ナンシー……1
「あらあら、いけない」
勢い余って荷馬車はスタックした位置からそれなりに移動してしまった。
「あれあれ、危うく助けてくれた可愛いオチビさんたちを見捨てるところだったよ」
「頭?」
荷馬車が動いたから目標を失った力点の頭は腰から崩れていたけど、それでお勤めを諦めるほど軟弱ではないらしい。
「よし、お婆さん。そのままだ」
すぐに初志貫徹、職場復帰。
お勤めを再開する。
「ははははは」
立ち上がり、荷馬車より高見に回り込む。
「あらあらカシラ坊や、転んで痛くないの?」
今更だけど頭を名前と勘違いされている。
そんな老婆の心配を他所に、頭は荷馬車を追い抜いて、両手を腰に当てて一言。
念願の決め口上のご披露となりました。
「はーはーはー。ここで会ったのが運のつき。お婆さん、その荷物、少しいただくぜ」
「あら、そうなの。お婆ちゃん、ミカちゃんたちにお礼したいから丁度、いけない。〝カシラ〟君」
手綱が引かれて荷馬車が止まる。
老婆はゆっくりと下車、頭に接近する。
「はーはーはー。俺も盗賊だけと心の奥底まで非情じゃない大人しく荷物を……?」
「カシラ君、ごめんさない、転んだ時に擦りむいたのね、血が出てるじゃない」
頭の膝小僧から、赤い筋が流れている。
「はん。多少の流血もお勤めの内さ。さぁ荷物を」
「はいはい、後で上げますから、怪我を治療しないと」
「いいんだよ。さっさと」
ぺしっ。
老婆は頭のおでこに一撃お見舞いする。
「いいじゃないでしょう。お婆ちゃんの家、遠くないからいらっしゃい」
老婆におでこ、肩と連打されると、今までの疲労が一気に吹き出したのか、くにゃくにゃと座り込んでしまう頭。
「わかったよ。仕方ないなぁ」
「ミカは、ミカは?」
「もちろんミカちゃんもよ。ミカちゃんはお怪我は?」
「ないよーー」
バンザイのポーズで無事をアピールするミカ。
「お婆ちゃん」
どこで仕入れたのか生意気に肩を竦ませながら〝頭〟はつぶやいた。
「ミカを地面にぶつけないように身体をひねった勢いで膝を擦りむいたんだよ。じゃなければ尻餅が自然だろう?」
だそうです。
「そう、本当に偉いのね。あらあら、二人とも汗びっしょりじゃない。喉渇いたでしょ? 井戸水だけど、たくさん飲んでいいからね」
「わーい」
まるで指定席。
ミカは御者台の老婆の隣にチョコンと座る。
「おれは歩くよ」
「じゃないでしょう。いいから乗りなさい」
御者台にもどった老婆が手招きする。
「なら、ちょっと待ってて」
頭は背嚢から石と縄を取り出した。
持っているなら、どうしてこの石を力点にしなかったかのって? それは、この石が頭にはとても大事な役目があるからなのだ。
「頭、どうしたの? 石さんをどうするの?」
「うーん。お婆さんの家に着いたらわかるよ」
頭は石の側面を器用に縄で括ると荷馬車に結んだ。これだと荷馬車は石を牽引する格好になる。普通に結んだら、肝心の砥石でなく縄の膨らみが地面と摩擦してしまうので頭の目的が果たせないのだ。
「あれあれ、もしかしたらそれは砥石かい」
「さっすがー。ナニ……お婆ちゃん?」
「助けてもらった年配者が名乗ってなかったなんていけないわねぇ。私はナンシー。ナンシーでもお婆さんでもお婆ちゃんでも、呼びやすい方でいいわよ」
うなずく兄妹。
「じゃぁナンシーお婆さん、砥石だって時々手入れしないとね。じゃないと刃物だって切れ味がにぶるんだ」
癖の範囲内なのか。利き腕などが関係しているのか、砥石も特定の場所で刃先を磨いてしまう傾向がある。
つまり、砥石本体に利用頻度などで発生した凹凸があれば、わざわざ歪ませるために研いでしまうハメになる。
ダイは、普段の歩行速度で牽引したのでは容易にとれない砥石の歪みを、乗馬の速度で矯正しようとしているのだ。
小さくても頭。
盗賊団の団長ではなくて、なぜか頭を名乗るだけの価値はあるようだ。
「って祖父ちゃんが言ってたんだよーねー」
このおしゃべり。
妹のミカに小さな拳を握る。
「あれあれ教えてもらったにしても、覚えているなんてカシラ君は物知りねぇ」
ナンシーがフォローする。
「カシラ君? ちょっと待ってよ」
もう一度荷馬車の鼻先に回り込む、カシラと勘違いされた頭。
「色々邪魔が入ったらおれも名乗るのを忘れていたから、今から名乗るぜ」
定番なのだろうか、それともこの少年の筋立てなのか、親指を自分に立てながらのドヤ顔。
「俺は盗賊だ!」
「ミカもだよーー」
御者台の隣、ナンシー老婆とピッタリ触れあっている五歳児も兄の真似っ子をする。
「あらあら、そうなの」
物凄ぉーーーい蛇足として、このナンシー老婆はまだ盗賊云々は全く本気にしていないので、そこのところ宜しく。
「お名前は?」
「俺はダイ。大盗賊ダイ」
「え? それはお伽噺でしょう。『大盗賊ダイ』なら、お婆ちゃんのお母さんから枕元でお話してくれたわよ」
「だから、それがおれだよ。ナンシーお婆さん」
「でも、『ダイ』が活躍した時代は」
「細かいことは言っちゃダメなんだよ」
「細かいかしらねぇ」
「お兄ちゃんじゃなくて、〝かしら〟だよーー」
話が続かないので、ナンシーは名前の詮索は諦めた。
「そう、なら〝ダイ君〟。荷馬車に載ってね」
「ミカもいるよーー」
右側は占領済み。
「じゃあ」
ナンシーお婆ちゃんの左側に座る頭、じゃなくて少年ダイ。
「ねぇミカちゃん、カシ……じゃなくてダイお兄ちゃんは何歳なの?」
「うぅーんと」
一旦パッと広げた指を折り畳んで、また広げて、計算が合わなくなったらしいミカ。
「お婆さん、おれ八歳だよ、多分」
「そうなの。二人とも色々な遊びを考えたり、車輪を動かしたり、偉いのねぇ」
「ふっ。おれも盗賊団の頭としていろいろ〝べんきょう〟してるからな。祖父ちゃんとかアーちゃんの教えだって覚えているし」
「そうなの?」
ナンシーの友人帳にアーちゃんはない。
「でもダイ君は本当にお利口さんね」
と、ナンシーが不意に唇を噛んだ。
「あら、いけない」
手綱を引き絞るナンシー。
「あれ、お婆ちゃん。速度あげるの?」
ダイがキョロキョロと周りを見る。
道沿いに、この時代の田舎では珍しい二階建ての家屋があった。
ぱしぱしと手綱が何回も上下すると馬はゆっくりと勢いを増した。
「そうね、ここはお婆ちゃんのお家じゃないから」
「ふーん」
「わーい! お馬さんはやーい」
振り返っても二階建て住宅が見えなくなる距離まで馬は急かされた。
「そろそろゆっくり走るからね」
手綱が緩まる。
「ねぇところでダイ君……ミカちゃん?」
荷馬車の左右運動と速度が落ちた。
「あらあら、やっぱり八歳と五歳には大変な大仕事だったもんねぇ。ありがとう」
瞬間的に寝入った兄妹を気遣ってスローモーに荷馬車は目的地に進む。