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5.飢餓の産声

敗北、失敗、味覚の消失。龍の心は摩耗して行く中、「あの時間」がやってくる。

いつもより速い起床ラッパに叩き起こされ、眠気で目が半分閉じていては失態を犯して当然だろう。武器を武器庫から搬出する場合、安全装置(セーフティ)を掛けて出るが、それを忘れた事で火器担当幹部に拳骨を喰らった挙句、五分ほど説教を聞かされた。その時間があれば間に合っていた集合にも遅れ、大勢の隊員の前で説教され腕立て伏せをやらされた。防弾ベストや弾薬を身に纏った状態で腕立て伏せなどレンジャーや特殊部隊がやる事だ。気分も体も重い状態で軍用トラックの荷台に乗り込み、目的地に着くまで体を揺すられていた。


 「おい吉隠、お前いつもやらかしすぎだぞ」


俺の真正面に座っている隊員が苛ついた表情で鋭い視線を突き刺してきた。俺と同じ同期の山田三曹、こいつが醸し出す不良の臭いがたまらなく嫌いだ。実際不良なのだが。俺みたいに口が大人しい奴にはワンワン吠える鬱陶しいチワワだ。


 「…すまん、焦っていたんだ」

 「そうやって毎回いい子ちゃん振っているの、すげえ腹が立つんだよ。調子のんな」

 「だから悪かったって」


山田が「おいてめえ」と俺を威圧すると詰め寄って来た。


 「なめてんのかその態度? 一発しめといた方がいいんじゃねえか」

 「……お前の方が俺より指摘事項が多いくせに…」


山田がいきなり俺の頬を殴った。他の隊員が慌てて止めた。頭に血が上った山田は段々と気性が荒くなってきた。結衣や他の上階級者がしかりつけても聞く耳を持たなかった。こいつは一度キレると非常に面倒くさい。


 「おい、文句があるなら来いや偽善野郎!!」


―――今の一言で体の内側からにじみ出てくる青龍(殺意)の気配を感じ取り慌てて止めた。湧きだす怒りを抑えるのは自分を生殺しにするのと同じで、非常に胸糞が悪い。

正直こんなチンピラモドキより俺の方が強い。ちょっと手を加えれば半殺しにもできる。


 『じゃあなんで邪魔するんだよ』

 (こんなところで尻尾なんざ出してみろ、俺もお前も終わりだ)

 『嫌いなんだろ? 腹が立つんだろ? 殺すついでに喰っちまえ。だいぶ餓えてきているしなお前』

 (こんな人前でできるか馬鹿野郎)

 『じゃあ「人がいないところ」ならできるってわけか』

 (……そんなわけあるか)


とは言いつつも青龍の言う通り、だいぶ飢餓感に苛まれているのも事実だ。だいぶ思考があやふやになってきた気がする。ずっと腹が鳴りっぱなしで隣に座っていた隊員が不信に思ったのか「ダイエットでもしているのか」と聞かれた。こんな状況でダイエットでもしたら死期を早めるだけだ。味を感じない朝飯を四人前も平らげてこの状態だ。胃のあたりに広がる虚空が息苦しい。持ってきた水でごまかそうとしても無駄だった。

 目的地に着くと車から降り、決められた区分ごとに並び整頓した。列の先頭にいる水瀬が「楽にしていい」と掛けると俺の小隊全員が不動の姿勢を解いた。


 「さっき連絡があった。別の区でBEASTが見つかって交戦中らしいんだ。危険度が高い奴が集団で襲ってきたらしい。今はABRの人たちがほとんどそちらに行って合流できない。悪いけどチーム編成は変更だ。少人数で広範囲を廻らなくちゃいけないけど頼むよ。危険だと思ったら逃げるんだ」


 チームの編成は水瀬と幹部の人間数名が相談し合って決めた。だがその班員はほぼ同じ小隊の人間たちだった。俺の班は俺と高月、山田、そして結衣。無線機は高月が持ち、結衣が全体の指揮を担う事になった。山田と目が会うと「なんだよ」とややキレ気味に視線を突き刺してきた。


 「別に何も……」

 「あ!? はっきり言えや!!」


すると鉄帽を通して重い衝撃が上から下に向かって走り、俺と山田の視界を大きく揺らした。結衣が拳骨を落としたのだ。


 「後にしてくれない?」


いつもは明るいはずの彼女が見せた無表情を見た途端寒気がした。だが山田は俺と違ってそのような素振りを見せることなく大きな舌打ちをした。こいつは毎回上官に対し無礼な態度をとる。



―――死ねばいいのに



結衣が三人を手招きで集めると地図を広げた。


 「今アタシたちはここ。北にある公園から五十メートルのところ。ここから西に進んで病院、次に廃工場周辺を詮索。ここから迂回して元の位置」

 「あと、仮に不審者を見つけてもまずは様子を見て報告をするように、と水瀬2尉から無線で伝言があったんでよろしくっす」

 「ありがとう」


結衣を先頭に行進が始まった。決められたルートを進み警戒、非常時の戦闘行動が主な任務だ。

車のエンジン音や人々が歩き奏でる靴の音がBGMとなって町を包んでいた。警戒週間とは言っても町並みは対して変わらない。通勤ラッシュでスーツや制服を身に包む人の群れが信号を渡り、ファーストフード店には朝飯を買い求めに来た人だかりがあった。

 俺の腹はもう少しで背中にくっついてしまいそうな具合までになって来た。視線があちこちに散っていく。そしてその先には決まって人間の素肌。ミニスカートから伸びる細くて綺麗な足、携帯電話と話すたびに脈動する健康的な喉元の若い女性。歯ごたえのありそうな筋肉質な男の腕。朝のランニングだろうか、薄着で帽子とイヤホンを身に着けた女性が俺達の横を通り過ぎた。女の汗と体臭が鼻を刺激し、一気に飢餓感と食欲が増した。


 (抑えろ抑えろ…!!)


理性で押さえつけても体は正直だった。銃を保持している手は震え出し、涎も口の中で溢れてそうになる。人とすれ違うごとに一歩、また一歩と地獄へ近づいていく。


 『おい、いい加減喰ったらどうだ』

 (人なんか喰えるわけねえだろ。俺は…人間だぞ)


青龍が馬鹿にするように俺を笑った。未だに腹は鳴り続ける。


 『そうか、じゃあ極限まで餓えてみたらいい……こりゃあ楽しみだな』


BEASTとしての体を必死に否定し、抵抗し続けた。だが体の本能は血肉を求めて悲鳴を上げていた。そして感覚は一段と尖っていった。数メートル離れた人々の吐息や体臭すら感じ取れてしまい、素肌に浮きでる血管が鮮明に見る事が出来た。少しづつ自分がBEASTとして目覚めつつある現実に飲まれそうになる。


 (俺は人間だ……人間だ人間だ人間だ人間だ!!)

 「おい、吉隠?」


高月の声と、肩を叩かれた感触で現実に戻った。はっとして高月の怪訝そうな表情と向き合った。


 「大丈夫か? 顔色悪いぞ」

 「ああ……ちょっとな。でも大丈夫だ」

 「……吉隠、ちゃんと飯食っているか? 俺達軍人も健康第一だぞ」


こいつの勘の鋭さは今この時点では非常に厄介だ。


 「あ、あんたら軍人だよな!? た、助けてくれ!!」


突然、俺達に助けの請いをしてきたのは高い身長に大柄な体格をした男だった。プロレスラーにも引けを取らない筋肉は服の上からでもわかるものだった。


―――ボリュームたっぷりの胸板だな


意志とは反してふと漏れかけた言葉に背筋がざわついた。慌てて我に返った。


 「落ち着いて、何があったの?」


結衣が男をなだめて話を聞き出す。男は焦りの余り混乱しているようだ。


 「ば、化け物に襲われたんだ!! 俺は助かったが香織かおりが、俺の彼女が重体なんだ!! 早く来てくれ!!」

 「大丈夫だから、場所は? 案内できる?」

 「すぐそこだ!! 早く!! 香織が死んじまう!!」

 「清滝さん、一応連絡したほうがいいっスよね?」

 「頼むわ」


走らずにはいられない男は俺達を追い立てるように案内した。


 「どんな化け物か覚えてる?」

 「わ、わからねえ。俺も焦っちまって…」


俺達は男に当時の事情を聴きながら言われるがまま案内された。男の名は川本かわもと、二十六歳で土木作業員。デート中に襲撃されたらしい。

騒がしい町から一転、静寂に包まれた路地を通るのはどこか不気味な感じだった。男がここだと指を差した方向には廃墟となった廃ビルがそびえ立っていた。


「ここの地下駐車場だ、早く!!」


何故か胸の奥に変なざわつきを覚えた。そう、「嫌な予感」と言うやつだ。


 『どうしてそう思う?』

 (何となくだが……)

 「おい、なにボケッとしてんだ!! 早くしろよ吉隠!!」


山田の頭に響く声で銃を改めて握り直し、地下へ進む四人の後ろを追った。


地下は朝昼とはいえど光はあまり届いておらず薄暗い。


 「香織!! 助けが来たぞ!!」


川本が駆け寄った先には女性が倒れていた。結衣と高月も駆け寄り、俺と山田は周囲の警戒に当たった。だが俺は周囲よりもあの男女が気になって仕方がない。


 結衣が女の状態を診ていた。清楚な感じの女、香織は気絶しているのか目を閉じて動かない。それに右腕を鋭利な物で切り付けられたような傷があり出血している。だが見た感じそれ以外の外傷はなく、それほど重傷には見えない。


 「……大丈夫よ、腕を切られているけど傷は浅い。安静にしておけばそのうち目覚めるわよ」

 「そうですか、よかった……」


緊張から解かれた川本は肩から力が抜け、安堵の表情を浮かべる。


 「じゃ、食事と行きますか」


突如全身の肌が粟立ち川本の言葉に反射的に振り返った。その時には高月の姿が消えていた。いや、消えたのではなく壁まで吹き飛ばされていたのだ。目が追いついた時には高月はコンクリートの地面に滑り落ちていた。


 「あんたたち――」


結衣の首に倒れた香織の手が喰らいついた。ぎりぎりと締め上げ軽々と持ち上げた。


 「遅すぎ、いつまでかかってんの」


香織の右腕の傷が瞬く間に塞がった。


 「おいおい、感謝の一言くらいよこしてもいいだろ……あの男2人をやる、その女と無線機持ちはお前の分だ」


川本が一度固く目を閉じ、ゆっくりと目を開けると薔薇の花弁のような赤色が現れた。


 (見ろ見ろビンゴだ!!)


咄嗟に構えて引き金を引こうとした時には、川本は俺の懐に入り込んでいた。棍棒のような太い腕を振り上げる事で銃を弾き、そのまま腕を振り降ろした。頭を鈍器どころか重火器で直接殴られたような衝撃だった。被っていた鉄帽は拉げて、俺は地面に叩きつけられた。


 「く、来るな!!」


恐怖ですくみ上った山田は闇雲に銃を乱射した。川本はとてつもない瞬発力で飛び上がる事で銃弾をかわし、落下する勢いで山田に跳び膝蹴りを浴びせようとした。


 (あの、ボケ!!)


俺は急いで跳ね起き山田の前に飛び出した。腕を交差して受け止めたが勢いに負け、近くの車のボンネットに叩きつけられた。


 「じ、邪魔だ!! どけ吉隠!!」


山田は俺に構うことなく続けて乱射したが川本に一発も当たることはなかった。


 (…助けたのによ……)


折れた鎖骨の痛みは山田へのイラつきで和らいだが、それでも危機的な状況なのは変わりない。川本は一気に山田との距離を詰めて鳩尾に鋭い突きをねじ込んだ。あまりの力に山田はその場に崩れ落ちた。


 「このっ……!!」


結衣が喉を掴む香織の腕に絡みつき体重とひねりを利用して投げ飛ばした。結衣は地面に倒れざまに銃を構え香織に数発の銃弾を浴びせた。だが香織は軽く肉が抉れただけで軽傷だった。


 「そんな……撃たれたのに!?」

 「へえ、肉のくせに以外にやるのね」


銃弾で抉れた傷口が音をたてて急速に癒えていく。結衣が銃を連射に変えて発砲した。だが香織は地面から壁、壁から壁、壁から地面と俊敏に、縦横無尽に駆け回った。結衣の銃弾はコンクリート製の地面や壁にめり込むばかりだった。


 「ほら、当ててみなさいよ」


香織が壁に張り付くと両手の皮膚が剥がれ落ち、筋繊維が剥き出た素肌が露見した。その上から赤黒い外骨格の様なものが包み込み、たちまち鋭利な鉤爪が作られた。BEAST特有の攻撃器官、獣器だ。

香織の目が赤く光りだした。香織は壁を思い切り蹴り飛ばし、結衣に襲い掛かった。結衣はぎりぎりで身を反らし銃剣で香織の腕を横へ逸らした。


 「反応はいいけど、まだまだ」


香織は結衣の反撃の刺突を避けると同時に、結衣の肩を切り裂いた。4本の切り傷から血が噴き出した。それを見た俺は青ざめた。


 「結衣!!」

 「よそ見禁物だぞ?」


川本がつま先蹴りで俺の顔面を蹴りあげた。鼻血が止めどなく流れてきたが気にしていられるわけがなかった。川本が追撃で放ったラリアットを、銃を盾にして受け止めた。勢いに負け大きく後退した。


 (くそ!!)


銃がくの字に曲がり、ただの鉄くずに変えられた。銃を放り投げるとすぐさま体術に切り替え、本来人間の急所を狙って突きと蹴りを放った。だが川本はそのすべてを受け流すか避けた。


 「ぎこちねえな、動きが」


当たり前だ、こちとら飢餓感や骨折を背負っているのだ。川本の槍の様な蹴りは俺の腹を捕らえ、木の枝が数本折れた様な音が聞こえた。そのまま勢いで壁まで吹き飛ばされた。急に胸を押し付けるような圧迫感に負けると大量に吐血した。


 「お前、いつ俺がBEASTだと気付いた?」

 「……今だよ」

 「嘘だな、もしそうなら山田とか言う奴みたいにパニックになるのが普通だ。でもお前は冷静だった…どこかで気付いていたんだろ?」


――例えば、こんな廃墟でデートした事、真っ先に呼ぶべき救急車やABRを呼ばず俺達を、それも電話等でなく直接連れてきたこと。「まさか……な」の積み重ねが俺にはあった。


 「それにお前、見かけによらず頑丈だな。さっきの鉄槌や蹴りを喰らってそれか。普通だったら頭や胴体がさよならしているはずだ」

 『おい、このままだと一方的にやられるぞ』

 (まだ動ける)

 『相手は2人、加えて今のお前は酷い飢餓状態だ。勝てる相手じゃない』

 (じゃあどうしろって言うんだよ!! このままあいつらのディナーになるのを待つか?)

 『そうじゃねえ、オレが言っているのは「今のお前」の話だ。こういう時こそオレの出番だよ。BEASTに勝てるのはBEASTだけだ……わかるな?』


つまりはこう言いたいのだろう――俺が否定し続けているモノを受け入れろ、と。それは自分自身が人間ではないことを認める事だ。


 (嫌だ……)

 『いいのか? このままじゃお前も、お前の愛しいあの女も食い殺されるぞ』


壁を伝って立ち上がると同時に顎下を蹴りあげられた。更に上下左右から拳と蹴りが容赦なく全身にねじ込まれた。


 「まだまだ!!」


足首を掴まれると何度も地面に叩きつけられ、その衝撃で背骨や内臓に異常が発生しているのは痛みで感じ取れた。最後は空を裂くほどの強烈な速さで車に向かって投げつけられた。窓ガラスを粉砕し車の扉を突き破った。


 (……死ぬ、かも)


原型をとどめないほど破壊された車の中で大の字に倒れた。意識は何とか保てたが立つ力すら残されていなかった。それ以前に生きているのが不思議だ。


 「龍!!」

 「仲間が心配?」


左の鋭い爪で銃を押さえつけると右手で結衣の左肩を切り裂き、流れざまに左足も切り裂いた。結衣が怯むと、香織は結衣の腹を蹴り飛ばした。血をまき散らしながら地面に倒れた結衣は呻いていた。香織は結衣の腕を掴むと鉤爪で袖を引き裂いた。


 「いただきま~す」


香織が結衣の引き締まった腕に喰らいつき、血をまき散らしながら肉を喰いちぎった。結衣は堪らず悲鳴を上げた。息が止まり、目が落ちそうなぐらい見開いた。


 「ああ、美味しい。これなら内臓も期待できそう」


更にもう一口腕の肉を喰いちぎった。地下駐車場に結衣の悲鳴が響き渡る。


 『ほら見た事か、お前が受け入れないから女が喰われたぞ?』


結衣が喰われた?   俺のせいで? 


俺が受け入れなかったから?   俺が悪いのか――


 『そうだ。相手はBEAST。だったらリスクを冒してでも助かる道を選ぶのが普通じゃねえのか? 人間様はよ…』

(でも助かる道って……)


どこかで否定している自分が俺を陽炎のように揺らめかせている。


 『お前は軍人だろう? 人を守るのが仕事なんだろう? なら一ついい事を教えてやる。何かを「守る事」は何かを「捨てる事」だ。いざと言う時には何でも捨てられるやつを「強い奴」、守る必要のないものにいつまでも拘るやつを「弱い奴」と言うんだ……なあ龍、「今のお前」は「どっち」だ?』


一瞬体全身が強く脈打ったような感覚があった。その後から段々体が軽くなっていった。


 『そうだ、難しい事じゃねえ。お前はもっと素直になればいいだけだ。無理して真面目君を振る舞う必要はねえ。お前がどう思ったのか、どう感じたのか、どうしたいのかを表に出せばいい……さあ、お前の仲間はピンチだ、どうする?』

 (……助ける)

 『このままだとお前の好きな女がもうすぐ骨の髄までしゃぶり尽されそうだ、どうする?』

 (…助ける)

 『そのためには相手をどうする?』

 (殺す)

 『そうだ。だが今のお前にはその力がない……どうする?』


体がより軽くなり、痛みも全く無くなった。そして全身の感覚が薄れていき、やがて消えた――


 「おい、つまみ食いか? もう少し辛抱しろよ」

 「仕方ないでしょお腹すいたんだから」


川本が俺の胸倉を掴み軽々と持ち上げた。


 「まったく、こっちまで腹が減って来たじゃないか」

 「……俺もだ」

 「そうだよな……え?」


川本の手を掴み親指に軽く力を込める。


 (関節技は力を必要とせず体格差があっても通用する…だよな? 水瀬)


油断しきった川本の手を捻る事で体勢を崩した。全身を使って振りかぶった拳が川本の顔面に衝突し、壁まで吹っ飛ばした。この一瞬の出来事に唖然として動きを止めた香織を見逃さなかった。一気に詰め寄り結衣の腕を掴んでいる香織の腕を蹴りあげた。鋭い鉤爪を持った香織の腕が完全に折れ曲り、骨が皮膚を突き破った。


 「こ、こいつ!?」


体格でも力でもBEASTに劣る人間がこの様な荒業が出来るわけがないと思っているんだろう。本来はそうだ。だが目の前にいるのは、「今のところ」人間ではない。


 「……結衣から離れろ!!」


香織の鳩尾に全身の体重を乗せた掌底打を放った。香織は数メートル先まで吹っ飛んだ。手のひらから香織の胸骨が折れたのが分かった。


 (これがBEASTの力……)

 『こんなの序の口だ。まあ、初めてにしては上出来だ』


それでこれほど人間離れした技が出来る。これなら望みはある。だがこれほどBEASTを避けてきたのに、BEASTに傷つけられたのに頼るべきものがBEASTなんて皮肉にも程がある。


 「結衣!! 俺がこいつらを引きつける、きついとは思うが二人を頼む!!」

 「何言っているの!! 龍一人で、しかも二体も相手するなんて無謀よ」

 「ケガ人のお前が人を二人連れて行くよりよっぽど簡単だ」


香織は血混じりの咳をしながらも立ち上がり、聞くだけで背筋がむず痒くなるような気持ち悪い音を立てながら曲りくねった腕を治した。


 「早く行け!!」

 「……泣いて帰っても知らないわよ!!」


足の傷のせいか走り方がぎこちなかったが結衣なら大丈夫だ。


 (とにかく、時間を稼ぐ。奴の注意をそらす)

 「仲間の命のために己の命を捨てる。素晴らしい言葉ね、反吐がでる。そんなもの欺瞞に溢れているだけで、そこに優しさも強さもない」


血が混じった唾を吐き捨てた。


 「やらない善よりやる偽善だ」


香織が嫌悪感に満ちた顔で鉤爪を後ろに引いて走り出した。それに合わせて腰に帯刀していた銃剣を引き抜き走り出した。


 「口先だけの肉が!!」


香織の引いていた右の鉤爪が心臓に向かって飛び出した。それをぎりぎりまで引きつけてかわし、左の脇で固く抱きしめる事でひじ関節を極めた。手に持っていたナイフを香織の紅く光る目に突き立てた。香織の悲鳴に構うことなく更にナイフをごりごりと押し込んだ。


 (やっぱり、目は弱い!!)

 『よく気が付いたな』

 (勘だけどな!!)


 その時、側頭部に衝撃が走り、地面を勢いよく転がった。見るとそこには頬を痛そうに摩っている川本がいた。


 「何しているんだよ香織」

 「うるさい!! 顔面を思いっきり殴られたクセに。ああクソッ、目を刺されるとこんなに痛いのか!!」


香織が呻きながら刺さったナイフを引き抜いて投げ捨てた。俺は急いで起き上がって構え、走って来た川本に対して備えた。BEASTとは言え筋肉質の巨体が邪魔しているせいか動きは単調で遅い。慣れてくると繰り出す突きも蹴りも恐くなくなった。のろまな回し蹴りを低い姿勢で避けると同時に軸足を払いあげた。大男が宙をくるりと舞い、後頭部から地面に落ちた。不幸な事に自分の体重が頭部へのダメージを増加させていた。

 (骨を折っても目を潰してもすぐ治る。なら狙うべきものは……)

香織の鉤爪が首を切り裂こうと真横に薙いだ。それを腕で防ぎ、片方の腕で香織の顎に掌底打を入れた。心地よい衝撃が前腕部だけで収まり、香織の目がゆっくりと上を向くのが分かった。


 (脳震盪だ!!)


香織が膝から崩れ落ち地に伏せた。川本は呻いているだけでたいして動けているわけではなかった。二人を警戒しながらも高月に肩を貸している結衣の元へ駆け寄った。


 「よう……お前血だらけじゃねえか」

 「お前は元気そうで何よりだよ」


冗談で返すが痛みに耐えながらも笑って見せる高月の姿が、俺を余計に不安にさせた。


 「もう、平気です清滝さん、歩けます。それより伸びている山田を連れて行ってください」


そういって高月は結衣の腕を退けた。背中の粉々になった無線機を降ろし「こりゃあ弁償確定だな」と肩をすくめた。


 「本当に大丈夫か高月」

 「大丈夫だって、それにあの2体も気に掛けねえと」

 「あいつらなら俺がやった。暫くは動けないさ」

 「ホントウニソウカ?」


どきりとして振り返ればそこには息を荒げている川本が、紅い目をぎらつかせて立っていた。せっかく捕らえた獲物にありつけずにいる怒りを露わにしていた。川本が拳を振り上げ無上の一撃を放とうとした。


 (しまっ――)


突然駐車場に鳴り響いたのは無数の銃声だった。川本は顔面と腕に弾丸を撃ち込まれ、怯んだ。


 「離れろ!!」


誰の声かわからなかったが川本を蹴り飛ばし、高月を掴んでその場を離脱するように飛び跳ねた。その瞬間川本の四方から銃弾の嵐が襲い掛かった。川本は無残にも弾丸に喰い尽されていった。


 「……SAT!?」


発砲した方向を見ると胸や背中にSATの3文字が書かれている兵隊がいた。入り口からSATの隊員が次々となだれ込んできたのだ。川本や倒れている香織を制圧しにかかった。


 「まったく、なんてタイミングだ。美味しすぎだろ」

 「高月!? お前が呼んだのか?」


SATたちが放った弾丸は的確に2人の手足や急所を撃ち抜き、動きを止めつつ無力化していった。


 「他に誰がいるよ?」

 「でも無線機……」

 「壊したとは言ったが応援を呼んでいないとは言っていないぜ? この駐車場に入る時には呼んでいたんだよ」


本当にこいつの勘は呆れるよ。


 「この…肉共が!! 殺す、殺シテヤル!!」


怒りに支配された川本ががむしゃらに地を這うが、彼の抵抗は虚しく体中に銃創を作り、とうとう動かなくなった。彼の血に伏せたコンクリートから赤い海が少しづつ広がっていった。



 SATたちの制圧で香織と川本は拘束された。手足を縛りあげ猿轡を咥えさせた。高月はABRも呼んでいたらしいがまた他の区で戦闘が始まったらしく、人数を割くのが難しい状態らしい。

 緊張が解けた途端に襲い掛かって来たのは忘れかけていた身を裂くような飢餓感だった。底尽きない食欲は理性を奪っていった。


 「ちょっと、龍? 大丈夫?」


結衣が俺を気に掛けて近寄って来た。負傷した腕をみて心臓が強く早く脈打ち、血肉を求めて暴れ続ける胃袋に呼応して手足が震え始める。赤く抉れた傷口、地面に滴る鉄の臭い。このままでは人を、よりにもよって自分の想い人を食い殺してしまう。


 (ダメだ。それだけは……お前だけは!!)


何のために皆を守ったんだ、今地獄の苦しみから逃れたとしても、その時が最後、本当の地獄を見る。そんな簡単な想像ができるのに。体はおもちゃが欲しくて大声で泣きわめく子供の様に素直だった。

 結衣が心配して俺の顔を覗き込んできた事で体の震えが激しくなった。結衣から見ればショックで低体温症を起こしたと思ったのだろう。驚いた結衣は来ていた戦闘服を脱ぎ俺に被せた。結衣の薄着が不幸にも俺を地獄に突き落とし、シャツの下にいる綺麗な肌をした健康体は俺に止めを刺した。


――あの鎖骨のラインが堪らねえ、すげえ美味そうだ。首を齧り取ったら血を啜って、口いっぱい肉と内臓を頬張ってやる……


 「誰か来て!! 吉隠3曹がショック状態よ、衛生兵!!」


手が勝手に動き出し、結衣の肩を掴んだ。歯がガチガチと音を立てぶつかり合い、抑えが利かなくなった。


 「大丈夫よ、今衛生兵を呼んだから。気をしっかり持って」

 (……無理だ)


――いいじゃねえか、腹減ったんだからよ。喰っちまえ


青龍の声ではない、これは自分だ。これが素直な自分、ただ餓えた(ビースト)


 「落ち着いて、助かる――」


結衣をぐんと引き寄せ口を精一杯開くと首筋に顔を沈めた。

補足


・BEAST

人の肉を食べる事でしか生きていけない怪人。見た目はごく普通の人間だが、動物に似た怪物に変身する事ができ、これで人を襲う。体の一部だけの者もいる。形状は様々。

基本的には人間より身体能力や感覚機能は優れている事が多い。肉体も多少の斬撃、銃撃なら再生するが、その分飢餓感が増し自我を保てなくなる。また、共通して目が紅く、暗闇で淡く光る。


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