お勤め開始、司法院に潜入
馬小屋の掃き掃除が終わった頃。
とある分隊が巡回から帰投した。
「そこの小僧、軍靴の泥を払っておけ」
「ザネリーさん」
熊人族の隊員だと紹介されたら信じていしまいそうな幅広くて毛深い隊員のザネリーってオジさんが、脱ぎたての軍靴をダイに放り投げる。
「陰干ししていいですか?」
言葉通り泥と汗が染み込んだ軍靴を拾いながら、ダイは確認する。
「かげぼしだぁ? お前、なに言ってんだ?」
「革製品は直接お日様に当てると、ヒビが入りますから」
「俺の軍靴がヒビがある粗悪品だってのか? あ!」
夜警隊の濃紺の制服を腕まくりするザネリー。
本当、このオジさん熊人だろってレベルで腕も毛深い。
「ザネリーさん。子供になんて言い草ですか」
別の隊員が、ダイとザネリーの間に入る。
パット見ザネリーよりも色々と負けていそうな感じ。年齢も階級も経歴も服装も。
「どけ、カラスコ」
まだ十代か二十代前半の青年の範疇だと推測される隊員の名前は、カラスコさん。
「ガキが一人前の口を利くのは、せめて半人前の仕事してからだ。こっちはな、交代間際に水死体始末して気分が悪いんだ。半腐乱だからくせえし靴は泥だらけになるし」
「そうさ」
ザネリーと同じ分隊の別の隊員が補足する。
「元軍人の俺たちが水死体始末なんて不名誉だったらありゃしないんだ。こっちの立場も考えてくれよ」
「そんな気分が悪くなるほど汚れた貴殿の軍靴を磨くことの、どこが半人前以上の仕事なんだ」
カラスコが敬語を止めた。
「んだと」
嫌な空気だ。
今度はダイが隊員たちの間に入る。腰から真っ二つなほど、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。おれ、夜警隊に興味があったから手伝ったフリしてました。でも与えられた仕事はキチンとこなしますから勘弁してください」
「ザネリー。この子はな」
「ふん聞いてるよ。平民風情で士官に昇格しても、結局は王国軍から追い出された小隊長の親戚だろ」
あれ。そう言えばこのオジさん隊員、ザネリーさんはダイの家で絵札を興じていた記憶がない。だから、グアンテレーテ・アーネスト小隊長の親戚と解釈されているんだろう。
「いいよな。夜警隊しか知らないお池の小魚はよ。俺は今すぐでも栄光の王国軍に復帰したいぜ」
設立の日数が短く、そして貴族や大地主から必ずしも歓迎されていない夜警隊は、結成時アーネストのように王国軍からの出向隊員で構成されていた。多分、ザネリーも出向組なんだろう。
でも最近では、新兵から夜警隊に応募する人材もいるらしい──カラスコさんみたいに。
「気分が悪い。遊びならとっとと帰れ」
唾を吐き捨てて官舎に消えるザネリー。
なるほど、出向組と新規採用組では意識や熱意に隔たりがあるらしい。
「おい、ダイ君」
一旦軍靴を床に置いて、ひとまず廊下を拭き掃除しているダイの肩を、カラスコが触れる。
「足で擦ればいいんだよ。あんな汚い唾」
「大丈夫ですよ」
ダイは、布切れで床を磨き続ける。
「偉いんだな。気分転換に外出に付き合えよ。もちろん、仕事だぞ」
「えっと、どんなお仕事ですか」
「〝司法院〟さ。移送する悪者がいるんだ」
「うわぁ」
アーちゃん、アーネストから目的の情報入手を期待していないダイ。たしか、〝しゅひぎむ〟とか聞いたよな。
でも夜警隊の仕組みを少し把握しているから、積極的に官舎に潜入した。歩かなければ〝棒〟にはヒットしないから、お勤めのための第一歩だ。
「ほら、夜警隊って境界線を無視して悪者を逮捕連行するだろ」
そこまでは熟知している。
「簡単な取り調べしてから司法院に移送したり釈放したりするのさ。今は移送の任務」
「どうして逮捕したらすぐ送らないの? その、〝しほういん〟に」
「例え盗みの現場にいても、偶々通りかかっただけで犯人、悪者じゃないやつもいるんだ。だから、本当の悪者なのか、疑わしいやつなのか、実は普通の人なのか、夜警隊が調べてから判事が最終判断をするんだ。あ、判事ってさ」
ちょっとダイを気遣ったようだけど。
「あ、やな気遣いですよ。〝さいばんかん〟のことですよね」
相手の口調を問わず、低姿勢なダイ。
「そうだ詳しいな。で、ほとんど毎日司法院にそいつらを移送する。この時は容疑者って呼ぶんだ」
結論から述べると、容疑者たちを司法院に移送するのは夜警隊の日常的な任務だ。
でも、騎馬を全力疾走させて悪者を追跡する実務に比べると地味で特別に評価加点にならない。あんまり歓迎されない〝お勤め〟なんだそうだ。
「ダイは、シルズ判事のお共をしてくれるか? 夜警隊の常駐判事の一人なんだ」
夜警隊潜入初日で、お目当ての棒を掴んでしまった。
「だけどさ、あの判事だらだら仕事の癖に気難しいんだよな」
ダイはまだ八歳、子供だ。子供だから、一度掴んだモノは離さない。
「おれでよかったら、よろこんで」
「助かるよ。おい、判事の尻を叩いてくれ。そろそろ急がないと時間に間に合わない」
カラスコより若い隊員が、官舎の奥に消えた。
「ほほぅ。これは意外な美童」
ダイをつま先からてっぺんまで舐めまわすように観察するシルズ判事。当然だけど、全身真っ黒な法服って名前の制服を着用している。黒ずくめでも、裁く方の制服もあれば、捕まる側もあるわけだな。
「彼はダイ。グアンテレーテ隊長のご親戚ですよ、判事」
「百人斬りの親戚と。うむむ。そうか、残念」
どこが残念かツッコミたい場面だけど、我慢ガマン。
「初めましてダイです。シルズ判事様、司法院って初めて入るから、宜しくお願いします」
あ、この人って豚が笑った顔にそっくりだ。
「そうか、そうか。ささ、本官の隣に座りなさい」
散々待たせておきながら、お詫びもしないでとっとと客室に乗り込むと、おいでおいでをするシルズ。
「でも、おれは〝ずいこうしゃ〟だから、馬車と一緒に走ります。足早いんです」
破顔でダイを手招きするシルズ。
「いいから、いいから。時間がないから」
既に騎乗して手綱を握っているカラスコがぼそっと嘆いていた。
「誰のせいです」
容疑者移送の書類の点検もカラスコに投げたシルズは、上機嫌でダイを質問攻めする。司法院に潜入の先の先が目的なダイは、朗らかに判事の質問に答える。
移動中、不意に馬車が上下した。
「しかし、判事を載せている割には粗悪な馬車だ。ダイ君、揺れは大丈夫かな」
そして、判事が出向に関して愚痴ったのでちょこっと質問タイム。
「じゃあ、判事様って始終〝しほういん〟にいないんですか?」
「そうなんだよ。本官のように、夜警隊に出向して罪なき臣民が陥れられないように冤罪防止に勤めたり、自宅で仕事をしたり、司法院の支部のない田舎を巡回する判事もいるんだ」
護衛随行者としてシルズとダイが載る馬車と並走しているカラスコがむっとした顔をする。
「そうですか」
ところで、どうしてこの初老で豚みたいに太った判事はダイの身体を触るのだろう。
先日、『猫の足音団』のマーちゃん、マルグレーテから指摘されたように、もっと各方面勉強する必要があるダイだった。
顔パス不許可。シルズはちゃんと懐から何かを提示してから馬車は柵門を潜った。
略装ではない、完全武装した門番が猛々しく整列して警備。その一本いっぽんが大振りの枝みたいな太い鉄棒の門柵だ。まるで天空を突き刺すような門柵の光景にダイのテンションは急上昇している。
「うわー話には聞いていたけど、まるで別世界だ」
ダイが同乗する馬車が、牛に食いつく蚤だと思えるほど広大な敷地。王侯貴族の屋敷でも通用するほど整備され無駄な余剰空間が展開する場所。それが司法院だった。
「あれ、水が湧き出てる」
「噴水を初めて見るのかい、ダイ君は?」
頭を撫でられるダイ。でも、ミカが言うほど、このナデナデは嬉しくないのはどうしてなんだろう。
「はい! 〝ふんすい〟って言うのか……」
ダイが祖父ちゃんや夜警隊員から耳にした、貧しさに根負けして盗みを犯す人種とは実際に住むべきセカイが違うのは間違いないようだ。
「ダイ君、驚いたかね。ここが司法院の本院。冤罪を憎むシルズ主任判事が居るべき場所だよ」
余談だけど、主任判事はそれほど高位の役職ではない。
でも、ダイは感激しっぱなしだった。こうしてシルズは、ダイのご機嫌を自分の手柄だと誤解し続ける。
「すっごーーい!」
「そりゃそうさ。元々司法院は王宮だったんだからな。だけど」
「判事、それくらいで」
眉を折り曲げたカラスコが客室の縁を軽くノックした。
「これは迂闊。カラスコ、済まんな」
大人の事情はさておいて。
「あの、〝しほういん〟って資料とか読めるって本当ですか?」
シルズが大口を開く寸前にカラスコが説明する。
「閲覧なら、掲示板か公判前閲覧室か資料館だな」
「そうだな。本官が諸手続きが終了するのに小一時間。司法院は庭園の立ち入り禁止だから、資料館で遊んでなさい」
「遊び場じゃないでしょ。なぁダイは文字が読めるのかい?」
識字率は一割に満たないのがバルナの現状だ。
「ありがとうございます。馬の世話をしたら行ってみます」
下馬しながら、カラスコが首を降った。
「いや、ダイ。資料館は一般人は立ち入り禁止だった。教えておいて悪いけど、怖い人がいるから覗いちゃダメだぞ。それから、文字読めても子供用の本はないんだぞ」
それを知らないシルズ判事は、カラスコの苦言もスルーする。
「なら掲示板か……閲覧室ですね」
ダイは掴んだ。
これから〝お勤め〟の標的となり、ダイが盗むべき目標の尻尾の産毛を。
シルズとカラスコがそれぞれ自分の本業に戻って、独り広大な司法院の庭園に取り残されたダイはほくそ笑んだ。
「おれは大盗賊ダイ。悪いけど、盗ませてもらうよ」
もちろん、ダイもこれから本業に励むのだ。
司法院の古参判事。リドル・オーゾは現在五十二歳。領地土地問題の一部を選り好んで担当している貴族出身の裁判官だ。
もっとも、貴族と括ってもその身分は騎士。この下に準騎士が存在するが、貴族階級としては底辺の部類で、リドルは裁判官として身を立てるべく研鑽の日々。
なら良かったのだけど。
『リドル判事・執務室』
司法院のある一画。
リドルに割り当てられた執務室の正面扉には、既に配下の下働きやリドル家の使用人たちが待機していた。
「旦那様、いつも通りでございます」
執事の拝礼に迎えられて法服、黒ずくめの男が一直線に歩む。
「うむ確実なものか」
鬢付け油で整えられた口髭が動く。
「よくよく吟味をした訴状ばかりかと」
確実とは、確実に儲かる訴訟なのかと確認したのだな。
バルナ王国だけでなく、バルナが位置する大陸では裁判官は給与はほとんど支給されていない。
その代わりに判事や司法関係者は、自分が担当した案件の手数料の徴収が主たる収入となる。そうなると大半の判事は事件や訴訟を、
『儲かる』、『儲からない』、
で判断する。
マーちゃん、マーサことマルグレーテが不平を鳴らしたように、基本金持ちは訴訟を引き延ばせば他人の土地を侵犯していても既得権と併せて勝ててしまうのが実情なのだ。
──金持ちのやりたい放題でいいのか?
──司法は公平であるべきではないのか?
当然だけど、手数料稼ぎの審議日延べ対策として、判事たちの固定給制も検討され試行されたこともある。
残念な結果として、固定給制が採用された期間、判事たちは仕事をしてもしなくても増加しない給与に、露骨な怠惰な業務で応えた。司法院職員たちの固定給制は即決で廃止。手数料制は、やむを得ない措置として健在だ。
そして、上位職種や古参判事たちは『儲かりそうな』訴訟の書類だけを持ち帰っている。
リドルも典型的な持ち帰り組の一人だった。
しかも、持ち帰りの作業すら下働きが代行している。下働きは、司法院職員か代訴人を目指す、でも自力では司法院採用や資格習得が困難な中間層出身者が支えている。
根気よく仕え、そこそこ仕事を覚え、主人先輩に可愛がられた下働きが、司法院に採用されたり、代訴人の資格を習得して一人立ちを果たす。
さらにこの中から強運の持ち主は自分も下働きを駆使して投資分を回収する。
バルナだけじゃなくて、大陸の司法を支配している悪しき連鎖の一場面なのだ。
「さて」
リドルは訴状が収められている小箱を開ける。
どれだけの収入が期待できる訴訟なんだろうか、でも高額な手数料が懐に収まり、プラス安易な訴訟は滅多にない。
「下手な案件よりは空箱がまし、であるがな」
判事たちにの代理人に仕分けられ過ぎたら訴状が一枚も書類箱にないなんて日も珍しくない。
「ほぅ。土地相続の……シュナイダー!」
お船でも建造できそうな巨大な扉に控えていた執事が飛び跳ねる。
「旦那様」
気難しい主人判事の剣幕を察して超低姿勢で接近する執事だったけど、そんな気使いは無用。リドルの落雷で、本日二名が死亡した。