることはない」
「そうか」
茜は知っていた。
親を亡くした時から、一人になってしまった時から知っていた。
人の世界の無情を。
「でも、生きるためにはなんだってする覚悟はある。私には果たさなくていけない目的がある。だから、私をいかしてほしい。頼むおじさん」
茜の目はまっすぐ髭の男に伸びていた。
その強い覚悟のようなものを感じて髭の男はこう答える。
「おじさんじゃねぇ。響楽だ、ガキ」
響楽と名乗った男は茜の視線から外れるように踵反す。
「ガキじゃない、茜だ」
「……」
響楽は足を止めて、頭をかく。
「とにかく、私をどこへでもいいから連れて行ってくれ。私がおじ……響楽のものなのはかわりないんだろう」
「ハハハ、そうだな」
「……」
「そう、睨むな。警戒も俺にはしなくていい」
「そうか……?」
自分を助けてくれた恩人。
しかしまだ緊張は解けなかった。
いったいこの髭男がどんな奴なんか、見定める必要があった。
この男はいい奴なのか? 悪い奴なのか?
「ああ、俺にはだ。俺だけはお前の味方になってやろうじゃないか」
「……」
茜にはその言葉がひどく輝かしいものに思えた。
同時に、どうせ裏切られるのだろう。
期待はしない。
一瞬、悲しそうな表情をにじませた茜。
響楽はそんな茜の様子を伺いながら、言葉をかける。
「今からお前に家をあたえることはできる。仲間と一緒に暮らせる場所をあたえることはできる。お前はどんなにそこが嫌でも受け入れることはできるか?」
「受け入れる。それしかもう私にはないからな」
今は何でも利用しよう。
できるだけ自分が長く生きられるように、こいつの好意を受け入れよう。
「よし、そのいきだ。威勢のいいガキは嫌いじゃない」
と、その時だった。
きゅう~とお腹の音が鳴る。
茜のお腹の音が鳴る。
「……」
茜は一瞬、呆気にとられ、響楽に向けていた僅かな緊張や警戒もそこで緩んでしまった。
「ハハハ、お前腹が減っているのか?」
「違う!」
「分かった、分かった。今、飯を食わせてやる」
そう言うと響楽は自分が腰にかけていた風呂敷の中の物を取り出す。
それはおにぎりのようで、それを茜に渡す。
「うう……ありがたや、感謝する」
「おう。食べれ、食べれ」
おにぎりに食らいつく茜。
その姿はまさにやっとエサにありつけた野良猫のようであった。
これで心を許したわけではないからな。
食べながら茜はそう心の中で呟いた。