ナンシー……9
後日。
「工房長、やっと昔の四割程度まで蚕も復活しましたよ」
年の頃三十前後の男が作業記録簿をメモりながら二階から降りてくる。
「工房長?」
ナンシーは竈の火加減に専念していて男の接近には無反応だった。男は先日ダイたちが腰掛けたりした大型テーブルに作業記録簿を据え置いた。
「サジ、くいつきはどうなの?」
竈を睨んだままのナンシー。
「あ、はい」
サジと呼ばれた三十男は直立。緊張した面持ちになる。
「心配されました、食紅に漬けた葉ですけど、全く問題なくお蚕様は食べてくれております」
「そう」
ナンシーがどんな作業をしているのか気持ち身体を傾けて探ろうとするサジ。
「じゃぁあの子、ルシアが願った朱や黄金色のシルクは?」
また直立に戻るサジ。
「はい、この様子ですと間違いなく主任の期待通りのシルクが生産できます」
「そう。じゃぁ、お茶にしましょう。皆を呼んで頂戴」
「はい、工房長」
仲間たちを呼ぼうと踵を返したサジは、ふとある気配を感じた。もう一度ターン。
「工房長」
さっきまで背中を向けて自分と正対していなかったナンシーが振り返っている。なぜか平板を持ったまま。
「お顔が」
ナンシーの気色は、仄かに赤い。それはきっと竈と睨めっこしていたからだとサジは解釈していた。
「きゅ、休憩中は、仕事じゃないから」
そりゃそうだ。
「工房長」
どうして工房長は、ナンシーはモジモジとしているのだろう。仕事に関しては頑固な職人肌な女性だったのにとサジは背中に特大疑問符を背負う。
そしてナンシーは背負わない代わりに鉄板を窯から引き出していた。
「工房長それ、鉄板ですか。パンとかを焼く?」
「こ、こんな時は、お義母さんでもいいのよ」
サジ。
彼はナンシー宅から馬車で数分の距離に家を構えていた。ナンシーの娘ルシアの亭主であり、当たり前にナンシーの孫コノリーの父親である職人なのだ。
ルシアは喧嘩別れした勢いで母親のナンシーの許しなく職人のサジと結婚して新居に自分の工場を構えていた。
サジとルシア夫妻が色つきシルクの挑戦に失敗して通常の養蚕をしていたのは、先日ダイに吐露した通り。
「皆でお茶にしましょう」
「はい。じゃぁコノリーも連れてきます」
「そうね。よかったらコノリーのお友達も一緒に呼びなさい」
ナンシーはまだ煙か蒸気がたちこめている鉄板を持っている。ナンシーはビスケットを大量に焼いていたのだ。
「は、はい」
ああ。俺がまだこだわっているな。
サジは最敬礼をしてしまった己を恥じていた。
「でも、お義母さん。近所の子供たちにも分けるにしても、それ多くないですか」
「ふふふ」
鉄板から木製ボールにビスケットを移しながらナンシーは朗らかに答えた。
「これからはね、いつでも可愛いお客さんのために多めにビスケットを焼くことにします。商売を再開すれば、そのくらいの余裕はありますからね」
「お客さんですか?」
それって取引関係だろうか。
サジは、ナンシーが頬を赤らめながらビスケットを焼く相手を想像してちょっと視線を上げた。
ナンシーは、サジの考えを超越して、とあるお客さんを思い出すように空を見上げる。
「そうよ。いつでも二名の可愛いお客さんが来てもいいようにね」