後編
無様な姿勢で指令所の中に転がり込んだ僕が最初に認識したのは、いつもと変わらない隊長の後ろ姿でした。
そして、そこから認識は一気に広がりました。
自決、被処分、巻き込み。それぞれに要因は違えど、指令所内には遺骸と破片が散っていました。ほのかに甘い匂いがしていて、筐体端末の画面はほとんどが消えていました。非常灯も点いておらず、光源はわずかに生き残った端末画面だけ。それでも十分なほど、僕の目はここまでの道程ですでに暗さに慣れていました。
僕がその場でする必要があったのは、指令所内の制圧と隊長の状態の確認でしたが、そのどちらを優先するべきかを僕は決めかねました。あまりに、静かすぎたのです。ただ、その静けさのおかげで感情の暴動は収まってゆきました。
いくらかの時間が過ぎ、ようやく僕が決断したのは、指令所内の制圧――――隊長に銃口を向けたまま、壁に背を向けて指令所内を一周することでした。ためらいを殺し、僕はまっすぐに隊長へ照準を合わせました。
「そうだ、それでいい」
訓練を経て培われた精神が、ここでようやくその自制力を取り戻していました。想定していた事態の中での、最悪で、最も静的な今――――なにもかもが死に、喪失と終末の気配が満ちていることが、僕の精神をぐっと支えていました。
「そうやってこの部屋の現状をすべて把握しろ。監視対象を注視し続けることも忘れるな」
言われずとも、一連の流れは僕のあらゆる領域に浸透していました。移動の仕方も、視線の運びも、確認のタイミングも、なにひとつ違えることなく。
残りは、あと半周。
「お前は優秀な塔隊員だ。あらゆる技術を高い水準で習得し、あとは経験が精神を確かにするのを見守るだけ。そう思っていた」
僕のほうへ顔を向けない隊長。視線は自分の足元。それでもきちんと通るその声。
「だがな、もうないんだよ。なにひとつとしてな」
あと数歩。それほど広くない空間なのに、長く、遠い。
「下はきっともうだめなんだろう? ならば、やはり変わらない」
緊張の描いた弧が円となった瞬間――――
「私たちが守るべきものも、場所も、なくなってしまったんだ」
その中心で、輝きのない涙が落ちました。
「軌道基地の上部にあった人口区はパージされた。人口区単独では環境制御もままならないから、じきに屍を積む漂流船になる。まるで建造時点からすでにこうする計画が予め用意されていたかのようだな」
隊長が笑いました。その不自然なほど軽い響きから、いつの間にか隊長が笑わなくなっていたことに気づくと同時に、僕の身体がおぞましさに囚われそうになりました。室内の確認を終えたことで対象が隊長に限られたことを理由に、いや、口実にして、僕はそのおぞましさから逃れることを肯定しました。
「ソウ先輩は……塔隊員は必ず《虚人》を退けます。下がもうだめだなどと、勝手な推測ですよ隊長」
「いや、ソウやお前では絶対にもたない。もうここが唯一になったのだからな。これまでならば多少の偏りはあれど6基に分散していた《虚人》が、これからはここへ一気に集う。これのせいで……いや、これと同じ考えに至った者のせいでな」
その言葉とともに隊長が足を上げました。その微細な動きに撃つかどうか判じかねていると、隊長はその足をすぐそばの破片に打ち下ろしました。キシッという音とともに、破片はさらに細かくなりました。それはおそらく――――
「なにが……あったのですか」
「お前の推測通りだよヘクト。生きている端末からすでに拾い終えているはずだ。それでも狂わないとは、強くなったのだな、お前の心も」
「推測は推測です。確かめなければ不安定なままです」
「私の言葉で確かめるのか。そこはまだ未熟なのだな」
隊長の身体が輝きと透明度を取り戻し始めました。グリップを握る手にさらに力がこもりました。
「ならば、私はすでにお前にその手がかりを言っている」
「『私たちが守るべきものと場所がなくなった』。それだけでは曖昧です」
「そうだな、お前はなんでも堅く進めようとするやつだったな……」
明度の急激な上昇に瞳孔が圧倒されても、僕と隊長は互いに動きませんでした。
「それでいい。それは決して大きな失敗をしない選択方法だ。私はそんなお前のために、隠さず、はっきりと、言ってやろう」
その瞬間、輝きがふっと弱まり――――
「3号塔と3号軌道基地を除く全ての塔と軌道基地において、全ての人類は《虚化》した。そして、それは人類自身の選択だった」
この世界で最も苛酷な答え合わせが始まりました。
「《虚人》はな、ヘクト、これに言わせれば『人類の境地のひとつ』だ」
また踏み込む隊長。もはや砕ける音はほとんど聞こえなくなっていました。
「《虚人》の出現以前から、人類は危機に瀕していたという。それは一見しただけでは誰にも感じることすらできない、そうだな……穏やかで重大な危機だった。人類は進化し続けられると思われ、実際に進化し続けていた。ただひとつ、創造性を除いてな」
今この時間に、僕の意思や持論は必要ない。なんの示唆もないのに、僕はそう感じました。だから、僕は隊長の話と挙動とにのみ集中し、思考と感覚から自分自身の存在を抜き取ってゆきました。
「創造性は人類が獲得した数多の特性の中でも希少で強力なものだ。そして、それは常に意思と、それも積極的な意思と併存する。それを失ったんだよ、《虚人》となった者たちは。神が『ミのない者』とみなして実存を奪ったのか、宇宙が虚無をそこに定義したのか、真の要因はどこにあっても問題ではない。ただ、ある日を境に人類はそこに虚無を抱ける存在に成り果てた」
隊長が自分の手を視線の上に置き、拳を握りました。
「それでも、そうはならなかった者が少なからずいた。そんなもの、ただの確率だ。創造性は閉じゆく未来に立ち向かう者に、立ち向かい続ける者にのみ強く宿る。ただ、一度宿れば弱りはしても消えることはない。記憶がそれを持ち続けるからだ。そして、これらにとっては、それが間違いだったらしい。《虚人》という強大で根源的な恐怖。それから逃れ、生き残ろうともがき、各地域から軌道上に打ち上がった基地と人口区。本当なら、そこから広大な宇宙へと流浪の旅を続ければよかった。だが、人類はそこで“甘えてしまった”。いざとなればそうやって宇宙へと繰り出せばいい。そのための技術は確立されているし、《虚人》の排除も、困難ではあるが、局所に限ることができれば不可能ではなかった。人類を母なる大地へとつなげる『塔』はそうやって生まれたんだ」
その事実とそこから導き出された考察は、きっと隊長がもっと昔から抱えていたもの。
「そうだ。塔は必要の存在じゃない。願望の、不要の存在だった。私たちが命をかけて防衛してきたものは、本当は簡単に捨てられるものだ。そして、塔の頂点で生きる人類は、生まれ落ちた瞬間から危機の中に生まれ、生き続けることが創造性の保証と同義になっていた。これらはそこに見たんだ。人類が再び抵抗をやめようとしていることを。たとえ《虚人》とならずとも、危機を幻のように感じてしまいさえするような人類は虚ろなのだとみなし、これらは――――私と違って――――こう考えた。『人類の不可避の未来は虚無なのだ』、『虚無こそが人類の進化の次形態なのだ』と。虚無に到達することが人類の未来。きっとその向こうにしか可能性は存在しないと。そしてこれらはやってのけた。人類を《虚化》する計画を、年月をかけて、こうも完璧に」
完璧さはいつも積極性と共にあったのに、今だけは違って。
「私もその一端を担ってしまった。この実と虚を遷ろう身体になることを拒まなかった。なるほど、確かに私もあるところでは抵抗を捨てていた。ただ、それはすべてにおいてではなかった。すべてにはなれなくなっていた。もうあの純粋な虚空に触れても、装備を解いても、私はどちらにもなれない。もし人類がこれらの考えたように《虚化》の先に未来があるのだとしたら、私はその未来にいない。それを、私は拒みたかったんだ」
隊長の目が僕を捉えました。
「ヘクト。お前もじきに虚空へ消えてゆく。それは避けられない。お前がソウを信じようとも、敵わないものはある。基地間の連絡橋を落としても、塔をパージしても、お前は生き続けられはしない。だが、そうしなければ《虚人》は必ず襲い来る。お前を《虚化》し、私の実存を喰らおうとし、永遠にその時間は続く。もはや今の私にできるのは、お前の死を見届けることだけだ」
この瞬間に、僕は自身の満点を確かめ、同時に無知だった領域に零点を突きつけられました。
恐ろしくなるほどに、自分の思考は未だに明晰に保たれていました。
不可避の死。今までのすべてを裏切る終末。隊長だけの虚無。
塔隊員である意味の、崩壊。
合わせてから外すことのなかった照準。そこにきれいに従って、実子線の射線が伸びてゆき、隊長の腕を貫きました。
それが、僕の答えでした。それが、今の僕にとって、自分の力で成しうる答えでした。
なのに――――
「ありがとう、ヘクト」
視覚に、聴覚に、真の思いと重みを捉えてしまった僕は、答えをきれいに裏返し――――




