ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。
愛し、愛されているものだと思っていた。
親に決められたからではない。
政略結婚では断じてない。
私達が慈しみ合い、恋の花を咲かせたのだ。だから、結婚するのだとばかり、思っていた。
「ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。だから、私も、愛しい人を呼びつけていいだろう?」
その言葉を聞いた時、開いた口が塞がらなかった。
ーー愛しい人?
それならば、貴方の目の前にいるじゃない。
おかしな人だと笑い飛ばそうとした。惚気だと思い込もうと。
しかし、軽やかに見知らぬ女が彼に駆け寄ってくる。
長い茶色の髪を左右に揺らしながら、元気溌剌な女が彼のーー王子の隣に立った。
あらん限り、目を見開く。扇を持つ手が震えた。
王子の隣に立つなど!
比類なきお方だ。やがて、国王になることが決められている。だから、比肩する人はいてはならない。妻となる私にも、いまだ、彼の隣に立つ栄誉は貰っていない。なのに、なぜ、女は王子の隣にいるのだろう。
「彼女はリリディアだ。リリディア、この子はテレジア。前に絵を見せたね?」
ぺこりと頭を下げた女は、聞いていられないような訛りで私に挨拶した。
ありえない。こんな、田舎女が、愛しい人なのか。
顔は確かに王子が気にいるぐらいには整っている。しかし、彼女は貴族ではない。挙動と訛りですぐに分かった。
一年前、王子が討伐に赴いたイルドの田舎女だ。イルドの元領主は浪費家で、領民達から税を取り立てることしか能がなかった。
重い税率と凶作が重なり、農民を中心にして暴動が起こった。領主は殺され、城は占拠された。それを討伐しに行ったのが、王子だった。
その時に、この女を見つけてきたのか。王都に招き寄せたのか。いつか、私に紹介しようと思って?
女の頬は期待と興奮で赤く染まっていた。
「きちんと世継ぎはつくる。だが、テレジア。君とて私のことを好いているわけではないだろう?」
女を抱き寄せ、王子は頬擦りをした。
喉の奥から悲鳴が上がりそうになる。扇で唇を隠し、おし殺す。
私は貴方が好きだ。愛している。この女よりもずっと、貴方が好きだ。
王子は女の大きな瞳を見つめた。愛おしいと全身で伝える甘やかな瞳だ。
彼に、私は見えていないのか。
長年、連れ添ってきた。この女よりも、多くの時間を共にしてきた。気持ちが伝わっているものと信じていた。同じ気持ちを返してくれるものと。
なんと、傲慢で、浅ましい勘違いだったのか。
「エドワルド王子」
名を呼んでも、彼は答えてくれない。
野卑な女と見つめ合い、仲睦まじく微笑んでいる。
私は、この女に負けるのか。
訛り声で喋る、礼儀作法ひとつ知らないような女に?
じわじわと、絶望が心に這い寄ってくる。
羞恥心から、頭の爪先から足の指まで発熱しているようにあつい。
ーー死にたい。
私は、田舎女に負けた。愛しい人を盗られた。
それから、地獄の日々が始まった。
結婚式を挙げ、初夜を迎えた。しかし、王子は、あの女を慮って私を抱かなかった。永遠を誓った口で、あの女の住む離宮へ向かい、一夜を過ごした。
一晩中、寝ずに待っていた私を見て、侍女は驚いた。
処女を散らされた跡もなければ、王子が来た痕跡もなかったからだ。
その日一日で、私と王子の仲は見せかけだと噂が広まった。結婚前は、お似合いの夫婦になる、仲睦まじい理想の夫婦だと褒め称えていたのに。
こそこそと侍女達が私を見ては小声で面白おかしく噂を吹聴した。
しまいには、私は王子とあの女の間を引き裂く悪者になった。身分違いの恋の成就をさせたい侍女達に、嫌がらせもされ始めた。
地獄の業火で焼かれたほうがましだと思えるほど、自尊心を削られる。私は、王子と思い合い、愛し合い、蕩けるような初夜を夢見てきた。それがどうだ、王子は、他の女の元に向かい、私の一途な思いを踏みにじったのだ。
顔に泥を塗りたくられたようだった。
世継ぎはつくると言っていたのではなかったのか。なのに、なぜあの女のもとに向かうのか。
どうして、私は顧みられない。どこまでも、都合のいい女なのか。
「処女を捧げました」
あの女は恍惚とした表情で、情事の全てを赤裸々に私に語った。どれほど、彼が素晴らしかったか、優しく、気遣ってくれたのか、逸楽の官能の世界だったか。触れ合う吐息の熱さ、甘やかな言葉を一つ残らず、教えに来た。
「ねえ、きいて下さい、正妃様」
王子も、女も、絞め殺したいほど憎かった。この女の意図は分かっていた。寵愛は己にあると、私に主張したいのだ。
私は、おとなしく、彼女の言葉に耳を傾けた。
王子は、この女の奴隷だ。でなければ、この女の気持ちを慮って、大切な初夜をすっぽかしたりするものか。
そうでなければ、私が親族に、国王や王妃になぜ処女なのだと責められることを容認するはずがない。
女の鈴を鳴らすような声が、耳にべったりと張り付きとれない。
ーー王子が甘やかな口付けを下さった。
女の声が、亡霊のように私にはりついている。
三日後、実家から母がやってきた。侍従を連れて。私は王城で出迎えた。
王子は相変わらず離宮に入り浸っている。私は処女のままだった。
個室へ入るなり、母は私の頬を打った。手にまで塗りたくった白粉が母の手からぼろぼろとこぼれた。
金切り声で、母が私を罵った。
あんな田舎女にとられるなんて、なんて馬鹿なの。まだ未通女ですって? お前の結婚はいつ行われたの!
私は、頭を下げ続けるしかなかった。母はこうなってしまえば手がつけれない。嵐が過ぎ去るのをじっと待つしかない。
やがて母は、おいおいと泣き始めた。噂が母まで届き、同じ夫人達に育て方に問題があるのではと嘲弄されたらしい。
貴族の子供を育てるのは親ではなく、乳母だ。母は血の繋がりがあるだけ。ほとんどの貴族がそうであるように、私にとって、母は同じ家に住む他人だった。それを夫人達は分かっていて、あてこすってくるのだ。
私が育てたわけではないのにと、滂沱の涙を流して、母は我が身に降りかかってきた悪意に嘆いた。
「ごめんなさい、お母様」
私はそう謝るしかなかった。
母は帰ったが、連れて来た侍従は残った。アーノルドという男だ。
絹糸のように艶かしい黒髪。端整な顔立ちをしているが、どこか陰険だ。薄い唇の赤々とした色がまるで悪魔のような凄艶さを醸し出している。
金色と銀色の左右で違う異瞳のまなざしは、見つめるだけで屋敷中の女を虜にしていた。
いつもならば、仕事そっちのけで女に群がられ、ろくに顔も見ることはない男が目の前にいる。奇妙なことだった。
「お嬢様、今日から、俺がお仕えする」
アーノルドは私に慇懃無礼に告げた。
嫌々、仕方なさそうに。
それもそのはずだ。アーノルドは、母の愛人。だから、仕事に支障をきたしても罰せられることはない。
だが、私はアーノルドを嫌って、なにかとこいつに厳しく接してきた。だから、アーノルドは私のことが嫌いだろう。仕えるのも嫌なはずだ。
甘やかしてくれた母のものから放り出され、王子にも見向きもされぬ傲慢女に使われるなんて、こいつにとって屈辱的なことに違いない。
「せいぜい、こき使ってあげましょう、アーノルド」
忌々しい女や王子、国王や王妃、親族達、使用人、貴族達。彼らの言葉に発狂しそうだ。誰かにあたらなければ、正気が保てない。
その点、アーノルドならば、私にいじめられても文句はない。こいつはなぜか、昔から私にいじめられても母に告げ口しなかった。執事に理不尽な命令をされた時や父に折檻された時は、遠慮なく、母に言うのに。
父は母にぞっこんで、母の言うことを何でもよく聞くのだ。私の家で一番の権力者は、母だった。
母は私に愛着を持っていない。きっと、アーノルドが告げ口すれば、折檻されていただろう。だが、一回も、私は母に折檻されたことがなかった。
アーノルドは私の言葉に笑った。
「お嬢様は面白い」
「うるさい、紅茶を淹れてきて」
「その前に手当てを。真っ赤だ」
アーノルドに言われて、熱を持つ頬に触れる。
さっき、母に頬を張られたのだったか。
結婚してから、誰かに気遣われたのは初めてだ。
急に泣き出してしまいたくなる。
王子が好きだった。愛していた。けれど、今は、憎いのか愛しいのか分からない。
冷たい布が押し当てられた。いつの間にか用意していたらしい。ごしごしと、力加減なく頬を擦られる。
涙が引っ込んだ。
アーノルドの前で泣いてたまるものか。
「きちんと冷やさなければな」
アーノルドはことのほか執拗に私の頬を擦り続けた。
「また、まただわ! あの女のところに、また、王子は!」
アーノルドが来て、少しずつだが、不平不満をこぼすようになった。今まで、恥ずかしくて、一切口にできなかったのに。
アーノルドが側にいることで、どこか安心している自分がいる。気を許してはいけないと思うのに、アーノルドの煽り方が絶妙で、いつの間にか怒りながら心中を吐露する羽目になるのだ。
気がつけば、遠巻きにしていた侍女達も、潤んだ瞳で近付いてくるようになった。
私がアーノルドに怒鳴りつける言葉をきいていたらしい。お可哀想にと慰めてくる。
散々、嫌味を言っていた癖に、身代わりの早い奴らだ。
嫌がらせもなくなり、今度は私が悲劇のヒロインになった。
下賤な女が王子を誑かしたのだ。そういう噂が流れて、城全体に広がった。
立場はひっくり返った。あの女は、今までの反動を受けるように、貴族達の陰湿な嫌がらせを受けるようになった。
胸がすく。可哀想と同情するつもりはまったくなかった。
「あの女に似合いだ」
「ええ、そうね」
うきうきと心が弾む。きっと、これで王子も目がさめるはずだ。
だが、そうはいかなかった。
次の日、政務で忙しいと会ってもくれなかった王子が、あの女を連れてやって来た。
「テレジア、意地悪をしないでくれ」
困った顔をする王子にきつい眼差しを向けてしまう。王子はなぜ、私を責めるのだ。おかしいのは、王子ではないか。
この女が嫌がらせを受けるのは、自業自得だ。平民の分際で、王子に取り入ったのだ。もっと厳しい罰を与えられるべきなのに。
「リリディアは、とてもいい子だ。そう、嫌わないで欲しい」
王子の後ろに隠れるような、卑怯な女が、いい子?
口端がひりつく。王子は目隠しをされているのか。事実がまったく見えていない。
くすり、と後ろに控えるアーノルドが笑ったような気がした。
「……とにかく、お座りになって。いまお茶を用意させますわ」
「いや、テレジア。ゆっくりしている時間はないんだ」
「執務がおありになるの」
「ああ、たまっていてね」
私には会ってくれないぐらいだものね。
けれど、この女のこととなると、会いにくる。
座ることを拒否した王子はアーノルドに目をやった。
「君の愛人、不思議な方だね」
言葉を無くす。アーノルドが、愛人?
私は、愛人を連れ込むような女に見えていたのか。信じられない気持ちでいっぱいだった。本当に、王子は私のことをきちんと見てはくれなかったのか。
アーノルドは、ついに大笑いし始めた。
恥ずかしくてたまらない。こいつに、笑われている。
「ど、どうしたのだ」
困惑した王子に、アーノルドはにやっと唇を吊り上げた。絵画に描かれた、醜悪な悪魔に似ている。真っ赤な唇は、禁断の赤い果実のようだった。
「なぜ、言わないのです? この王子が好きだと」
「なっ」
あまりのことに言葉が詰まる。
こいつは、何を言っているのだ。王子がいる前で、なぜそんなことを口にするのだ。
「テレジア?」
王子がどう言うことだと尋ねるように、私の名前を呼ぶ。
「お嬢様はお前しか見ていない。なのに、どうして言わない?」
アーノルドの真っ赤な唇しか見えない。
私は、ぽとりと扇を落としてしまった。恭しく跪き、アーノルドが拾い上げる。そして、甲斐甲斐しく扇を持たせた。
この男は、私の心中をつまびらかにしてしまった。王子に伝わっていると思っていた。だが、気付かれなかった。
女を紹介されたあの日から、決してばれないように王子の前では取り繕ってきた。それをアーノルドが指摘し、無理矢理、開示させようとする。
王子が眉根を寄せて、私を凝視している。
「テレジア、まさか」
「王子が来たから、気合いをいれて髪も化粧も整えろと命令された。お嬢様がそこまでする人間は一人しかいないな?」
「だが、……私にはリリディアがいる」
歯を食いしばる。なぜ、アーノルドは、私の思いを伝えてしまったのだ。王子はリリディアしか見ていない。私が好きだと言ったところで事態は変わらない。
好きだと言う言葉になんの意味がある?
長い間、側にいた。好意を示して来たつもりだ。しかし、私は眼中にないのだ。
結局、リリディアへの愛を叫ばれるのだ。だったら、好意に蓋をして、痛みに耐え、生きていくしかないじゃないか。
王子は私に向かって首を振ると、リリディアを置いて先に退出した。追いかけようとしたリリディアが、ぎっと怪物のような顔をして「後悔させてやる」と地を這うような低い声で呟いた。
アーノルドは、決して謝らなかった。
いつものように文句を言いながら私の世話をする。
私も怒らなかった。怒る気すらしなかった。もう、どうでもよかった。愛しているのか、憎いのか分からないと思っていたがそうではなかったらしい。アーノルドが私の思いを告げた時、私は確かに王子を愛していた。ただ、憎しみに埋もれて、それが分からなかっただけだ。
そして、その埋もれていた愛しさは王子の動揺で浮上してきた。もしかしたらと、淡い希望が生まれたからだ。
だが、王子はやはりリリディアの名前を呼んだ。
愛しさは憎しみの澱のなかに沈み、その憎しみも濁り過ぎて、自分では理解できない感情へと変化してしまった。今は深い海の底にいるように体が重かった。感情が死んでいるみたいに、喜びや悲しみがわいてこない。
「お嬢様」
アーノルドが私を呼んだ。差し出されたミルクティーは蜂蜜を垂らした、甘いもの。大好きなのに、美味しいとは思えなかった。砂を胃袋に流し込んでいるような気分だ。
「泣いてもいいのに、泣かないのですか?」
「どうして? 知っていたもの。王子が、あの女のことしか見ていないって」
けれど、心は正直だ。王子の言葉で、私は深海を彷徨っている。
「知っていたもの」
私自身に刻みつけるように繰り返す。アーノルドは私を嘲るように笑った。
「そうですか」
一週間が過ぎた。今では、王子に思いを知られたことも夢だったように思う。今でも、王子は私の気持ちを知らずに、あの女のところへ入り浸っている。そう思えば、悔しいような、どこか安堵するような不思議な気持ちに襲われる。だが、現実は違う。王子は私の気持ちを知りながら、あの女のもとへ甲斐甲斐しく赴いている。私は、毎日、溜息を吐きながら過ごしていた。
アーノルドはいつも通り、ぶつくさと文句を言いながら私に絡んでくる。アーノルドといる時間は、私にとって日常になりつつあった。こいつの文句をいう声がなければ、毎日生きているという感じがしない。
今日も、悪態ばかりつくアーノルドの言葉に耳を傾けている時だった。
「お妃様!」
部屋に入ってきた侍女は取り乱していた。いつもならば身だしなみをきっちりしているはずの優秀な侍女。そんな彼女が三つ編みを振り乱し私の側に駆け寄ってきた。
「何事だ? お嬢様の前で、無礼な」
眉を顰めるアーノルドに怯え、侍女は勢いよく頭を下げる。
「も、申し訳ございません! ですが、あの、あの女が」
私達のなかであの女といえば、リリディアのことだ。表情が険しくなる。あの女がなにか無礼を働いたのか。
「子を身籠ったようなのです」
頭が真っ白になった。
子を身籠った。つまり、王子の子だ。
あの女は、王子の尊い胤を宿したのだ。
「なんだと?」
アーノルドは、首を傾げ、眉を寄せてむぅと考え込んでいる。
「王子が離宮に筆頭侍女長を呼び寄せたようです。お医者様も。ああ、どうしましょう」
私は、恐慌状態に陥った侍女を下がらせ、アーノルドに離宮を見てくるように命令した。
ほどなくして、アーノルドは引き攣った笑顔を湛え、戻ってきた。
「本当に、子供が出来たようだ」
あの女は、私に、初夜の喜びを奪っただけではなく、あの人の子さえ奪うのか。
視界が真っ黒に塗り潰される。蝿が飛ぶような耳鳴りがして、私はぱたりと倒れた。
それから、王城は天と地がひっくり返ったような大騒ぎだ。
妻と閨を共にせず、愛人の子を孕ませた王子とその愛人の処遇に国王は側近達と会議を開いた。
しかし、結論は決まらなかった。あの女は子供を産むまで安静にするようにと離宮に閉じ籠ったままだ。
あの女と話をしなければならない。
そうというのも、私が倒れたあとに、アーノルドが調べた結果、あの女と王子が初めて褥を共にしたのは、私が迎えるはずだった初夜の日だというのだ。
いくら計算しても、子供を宿したと分かるには早過ぎる。
なにか裏がある。あの女は、なにか隠し事をしているはずだ。
だが、あの女にはなかなか会うことが出来なかった。あの女が、私にいじめているのだと誰彼構わず吹聴したらしい。医者も筆頭侍女長も、あの女の味方をし、私を追い払った。
「夜に忍び込もう」
痺れを切らしたアーノルドが、私にそう言った。忍び込むなんて夜盗のようではないか。固辞する私に、アーノルドの真っ赤な唇が耳に近付いて来た。
無意識に、心臓が脈立つ。この男の艶かしい色気にあてられた。
「あの女、他の男と姦通しているかもしれない」
顎が外れるほど、ぽっかりと口を開く。
アーノルドは小さく私を笑った。
「だって、そうだろう? 王子の子では時期的にありえない。ならば、他の男の子供を、王子の子だと偽る気では?」
左右で違う不可思議な目を細め、アーノルドは私に答えを促す。行かなければならない。確かめなければ。
あの人に選ばれた女が、他の男と姦通していていいはずがない。エドワルド王子に不誠実だ。真実だとしたら到底、許してはおけない。
アーノルドを連れて、あの女のもとへ忍んで行った。
そして、見てしまった。
あの女は、離宮で、王子とは別の男と交わっていた。
王子とあの女を呼んで、晩餐を催すことにした。場所は、薔薇園が見渡せる二階の角部屋。少し狭いがよく王妃が使用されている、王族憩いの場所だ。
あの女は最後まで来るのを渋ったようだが、エドワルド王子が説得したらしい。
あの女は、わざとらしく王子に縋り付き、わたしは妊婦だ、さあ労われといわんばかりに偉そうな顔をしてやってきた。
身重の妊婦が着るようなだぼっとした服で、のそのそと亀のように歩いてくる。まだ目に見えて分かるほど腹は膨れていないのに。
王子はそれをせっせと世話を焼いて、丁寧に女を椅子に座らせた。
王子が席に腰掛けると、アーノルドを筆頭に、食事の準備をするために侍従達が寄ってきた。食事のほとんどが王子の書記官であるマーブルが用意させたものだ。王子の口に入るものは書記官である彼が管理することになっている。
マーブルは、王子の三歩後ろで石像のように佇んでいた。
目線は、あの女へ注がれている。
熱っぽい視線に、吐き気がした。
私はアーノルドに目配せした。こくりとアーノルドが頷く。
扇を持つ手が震えた。興奮からだった。
あの女の醜怪な本性を見て、私はひどく動揺した。不実を行うあの女が憎かった。王子の寵愛を受けながら、それでも他の男を誘惑する淫売女。
リリディアを懲らしめてやりたかった。できるだけ惨たらしく、あの女の自尊心を粉砕するような行為で辱めたい。
アーノルドは、そんな私に、殺してしまえと囁いた。
真っ赤な唇が新月のように歪んでいた。
「あの女を殺せば、王子はお嬢様を見るようになる。だって、あの女がいなければ、仲睦まじいお似合いの二人だったのだろう?」
アーノルドの言葉は私の心を揺さぶった。
そうだ、私は王子と愛し、愛されるはずだった。あの女さえいなければ、王子は私と本当の夫婦になってくれたはずだ。それを遮ったのは、あの女だ。
「当然の権利を奪ったあの女が悪い。それにあの女は邪悪にも、王子の子を孕んだと偽り、自分が国母になろうとしたのでは? 悪魔のように狡猾な女だ。罰を受けるに相応しい」
「罰」
そうだ。あいつは、平民だ。王子に愛され、驕った態度を取っているが、王城に居場所がない存在だ。
アーノルドは、私の手に指を這わせた。銀色と銀色の異眼が光を放ち、爛々と輝いている。初めてみるような、慈愛に満ちた笑みを湛え、私に教え込む。
「大丈夫。あの女を殺せば、貴女の望みは叶えられる」
「私の望み?」
「王子と結ばれることだ。違う?」
そうだ、私は、王子と結ばれたい。あの女を殺せば、それが叶う?
「でも、どうやって殺すというのよ」
「いい考えがある。毒を入れる」
「無理よ」
「なぜ?」
「あの女の食事は、何人も毒味をしているもの」
「いいや、できるさ」
アーノルドは自信があるのか、笑みを浮かべている。だが、王子の準備した人間達は有能だ。たとえ、気に入らない女でも、命令ならば手を抜かない。あの女が毒を飲む機会などない。
「あの女の相手、見ていなかった?」
首を振る。暗闇だったので、よく見えなかったのだ。
「王子の秘書官だった」
「マーブルが」
目を剥く。従順なあの男が、王子を裏切ってあの女と交わっていたのか。それだけではないとアーノルドは続ける。
あの女は、見目麗しくて位の高い男ならば誰にでも股を開くのだという。
「あの秘書官を唆して、あの女を殺そう」
「どうやって?」
「秘書官は、あの女に本気で入れあげているんだよ。王子から奪いたいと思っている。王子とあの女を呼んで晩餐を開こう。そうすれば、食事の準備はあいつがやることになる。その時に、俺が王子を料理に毒を入れて殺してやれと吹き込んであげる」
「そんなことをしたら、王子が死んでしまうじゃない!」
困ったように、アーノルドは私の肩を抱き寄せた。ぽんぽんと宥めるように背中を軽く叩かれる。
「大丈夫、そんなへまはしないよ。王子とあの女の食事を取り替えればいいんだから。そうすれば、秘書官のせいにも出来るだろう?」
「……でも、本当に上手くいくかしら」
心細くなって、アーノルドにしがみつく。
人を殺す計画など、はじめて考えた。罪悪感がぽつりぽつりと雨のように降ってくる。
あの女のことを憎い、殺したいと思う。だが、それは許される考えではない。人を殺してはならないと、誰もが分かっている。たとえマーブルのせいにすると言われても、不道徳に身を浸すことが、怖い。
アーノルドは私の頭へ手を伸ばして、壊れ物を扱うような手つきで撫でた。
「お嬢様、俺を信じて。きっと、成功してみせる。お嬢様は王子が好きなのだろう? ならば、俺が、願いを叶えてあげる」
優しい手つきに、心の芯が解れていく。体の内側から熱を発するように、指先に熱が溢れてくる。
思えば、アーノルドは王子に私の気持ちを教えたり、あの女の本性を暴くべきだと私に忠言していたりしたじゃないか。
この世には、もうアーノルド以外、私の味方はいないように思えた。私のたった一人だけの味方が成功させると言っているのだ。
信じなければ、アーノルドさえ、私から離れていくかもしれない。
私は、アーノルドの手をとって懇願した。
私は王子が好きなの。だから、あの女を殺して。
アーノルドは両の目を細めて頷いた。
「そうだ、お嬢様、復讐劇を演じよう。ね?」
今日こそ、その日だ。
王子は熱心に、あの女に話しかけていた。子供がどうのと、楽しそうに。
女も、馬鹿みたいな訛り言葉で、受け答えしている。一瞬、目が合った。勝ち誇った顔で、にやりと笑われる。
私は笑い堪えるのに必死だった。お前は今日死ぬんだぞと教えてやりたい。
「そうだ、テレジア。話とは、なに?」
王子はやっと私に話しかけてくれた。
私はアーノルドが、前菜のサラダを運ぶのを見届けて、話を切り出した。
「ねえ、エドワルド王子。リリディアの子は、本当に王子の子ですの?」
「何?」
王子は、気分を害したように低い声で聞き返した。
「だって、エドワルド王子。リリディアは、いろんな殿方と関係を持っているという噂がありますのよ」
「根も葉もない噂だ。テレジア、そんな下劣なものに惑わされないで欲しい」
この女、どれだけかまととぶっているのだ。澄ました顔で、どれほど男を咥え込んできたのだか。王子を誑かす毒婦め。
「マーブルと関係を持っていると聞いたわ」
ぴくりとマーブルが反応を示した。分かりやすい男だ。
王子は、まさかと笑って返す。
「マーブルは忠実な部下だ。そんなこと、ありえない。決してね」
リリディアは、聞く価値もないとおもったのか、サラダをばくばく食べ始めた。品のかけらもない、乞食のような汚い食べ方だ。
アーノルドは、すぐにサラダの皿を下げ、スープを持ってくる。
「そんなことより、テレジア。リリディアの子を私の子として迎えたいのだが、いいかい?」
王子は能天気に、私にお伺いを立ててきた。決して、否とは言わないだろうばかりの自信に溢れた声だった。
片眉を上げて、女を見遣る。スープに口をつけた女は、王子の言葉に同調するようにこくりこくりと頷いている。
「その子が、本当に王子の子でしたら、よろしゅうございます」
「くどいよ、テレジア」
「いいえ、王子。大切なことでございます。お二人がはじめて褥を共にされたのは、いつ?」
そんな、恥ずかしい。あの女の恥じらうふりをした。声に警戒のようなものがまじっていたことを感じ取る。
やはり、腹の子は、王子の子ではないのだろう。
「大切なことよ。王子、いつでございますか?」
「君と、結婚した日だよ。テレジア」
胸の中が焼け爛れている。一晩中、起きていた私が、惨めったらしく彼を睨みつけている。
過去の自分を蹴り転がす。待つことしかできない弱い女は、寝台の上でしくしく泣いていればいい。
今から、私は復讐してやるのだ。泣きながら、そこで見ていればいい。
「それから、一ヶ月も経っておりませんわ。王子、女は懐妊からすぐに腹が膨らむわけではないのですよ」
「なんだと?」
動揺しているのは、王子だけではない。マーブルも目を泳がせている。女だけが、強張った笑顔でなんとか取り繕っていた。
「ねえ、リリディア。その腹の子はどの胤を貰ってきたの?」
なんのことだかとしらばっくれる女に構わず、アーノルドに教えて貰った男達の名を読み上げる。この女の毒牙にかかった男達の名前だ。
さっと女の顔色が変わった。それに気がつき、王子が眉尻を吊り上げた。
「リリディア、もしかして、本当に?」
「リリディア様、わたくしの他に、男が?!」
「マーブル、それはどういうことだ」
詰問する王子に、マーブルはたじろいだ。
言葉を詰まらせ、アーノルドに縋るように目線をやる。
アーノルドは大きく欠伸をした。
「わ、わたくしは……わたくしは、リリディア様に誘惑されただけなのでございます、エドワルド王子」
「ちょっと! 変なこと言わないでよ、あんたから迫ってきたんじゃないの!」
「うるさい! お前のような田舎女、わたしが本気にするわけないだろう!」
「リリディア、マーブル、説明せよ!」
もはや食事どころではなくなった。三人は怒鳴り合い、罵り合っている。お綺麗な顔が醜く歪んでいる。
アーノルドが近寄ってきて、サラダの皿を下げて、スープ皿を置く。
グラスにはシャンパンが注がれる。黄金の稲穂を思わせる豊かな気泡がぷつぷつと上がっていく。
アーノルドはくすくすと小さく笑って、三人の馬鹿らしい姿を嘲っている。私もなんだか、笑えてきた。
くすくすと一緒に笑い合う。ちらりとアーノルドの色の違う瞳が私を見つめた。
「お嬢様、全て終わったら、俺にご褒美を下さるか? こんなに、あなたに尽くしてきたのだから」
「ええ、いいわよ」
鷹揚に頷く。アーノルドは、目を細めて約束ですよ? と悪戯っ子のようにうきうきとして言った。
あの女がいきなり咳き込み始めた。口から血を吹き出し、倒れこむ。
王子が悲鳴を上げた。マーブルが、がたがたと足を震わせ、「王子が死ぬはずじゃあ」と口走った。
その言葉に王子はさっと顔色を変えた。口を抑えるマーブルに馬乗りになり、「私を殺そうとしたな」と憤怒の形相を湛えて怒鳴りつけた。
あの女が王子の裾に手を伸ばし助けを求めても、振り払い、マーブルの顔を形が変わるまで殴り続けた。
泣き叫び許しを乞うあの女の声と頬骨の折れる軽やかな音、そして獣のような荒い息遣いが、螺旋のように渦を巻き、窓の外に広がる薔薇園まで届きそうだった。
アーノルドは私の顔に擦り寄って、猫のように甘えた。
やがて、虫の息の根が止まったように、あの女が動かなくなった。マーブルの呻き声も聞こえなくなった。茫然自失の様子でぼんやりとしている王子だけが、肩を上下させながら真っ赤な拳を握り締めている。
アーノルドの手を借りて、椅子から腰を上げ、王子につかつかと近付く。
周りには、血痕がぱらぱらと小雨が降った後のように散っていた。
王子は、拳を隠すように身を丸めた。
私が愛した王子はこんなにちっぽけで、嫉妬で我を忘れてしまうような弱い人間だったのか。
アーノルドがマーブルの脈をとり、首を振る。
王子はどうやら、マーブルを殺してしまったらしい。
「エドワルド王子、リリディアも死んでしまったようですわ」
笑い出さないように努めて、私は冷静な声で告げる。
王子は肩を揺らし、子供のように泣き出してしまった。
愛しさがこみ上げてくる。私が愛した王子は、子供のように、馬鹿で愛くるしい人だったのだ。他の女に目を移すし、怒り狂って部下を殴り殺してしまう、救えない人。
だが、もうあの女はこの世にいない。アーノルドと画策して私が殺した。
王子を抱き締める。やっと、彼と抱き合えた。小さな頃からの夢だった。はしたないと嫌われたくなかったから、一度だってしたことがなかった。こんなかたちになるとは思っていなかったけれど、夢が叶ったのだ。
ぎゅうっとぬいぐるみにするように、王子を抱きしめた。
「どうしましょうか。リリディアはともかく、マーブルの死体は困りましたわね? マーブルは貴族院議長の息子ですもの」
「う、う……」
「子供を撲殺されて、憤らぬ父はおりませんわ」
「あ、あいつが先に私を殺そうとしたのだ! リリディアとも、関係を……」
「そうですわね、エドワルド王子。もう、リリディアは死んでしまいましたし、マーブルもいませんわ」
事実を淡々と告げると、王子は胴震いをし、乳を求める子のように私の胸に顔を埋めた。
「テレジア、どうすればいいと思う?」
「そうですわね。アーノルド、なにかいい案はないかしら?」
「……死体は秘密裏に燃やしてしまいましょう。二人で駆け落ちでもしたことにされては?」
「いい案ね! エドワルド王子は、どう思われます?」
王子は滂沱のような涙に濡れながら、首を縦にふった。
「使用人達には口止めをしておきますわ。アーノルド、このことは、私達だけの秘密よ?」
「ええ、お嬢様。もちろんですとも」
アーノルドがにやりと唇で弧を描いた。やっぱり、アーノルドは悪魔なのかもしれない。こんなに、ことが上手くいくなんて!
「テレジア、私を支えてくれるかい?」
濁声で、王子が私に尋ねた。
王子の瞳は深い絶望の色に染まっていた。
「もちろんです。私はあなたの妻ですもの。妻は夫を支えるもの」
血塗れの手が私の頬に触れた。
機嫌をとるように、媚びるような口付けをされた。
林檎のような甘い味がした。このまま王子の唇にかぶりついて、貪り喰らいたいぐらい美味だった。
「私には君だけだよ、テレジア」
「私もです、エドワルド王子」
私は王子を愛している。私が王子の秘密を暴露するわけがない。エドワルド王子はいつになったら、そのことに気がつくのだろう。
確かめる言葉もいらないというのに、馬鹿な人だ。
でも、少しだけ嬉しい。
私の愛しい人が、やっと私のものになった。
「王妃様、王が憤慨していらっしゃいます! どうして、褥に来ないのか、と」
まったく、エドワルド王が用意した侍従はがみがみとうるさい。
私は、寝台から身を起こした。隣に寝ていたアーノルドが、ぎろりと侍従を睨みつける。
あの女がーーリリディアが死んでから十年が経った。エドワルド王子は、国王のあとを継ぎ、エドワルド王として即位している。彼との子を三人の産み、名ばかりではなく、本物の妻となった。
リリディアとマーブルは灰になった。その灰は、薔薇の肥料として土にまかれてしまった。
アーノルドが上手くやったから、リリディアとマーブルが、王族憩いの場で死んだことは誰も知らない。
エドワルド王は、あれから、女にうつつを抜かすことはなくなった。かわりに、私を事あるごとに側に置きたがるようになった。未だに暴露すると疑っているのか、それとも今更私に愛執の念を覚えたのか、どちらにしても、私に依存しているようだ。
「うるさい、今日は俺の日だ。そう、王にも伝えろ」
アーノルドは侍従を怒鳴りつけると、私を押し倒し、髪に顔を埋めた。くんくんと犬のように匂いを嗅いでいる。
アーノルドは、母の愛人だった頃から私のことが好きだったらしい。母に頼み込んで、私の従僕になったのだという。嫌々な風を装っていたが、内心は私付きになれてとても嬉しかったと打ち明けてくれた。
アーノルドは褒美として、私の体を欲した。子供を三人産んだあと、王とは性行為を控え、アーノルドに機会をあげている。アーノルドはたいそう喜んで、毎夜、私を求めていた。
「困ります! 王の機嫌は地の底のように低いのですから」
侍従の言葉にアーノルドは、口の端を上げて、けらけら笑った。私も、つられてシーツのなかで笑ってしまう。
「笑いごとじゃあ、ありません! 王妃様、愛人など囲ってどういうおつもりですか!」
ぷんぷん怒る侍従が面白い。
アーノルドと見合い、ふっと笑みがこぼれた。
「王のことはお慕い申し上げています」
「でしたら!」
「でも、私に愛人を持っていいといったのは王なのですよ?」
侍従は絶句した。
アーノルド真っ赤な唇をぷるぷるさせている。
「ね、アーノルド?」
「ええ、お嬢様」
侍従がへたり込み、頭を抱えた。
くすくす、くすくす。
ああ、笑いが止まらない。
ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。
そう言ったのは、彼だ。しかも、アーノルドを愛人だと認めていた。アーノルドは公認の愛人なのだ。
「あの人に言われたのですもの。愛人をつくっていいと」
「ねえ、俺のお嬢様。もっと、ご褒美をくれるでしょう?」
欲張りなアーノルドに、体を預ける。
初心な侍従だったようで、可哀想に失神してしまった。外にいる侍女を呼び出し、侍従を王の元に送り返すように命令する。
侍従達がいなくなると、アーノルドは、私の首筋に、口付けた。
くすぐったさに、身をよじる。
アーノルドは、私の唇に口付けると、淫靡に笑んだ。
「お嬢様、愛している」