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『大盗賊ダイ』  作者: 提灯屋
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リドル判事の過去

 古参判事、リドルが大法官に一方的な感情をぶつけた翌日。



 リドルは受付け。通称『豚のエサ箱』に足を運んでいた。



「は。簡単なことじゃないか。タウトやシュナイダーに任せたのが悪かったんだ。自分で訴状を選んで持ち帰ればいいんだ」



 三年前。


 バルナ王国を恐慌させた政変は、底辺貴族のリドルにも影響があった。


 リドルが、マルグレーテの土地相続と没収地の返還を求めた訴状を即日却下したのも、複雑な政治力と思惑が交差した結果だった。実はリドルだけではなく、事前に多数の判事に怪文書が届いていたことは広く知られている。


 そしてベルリナー・マルグレーテの申請訴訟を担当するリドルには、直接、忠告があった。

 謎の覆面の人物が、一言。リドルに今後を考えろと言い残して消えた。それだけの事だ。



 このままベルリナー家の人間たちが消滅か世の中に埋没してくれれば、全てがカタがつく。


 元々成り上がり貴族たちの少数の不幸で、多数の貴族が救われるなら、仕方がない措置だと信じている。そのベルリナー家だって命までは奪われないのだ。


 決して脅しに屈したのではない、訴訟の却下が結果としてベルリナー家の命を救うと信じることがリドルの精神の均衡を保った要因だった可能性もある。


「ベルリナーの小娘、もう輝かしい生活は諦めて平民として働け。生きていれば農民だってそれなりの幸福はあるんだ」


 それがマルグレーテの申請を即日却下したリドルの歪んだ温情だった。


 だから、リドル的には温情をアダで返された気分だった。しかも、まだ諦めていないなんて──!



「ははは。こうやって余が直々に訴状を受け取れば、もう終わりだ。ベルリナーの訴訟を受け持つ人間なんていないんだ」


 含み笑いするリドルは、この数日間著しい寝不足になっていた。

 目の周りにはドス黒いクマができ、誰にも聞こえない小声でつぶやいては激昂したり、苦悩している。


「さあ、これからまた儲かる仕事をしようじゃないか」


「おはようございます、リドル!」



 リドルの変貌ぶりを目撃した同僚判事は、絶句した。


「ああ、また判事の一日が始まるぞ」


 安定しない足取りで司法院の通路をリドルは進んで行った。




「どけ、下働き風情が」


 リドルは杖を振り回しながら、『豚のエサ箱』の人ゴミをかき分ける。


「判事、危ないですよ」


 謝罪も釈明も、そして開き直りの弁すらないまま、リドルは進む。


「余は王国騎士。貴族身分の判事なるぞ。下働きは、正規の職員に道を譲れ」


「ぁっ……」


 捲られた下働きたちが、不平の大合唱をしなかった理由。

 それはリドルの動く死体アンデッドのような虚ろな顔を目撃したからだ。


 ──あの人、もう長くないんじゃね?


「リドル課長」

 大法官の先生でも、リドルは高等判事にすら至っていない。


「本日、新規の相続訴訟は既に」


 『豚のエサ箱』の窓口係が申し訳なさそうに頭を下げる。残っているのは、不味そうな、儲けが薄いと嫌われた昨日以前の訴状ばかりだった。


「そこに、あるだろう」


 手にした訴状がどれだけ美味しそうか吟味中の下働きの塊から少し離れた場所に立っていた少年。

 その少年が手にしていた訴状を奪うリドル。


「でも、判事卿。本件は〝おっぱい酒場〟の営業禁止令解除要請の訴訟ですけど」

 申し訳なさそうに頭を下げる少年。


「判事が命令したのだ。よ・こ・せ!」


 まるで──墓場から生えた死人の手。

 生気を失って震えるリドルの手が、少年から問答無用で訴状を奪う。


 念のためだろうか、訴状を速読。直後、まるで怪しい宗教儀式のように身体を前後させた。


「これだ。これでいい。忌々しいベルリナーの訴訟じゃなければ、この際何だって歓迎だ」

 僅かに緩むリドルの口角。


「そうですか」

「タウト」

「はい、ご主人様」


 リドルの後方に今日は大人しく従っていた下働きのタウト。


「どうだ、タウト。余はベルリナーの悪夢を退治致したぞ」


 見た目ゾンビからの問いかけ。


「お見事で御座います」


「では引き上げだ」


「判事。訴状の受け取り……」、の署名は期待出来ない。

 窓口係は、肩を竦めた。


 まるで幽鬼のような乱れた足取りのリドル判事の背中を見送りながら、少年。いや、大盗賊ダイは勝ち誇る。


「今日の〝お勤め〟は終わり。リドルさん、そろそろおれから、〝たいだ〟と〝えんざい〟を盗まれないと、命を盗まれちゃうよ。どうする?」



 自分で訴状を奪った。間違いなく、マーサの土地の訴状ではない。


「では、今回は儲けを度外視した訴訟を引き受けよう。タウト」


 申し訳なさそうに頭を下げる下働きのタウトが書類箱を差し出す。

 そしてリドルは自分で書類箱に訴状を収めた。

 それまでの鬱憤なのか、乱暴に閉じられた蓋。


「最初から、こうすれば良かったのだ」


 こうしてリドルは、少しずつ活力と生気を回復していた。




 だが、しかし──。


「なんだ、お前」

 リドルの執務室の扉の前に直立する人影がある。


「お忘れでしょうか。貴方の正夫人です」


 リドルは、荒野の一本木にも似た枯れて愛想もない直立の夫人の出迎えを受けた。

 愛人や娼姫を厳粛なはずの司法院に同伴させる悪い意味での猛者は、相当数粛清されていた。それでも、メイドの姿で愛人を囲う判事は死滅していない。


 でも、正夫人が同室するのは稀有だ。


「何しに来た?」

 正夫人の表現が、見た目ゾンビな主人のしゃくに障ったようだ。リドルは妾を抱えていないのだから。


「家族が夫の職場に赴く。珍しい事例ではないかと。本日は如何なる訴訟ですか」

 抑揚のない棒読みセリフのような言い方で話すリドル夫人だった。


「ふん。言ってお前にわかるものではない。法の世界は奥深いのだ」


「左様で」


 一旦は主人に頭を下げる。その後で。


「三日も続いて使用人に当り散らすお仕事を持ち込まれては、家人が困惑します。よくよく吟味を願います」


「お前には関係ないと言っただろ。余を惑わす盲鬼、野獣ならば退治したのだ」


「ほほぅ。戦士成らざる我が君がモンスター退治とは天晴れ」


「また嫌味を吐くか。老後のためひと稼ぎするのだ。任せろ。そして失せろ。暇を持て余す貴族の婆ぁと愚痴りあっていろ」



 それだけ豪語していたのだけど──。


 ドスンと鳴り響く威勢の良い動作で執務机に腰を降ろした。

 おもむろに書類箱を開けた。


「へぇぇ!」


「旦那様?」


 執事のシュナイダーが主人のうめき声に急いで駆け寄ったと同時にリドルは泡を吹いて気絶していた。


「奥様、奥様」


 まるで芝居の出番待ち。

「執務室の扉の前に控えていましたよ。〝また〟のようですね」

 想定内の事件なのか、顔色も口調も変化がない夫人。


「な、なぜだ? 旦那様、旦那様」


「い、医者。お医者様を」


「タウト見苦しい。我が家の恥を外部に晒す真似は許しません」


 シュナイダーが主人の意識を取り戻そうと懸命な隙に、リドル夫人は冷静に〝モンスター〟の正体を調べる。


「三日、四日と続けて」


 カペラ大法官とフッフ資料館長が指摘したように、司法院の訴状は特殊な字体を使用している。元々高くない識字率だけど、この文体は、専門の教育を受けていないとまず読めない。


 幸か不幸かリドル婦人は準男爵家から騎士階級のリドル家に嫁いでいる。訴状は速読だった。


「ほほぅ。この泡吹きが即日却下したベルリナー家の訴訟の再審要求ですね」


 リドルの想いとは異なって、夫人は意外と主人の仕事ぶりを把握しているようだ。でも、奥さん。泡吹きの呼び方はないんじゃないのか?


「でも、泡吹きは書類を確認したのではないのですか?」


「はい、それは私どもも一緒に確認しました。ですが」

 執事のシュナイダー。


「我が君が持ち帰った訴状は、おっぱい酒場の営業停止解除要請の書類でした」


 馬鹿野郎。状況が状況だから、シュナイダーは舌打ちも顔を背けることもしなかったけど、下働きのタウトの余計なフォローが入る。


「おっぱい?」

 九十度近く歪むリドル夫人の眉。


「はい、近頃大人気の酒場で、薄着の女性が豊満な乳房を」

「もう宜しい」


 タ、ターンと鳴り響く夫人の靴音。


「元い。字面を変化させる幻術使いでも司法院に紛れていたのですか?」


 〝元い〟とは、話を元に戻せを、お上品にもったいぶった言い方なんだな。


「左様な迷い言、有る訳がないでしょう」

 夫人は、ある結論に達した。



 しかしネタバレすると、これも全てダイの仕業なのだ。


 ダイがパウロと出会ったのは、そうしたお勤めが終わった刹那。

 司法院のネズミとはダイのことなのだ。


 最初は卓上の書類箱から訴状をすり替えた。


 さらに、タウトが体当たりしたケースはダイにとってはとても好都合だった。なにしろタウト本人が接触してくれたんだから。


 今日の書類も、もちろん幻術などではない。

 リドルが冷静だったら仕掛けを見抜いて大笑いしただろうくらい簡単なタネだ。


 つまり、書類箱の蓋に偽装訴状を貼り付けていたのだ。連日の亡霊のような棄却訴状を突きつけられたリドルが、きっと乱暴に箱を開閉するだろう予測の下に練られた作戦だったのだ。


 リドルが、わざわざダイから奪った訴状の上に、書類箱の裏に貼り付けたマーサのニセ訴状がのっかる計算だった。

 結果としてリドルは、まんまと自分で罠にハマっていたのだ。


 大盗賊ダイ。


 司法院で正規の印鑑を拝借して書類偽造を実行できるのだ。リドルの書類箱の蓋に一枚紙切れを接着させるなんてラクチンだった。


 

「奥様、旦那様を」


 胸ポケットから取り出したハンカチを扇ぐ執事。粗末な気付けだ。せめて薬箱のアンモニアを嗅がせる機転が利かないとは。主人も、だけど不甲斐ない執事だ。

 リドル夫人は冷徹に放言する。


「シュナイダー。放て置きなさい。我が身から出た錆です。ですから」


「あ」


 訴状を掴む夫人。


「でも、これでモンスターはいなくなります」


 暖炉に訴状を棄てると、火術を唱える。


「はい、おしまい」

「奥様」


 初級の初級でも夫人の魔法は訴状をあっという間に灰にしてしまった。


「奥様」


 まさか焼いてしまうとは。

 厳密厳格には、この訴状は大盗賊ダイの不法侵入と有印公文書偽装の動かない証拠になる。なお、おっぱい酒場の営業云々も全てダイの創作。マーサの森も釣り餌の訴状も書類が破棄される恐れがあるから、ニセ物を用意したのだ。


 つまり、やはり司法には素人だったのだろう。

 リドル夫人は、偽造訴状を焼いてしまった。

 焼かれることもダイのシナリオ通りだとしても。


 残ったのは、意識を失ったリドル判事の無様な身体だけだった。




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