ネズミたち
「あ、あの。裁判官さん?」
怪訝な顔の見本のようなマーサ。
「私、最近訴訟を提出した覚えないんだ」
くすくす。
ペネ判事は笑った。
「もう少し修道院から離れたら説明する予定だったんですけど」
「もったいぶるなよ」
厳しい舎監から離れて、地がでてしまう。
「まぁ。まるでフェーデでも仕掛けそうな勢いね。でも、物騒な小刀は収めておくのがお利口さんですよ」
「な?」
馬車籠内だけど半歩ドン引きするマーサ。
「半身に構えて腰に手を回せば、次は抜刀です」
「ンだな」
馬車とピッタリ並んで走るパウロがマーサを油断なく警戒していた。
「ご用心ですよ。それから、話しづらいから、御者台にいらっしゃい。失礼でなければ」
「ああ」
高級な馬車なら、客室と御者は小窓しか接点がない。でも、ペネが操作している馬車は仕切り板も壁もない。だからマーサは荷馬車のように簡単に座席から御者台に移動できた。
「そうだ」
馬と一緒にずんずんと歩くパウロ。
「姉ちゃん。夜警隊に寄っていいけ?」
「〝け〟がありますか。〝け〟が。貴族の御令嬢の面前ですよ。それに夜警隊には大事な用があります。必ず参ります」
「もう、貴族じゃない。もう私は残飯を漁るネズミと大差ないから」
ペネの背後で隠し武器を構えた威勢はなくなっているマーサ。
「あらあら、本件の主張が通れば、最低でも貴族に復帰できますよ」
なぜか返事がない。
「ご存知。司法院にも最近変わったネズミがでるんです。もしかしたら幽霊」
「ネズミ? 幽霊? ゴースト系?」
「さあ。でも、却下されて処理済みだった訴状を担当判事の机に差し戻した幽霊がいると大騒ぎしている判事がいます」
「よく、わかんないけど」
「貴方に修正して頂く書類を見れば、もしかしたらわかるかも知れませんね。今日は大人しく小官と同行してください」
小官。
まるで童女のようなペネにはピッタリな形容だった。
「あ、小官はそーゆー意味ではないですからね」
唇が尖ったペネ。
僅かだけど子供っぽい所作をしたペネ判事だけど状況が飲み込めないマーサには面白みは全然感じなかった。
「パウロ判事」
とうとう一瞬でも馬車に乗らないで王都の一角。夜警隊総本部まで到着した巨体は、そんな名前で出迎えられた。
「ははははは」
なんで?
「判事は明日が当番じゃないんですか?」
シルズの専任ではないのだな、夜警隊常駐判事は。
「ははははは」
だから、なんで?
「ええっと。司法院に提出する書類、その他の消耗品を持参しました」
御者台のペネがフォローする。
「ってことだな。ははは」
「脳筋」
マーサの微かな反撃。
「じゃあ、ちょっくら書類を運ぶのさ。姉ちゃんは馬に水をあげてくれなのさ」
馬車の後部に荷物が積んであった。パウロと言う名前のどデカイ黒ずくめは、荷物を持ち上げるとすたこらと歩き出す。
「はははは」
パウロが運ぶ物品は曲がりなりにも司法院の備品。結構頑丈そうな金属製の箱に収納された荷物を、手弁当のようにひょいと運ぶパウロ。
「判事、雑用ならば隊員が」
立場上、荷物運搬は夜警隊員がするものだろう。
「はははは」
オチを教えて欲しい謎の笑いを残して官舎の奥に消えたパウロ。